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殺人鬼・無々篠シリーズ

楽園の林檎と鳥籠の蛇

作者: 緋色友架


「…………へぇ、面白い」


 幼く可愛らしい言葉にしては、生々しく妖艶な、なんとも形容し難い、少女の声が聞こえた。

 それは、強いて例えるなら、蛇が獲物を見つけて舌舐めずりをしているかのような、一種の毒々しささえ兼ね備えた声だった。呑み込まれたら、掴まれたら、いやそれ以前に耳に響いただけで、対象の理性を容易く溶かしてしまうような。

 魅力と言うよりも、魔力。

 侵食と言うよりも、侵略。

 自分の理性が、脳が、身体が、精神が、残らず蝕まれていくのが、ありありと感じられた。生きたまま身体を咀嚼されているような、正しく正しく寸分の狂いなく侵されているような、痛みさえ伴う恍惚の支配が、俺の全身に蔓延っていくのが、目を瞑っても、寧ろ目を瞑った方がよりよく分かった。

 分かり過ぎたくらいだ。

 全身――――その言葉ほど、俺にとって虚しく響く文言はないというのに。


「ねぇ、君って、生きているの? それとも、死んでいるの?」


 それとも。

 少女は続ける。

 目を閉じた俺の視界には映らない、あの妖艶な少女の声が、さも可笑しげに続ける。

「生きてもいないし――――死んでもいない、のかな?」


「……………………さあな」


 俺はそこで、ようやく声を出すことが出来た。言葉を発することが、可能になった。

 これは少女から質問を受け、それに答えなければならないという義務が生じたからという、あくまで少女に俺の支配権が移っているということの陳腐な証明に他ならないのだが、だがその動作に、俺は驚きを隠し切れなかった。自分の動作なのに――――自分が、ちょっと喋っただけなのに――――それだけなのに。

 俺は、自分が声を発することが出来るとは、今の今まで思えなかったのだ。

 先天的な疾患ではない、況して後天的な失陥でもない。

 ただ単に、物理的に不可能だろうと思っていたまでだ。

 ……いや、それを言ったら、俺の今置かれている状況そのものが、物理的どころか生物学的に、全宇宙的におかしいと言わざるを得まい。地球人以外の宇宙人とのコンタクト経験が皆無であるこの俺が、果たしてそれを断言出来るのか、という屁理屈めいた議論は置いておいて。

 ……ああ、冗談を思えるくらいには、理性が回復してきているな。


「さあな、ねぇ。…………ね、目、開けないの?」

「…………なんでだよ」

「話す時は相手の目を見て、って、お父さんお母さんに教わらなかった? うん、まあ私は教えてもらわなかったけど」

「…………俺は見世物じゃないぞ」

「うん。それは重々承知。どちらかと言えば、君は見世物というよりも偽物だよね。人間の偽物。――――っふふ。知ってる? 『偽』っていう漢字はね、そもそも『人為』を表しているんだって。君にぴったりだと思わない?」

「…………なにがどうぴったりなんだよ、それ」

「ん? いやだってさぁ。ここまであからさまに人の手が加えられた人体っていうのを、私は今までの人生で見たことがないよ? うん? 人生…………それもちょっと違う気がするけど……まぁいっか」


 少女の声は、まるで意味の分からない言葉しか紡がなかった。

 だけどまあ、納得出来る部分がまるでない訳でもない。確かに、そういう意味で言えば俺は立派な『偽物』だろう。無論、俺は正真正銘の人間なのだが。

 …………いや、少し違うか。

 正真正銘の人間だった、か。


「ねぇ、君はなんでここにいるの?」

「そんなロマンチックな問いに答えんのは、俺には不可能だな。俺をこうした奴に訊いてくれ」

「じゃあ、目ぇ開けて」

「ヤダね。現実を認めたくないし」

「それはもう、一周回って現実を認めている人の台詞だよね? …………ん? 人? むむ?」

「人であたってるよ。…………まぁ、確かにそうかも知んねー」


 現実を認めたくない。

 それはつまり、認めたくない現実がそこにあると認めた上で、それを拒否しようとすること。

 大した矛盾律だ。


「君さぁ」


 少女の弾んだ声が聞こえる。


「君をそんな風にした奴に、会ってみたい?」

「…………? どういう意味だよ、そりゃ。お前、当てでもあるのか? それとも、お前自身が犯人――――とかってオチか?」

「そんな三文ミステリー小説みたいなつまらないオチはないよ。当てだって、残念ながら皆無」

「…………じゃあ、お前のその台詞は、一体どういう意味なんだよ」

「意味なんてないよ。強いて言うなら、単なる興味」


 少女は、悪びれる風もなく、ただ平然とそう言ってのけた。

 興味、と。

 俺をこんな状態にした奴に逢いたいと願う動機を、ただの興味と。

 バカにするのも大概にしろ、という話である。

 だが。


「…………お前、一体なんなんだ?」


 俺はそこで、憤慨するよりも先に、少女の方へと興味が向いていた。

 それはさっきの、少女から感じた圧倒的な支配感の所為かも分からなかったが、しかし、とにかく俺は少女の正体の方が気になったのだ。

 俺の問いかけに、ナイフのようにヒンヤリとした少女の指が応えた。


「――――っ!」


 温もりなど欠片も込もってはいない細い指が、百足かなにかのように、俺の頬を這いずり回る。蠢く関節が、鼻やら瞼やらに触れる度に体温を奪われているような心地がして、思わず悲鳴すら出かけたほどだ。

 少女は俺のことを観察するかのように、執拗に、俺の全身に指を這わせた。

 頭、額、目、鼻、耳、唇、顎、首。

 輪郭をなぞるようにして動く指は、どれだけ経っても、氷で出来ているのかと疑わざるを得ないくらいに冷たいままだった。

 やがて、少女は俺の検分を済ませて、身体から指を離した。


「私のこと、訊いてたね」


 思い出したように呟く。

 雪のように軽くて、小さくて、それでいて刺すような冷たさも持った声で。


「私は、あなたをそんな風にした奴の、所謂同類って奴だよ。世間一般じゃ、『殺人鬼』って言った方が分かりやすいだろうけれど」

「さ、殺人、鬼?」

「そ。殺人鬼。…………引いた?」

「引かない人間がいたら、是非是非お目にかかりたいもんだな」

「…………だよね」

「それで…………俺を殺した同類さんとやらに会いたいと、そういう訳か」

「うん、まあ…………そんなとこかな」

「人のこと面白いとか言ってる割には、お前の方がよっぽど愉快な神経してやがるな」

「う…………」

「――――いいぜ」


 へ?

 少女の困惑したような声が響く。

 俺は――――ゆっくりと、その目を開けた。


「え、今、なんて…………」

「…………一番最初に、お前から感じた圧力みたいなのは、一体なんだったんだよ。んな風にキョドられたら、こっちまで恥ずかしいじゃねえか……」

「た、溜め息吐かれても…………あれはちょっと、その、興奮していた、としか…………」

「肉食獣みたいな奴だな…………。だから、いいって言ってんだよ。俺を殺した奴を探したいんなら、ご自由にどうぞってんだ」

「…………その言い方は、正確じゃないよね。君はまだ死んでないじゃん。だからこそ興味深いんだけど」

「似たようなもんだろ。こんなんなっちまったら、もう死んでるも同然だ。なにせ、手やら足やらをぶった切られたのとは訳が違う――」


「――首から上以外、残らずなくなっちまってんだからよ」


「うん…………そうだね」


 自虐的に放られた俺の言葉に、目の前の少女は可笑しそうに微笑んだ。

 そうだ――――今の俺には、首から上、つまりは頭の部分しか残っていない。腕やら脚やらそれらがみんな引っ付いた胴体やらは、俺の首の下からなくなっている。

 つまり、文字通りの生首という訳だ。


「生首っていうよりは生き首ってところだね。なのに、君は息が出来る。唾も飲み込める。生きる上でなんの支障もない――――そうだよね?」

「……ああ」


 正直、最初にこんな状態になっていると気付いた時は、随分とパニクった。何せ、朝起きて布団から出るような感覚で目を開けたら、見知らぬ路地裏にいて、しかも首だけだったのだから。そりゃパニクりもする。

 だが、待てど暮らせど、俺が死ぬ気配はなかったのだ。言ってしまえば、ただ首から下がないだけ、というだけで、特に身体に異常なども感じない。一〇分も経った頃にはもうすっかり落ち着いてしまっていた。

 そして、一時間ほど動くことも出来ずに呆としていたら、この少女と巡り逢ったと、まあそんな感じだ。


「もしかしたら、それは君の特性なのかもね」

「…………殺されても死なないことがかよ。そりゃ、大して嬉しくもない特殊能力なこった。どうせなら、死んでもすぐ生き返るっつー方がよかったぜ」

「違う違う。そうやって、落ち着いてるとこ」


 おどけるようにして、少女が言った。

 落ち着いているところ、ねぇ。

 まぁ確かに、俺は結構落ち着き払っている方かも知れない。自分を殺人鬼だと申告している少女のことだって、こうして大層怜悧な視線で観ることが出来ているのだから。

 ウェーブのかかった二つのお下げ。丈の長いスカート。色気ゼロの赤いTシャツ。その上に羽織った男物の灰色ベスト。幼さの残る顔つき。悪戯っぽく微笑んでいる口許。泥とは違う、赤黒い汚れに染まったスニーカー。

 殺人鬼の少女は、およそその物騒な語感からは想像出来そうにない、なんというか…………普通の少女然とした格好をしていた。

 奇抜さで今の俺を驚かそうというのは、ちょっと無茶があるけど。

 大体、殺人鬼らしい格好っていうのもよく分からないが。


「私、無々篠(ななしの)林檎(りんご)っていうの」


 少女――――林檎は、照れ臭そうに頬を掻きながら名前を言った。更に、俺に名前を言えと急かすように顎を突き出してくる。

 …………仕方なく、俺も名前を告げた。


「……朽縄(くちなわ)愛鬼(あさと)だ」

「くちなわ? あさと?」

「ああ。朽ちる縄に愛の鬼で、朽縄愛鬼だ。…………こら、なに笑いを堪えるような顔してんだ。目に涙溜めて頬膨らませて、その上顔真っ赤だぞお前」

「………………変な名前……!」

「堪え切れずに泣きながら言ってんじゃねえ! ああ分かってるさ! どうせ俺の名前は変だよおかしいよ! でもお前だって人のこと言えないだろうが! なんだ『無々篠』って! 権兵衛かてめえ!」

「いいのよ私は。名前が一般的かつ超可愛いから」

「んだとこらぁ――――――――!」

「ねぇ、愛鬼」


 怒鳴る俺を華麗に無視して、林檎は覚えたての言葉をなぞる赤ん坊のように俺の名前を呼んだ。


「愛鬼も、会いたくない? 愛鬼をそんな身体にした張本人に」

「…………どうだろうな。言いたいことは、ひょっとしたら、あるかも知れないが」

「よくもこんなのにしたなー、的な?」

「ま、そんなところだ」

「ふうん…………仇討ち、って奴?」

「どっちかっていうと、仕返しじゃねえ?」

「どっちでもいいかも。それじゃ、一緒に行こっか。その殺人鬼さん探しにさ」

「…………一緒に行くのは構わねえが、俺はお前に運んでもらわねえと動けねえぞ」

「それくらいはやるよ。丁度いい入れ物もあるし、話し相手も欲しかったしね。色々と丁度いいや」


 言って、林檎は、まるで握手でもするかのように手を差し出してきた。

 陶磁器のように白くて小さい、しかしどうしようもなく汚れ切った、その手を。


「これからよろしくね、愛鬼」


 本来なら。

 本当なら、俺はここで林檎の手を握り返すべきだったのかも知れないけど。

 生憎、俺には握り返す為の手が無かった。



「哭ほ…………え? 何だっけ?」

「だから、哭骨町。今向かっている町の名前だよ。…………愛鬼、もしかしておバカさん?」

「うるせえ。町の名前なんざ、自分の出身地と居住地だけ覚えてれば問題ないって、俺は習ったんだよ」

「ふ~ん。どーでもいいことはよく覚えてるね」


 矢鱈と『どーでもいいこと』を強調して、林檎は前を向いたまま、背後にいる俺に言った。

 これは別段、俺と林檎とが、会話する時でさえ顔を合わせたくないと思い合うような、そんな険悪な関係であるからではない。こと俺たちの関係性について考えるなら、それ自体は極めて良好と言って差し支えないだろう。『生体生首』と『殺人鬼』が殺人鬼を探しているという、そんなシュールな関係を的確に言い表す言葉を、俺は寡聞にして知らないが。

 個々の役割だけを言ってしまうのは簡単だ。俺が殺人鬼についての情報を思い出す、謂わば唯一の情報源。時々林檎の話し相手も兼ねる。

 そして、林檎は殺人鬼を探す為の足、プラスして殺人鬼を殺す武器。

 各々の目的と動機は明白だ。俺は俺を殺した奴に逢って、たっぷりと恨み言を聞かせてやること。林檎は殺人鬼を見つけて、そいつと殺り合うこと。

 どっちにしたところで、まずは殺人鬼本人を探さなければならない。その為に、互いに協力し合っている――――そう言えば聞こえはいいが、しかしやっていることと言えば人殺しに他ならない。

 こんな背徳的な関係を、一体どう表現すべきだろうか。

 閑話休題。思い返してみれば、そもそもそんな話ではなかった筈だ。

 そうそう、林檎が前を向きっ放しで、背後の俺と話している、この状況についてだっけ。

 確かに、一見すると林檎が俺に対して冷たいように見えなくもないが、しかしそこはそれ、いくら無法者の無頼漢である殺人鬼であろうと、最低限自分の身の安全を守る為には、交通ルールは守らなければならない。運転中に余所見をするなど、自殺行為に等しい愚行なのだ。

 運転中――――そう、今俺たちは徒歩で移動しているのではない。車で動いているのだ。しかも、ただの車ではない。


「~~~~~~~~♪」


 驚くべきことに、林檎が運転しているのは、彼女の矮躯にはあまりにも大きく無骨なバイクなのだ。

車やらバイクやらを愛でる趣味のない俺には、この大型黒塗りバイクの車種など分かる筈もないが、しかしそれでも、これが林檎のような身体の小さい少女が乗るようなものではないことくらいは分かる。一八〇とか一九〇とか、そういう見上げるほどに大きい人間が使うべき代物を、林檎は悠々と乗りこなしていた。しかも鼻唄交じりで。

 ちなみに当然の如く無免許。実際にいくつなのかは知らないが、見た目は小学生と言われても違和感のない林檎のことだ、高校生の俺と同じか、或いはそれ以下と考えて間違いはあるまい。ならば根本的な話、まず免許を取ること自体が出来ない。


「…………なあ、林檎」

「ん~? なに~?」

「今更な疑問なんだが、このバイクってどうしたんだ? 結構高そうだし、お前が買ったとは思えないんだが」

「……本当に今更な疑問だね。愛鬼、私と旅を始めて、もう何年よ」

「〇・二五年だろうな、強いて年単位で言おうとするなら」


 つまりは正味三ヶ月だ。


「何故それだけの期間、ずっとそこを放っておいたのよ」

「あまりにツッコミどころがでか過ぎたからだよ。まともにツッコんでられっか、こんな巨大な的」

「まあ、別にいいんだけどね…………これはね、お父さんが使っていたのを貰ったの。形見分けー、って感じで」

「形見分け、ね…………」


 無々篠科梨。

 無々篠柚子。

 三ヶ月ちょいの殺人鬼探しの旅を彩っていた雑談から聞き出した、こいつの二親の名前。

殺人鬼や人外魔境が闊歩する世界――――林檎の言うところの《裏の世界》では、知らぬ者がいないくらいに有名な殺人鬼夫婦だったらしい。イチャイチャラブラブカップルとしても名を馳せていたようだが、残念ながら二人とも既に鬼籍に入っているという。

 俺たちの雑談は、大半がこういう互いの身の上話で構成される。片や首だけ、片や殺人鬼の二人旅だ。他に話題がないと言えばそれまでだが、双方が一番興味を持っているのがお互いのことなのだし、第一この話題が一番盛り上がるのだ。

 一般人の俺にとって、殺人鬼の日常は刺激的で。

 殺人鬼の林檎にとって、俺の日常は憧れだったから。

 否応なしに、盛り上がる。

 ある種の虚しささえ、感じてしまうほどに。


「それじゃあ、お前の『殺人七つ道具』とやらも、親からの貰い物なのか?」


『殺人七つ道具』とは、林檎が人を殺す時や野宿する時、空き家や廃墟に侵入する時などに用いる、多種多様な凶器のことだ。ナイフや銃といった、凶器としては極めて一般的なものから、鋏や棘付きバット、鋸といった変わり種まである。


「ううん、違うよ」


 林檎はやんわりと否定の言葉を口にした。


「あれは、私のお兄ちゃんが暇潰しで作ったものを、私が押し付けられたの。他のみんなは要らないって言うし…………私だって、本当は要らないんだけど、七人兄弟の六番目って、そういうの拒否し辛くってさ。結局、残らず纏めて押し付けられた」

「暇潰しでどんなもの作ってんだよ、お前のお兄さん…………」


 しかも、そんなのがあと六人もいるのかよ。

 生涯お目にかかりたくねえ。


「んじゃあ、俺が入れられてるこれも、そのお兄さんの作品か?」

「ううん、それも違うよ。…………愛鬼、勘悪いね」

「く…………うるせえ」

「道に迷っても、愛鬼の勘にだけは頼らないようにしよーっと」

「ああ、是非そうしてくれよ」

「それはね、愛鬼」


 俺の皮肉をさらりと聞き流し、林檎は無理矢理に会話の軌道を修正する。

 林檎の手が小さく傾き、俺の二十センチ足らずの全身が大きく揺れた。縁に歯が当たって、めちゃめちゃ痛い。


「骨董屋で見つけて、試しにって買ってみたのよ!」

「たっぷりと溜めておいてそれかよ! 訳分かんねえよ! こんなものを骨董屋で買う意味が分からないし、そもそもお前が骨董屋に行く意味が土台分からねえ!」

「こう、なんていうか、心の琴線にビビビッときたんだよね。『あ、これ欲しい!』みたいな」

「完全なる衝動買いじゃねえか!」

「なによ。私がその天からの啓示に従ってこれを買ってあげたから、愛鬼はこうして私と一緒に旅とか出来てるんだよ? 感謝こそされても、怒鳴られる筋合いはないね」

「それにしたって、限度があ――痛っ! こら止め、痛っ、ちょ、痛いって! 止めろこら揺らすな! 痛っ! 止めろてめえ! 縁とか柵とかにガンガンぶつかるんだよ!」

「聞き分けがない愛鬼にはお仕置き」

「聞き分け以前に、お前には常識がねえ!」

「愛鬼…………殺人鬼になにを求めてるのよ。それこそ今更だけど」

「人としての常識よりも生物としての常識だボケ! どこの世界に人の生首を鳥籠に入れる奴がいる!」

「私だよ!!」

「威張るな!!」


 言い合って、疲れて互いにゼーハーと息を付いて。

 それから俺たちは、二人してバカみたいに笑い合った。

 喧嘩にしか見えないだろうが、これはこれでいつも通りのやり取りだ。いつまでもぽつぽつと身の上話ばかりしていても気が滅入るし、たまにはこうして空気を入れ換えることも必要。

 …………まあ、自分を運ぶ為の入れ物に、不満があるのも本当だが。

 鳥籠。

 鉄で作られた、黒塗りで無機質で、しかし天辺の装飾だけは瞠目せざるを得ないほどに素晴らしいという、古臭い骨董鳥籠。

 そんな鉄檻に、俺は入れられている。金糸雀か鸚鵡よろしく、鳥籠に。

 …………入るまでにどんなやり取りがあったかは、聞かないで欲しい。

 逢ってまだ数分しか経っていないとは露も思えぬ言い争いをしまくった上に、林檎の野郎は最初、俺を鳥用に作られた出入口から普通に入れようとしやがった。あの時感じた頭部の激痛は、きっと一生忘れることはないだろう。


「……で、今回はどんな感じなんだ? 林檎」

「ん? なにが?」


 一頻り笑った後、俺は相変わらずの背中合わせの状態で、林檎に質問を飛ばす。

 背中合わせと言っても、実際に合わせているのは、林檎の背中と俺の後頭部なのだが。


「いや、だから今回の町。哭骨町とかいったっけ? そこには、本当に殺人鬼がいるのか、ってこと」

「疑り深いなぁ。大丈夫だよ、今回のは信頼出来る筋からの、ちゃんとした情報だから」

「前の町でも、そんなことを言っていたよな。確かその町にいたのは、ペットばっかり殺してその首をコレクションしてた、単なる変態だけだったと思うが?」

「…………あ、あのままいってたら、遠からずあの人だって、殺人鬼の仲間入りだった、筈、だよ…………」

「頼りにならない返事だな……こりゃまた、話半分程度の気持ちでいった方がいいか」

「い、いや! 今回は本物だよ! 私が保証したげるから!」

「なにを以てそんなの保証してんだよ。俺の勘よりも当てになんねーよ」

「だってほら! 回り見てみ!」


 言って、林檎は後ろ手のまま、担いだ鳥籠をぶんぶんと左右に振り回した。その度に俺の身体はごろごろと転がりながら、鳥籠の鉄柵にぶつかりまくる訳だが、林檎は全く気にすることはない。当たり前だ俺の身体だし。

 一通り景色を見せたと思ったのか、林檎の手がようやく止まる。うぇ…………気持ち悪い、吐きそう。


「どう!?」

「目ぇ輝かせているであろうところ大変申し訳ないんだが…………噛み殺すぞボケ。胃もないのに吐くところだった」

「いやいや、そんなことはどうでもいいから、景観はどうだった?」

「あんな状態で見れるか! もっと落ち着いて見させろ! 取り敢えずお前は不用意に動くな!」

「…………はーい」


 渋々返事をした林檎。

 俺は林檎の膨れっ面を想像してほくそ笑みながら、言われた通りに辺りを見渡してみる。

 殺風景な道だった。

 いや、道と呼ぶのが不遜とさえ思える、ただただまっさらで平坦な大地が広がっているのだ。

 辺りには木一本生えていない。

 草一本自生していない。

 生命が、欠片たりとも存在してはいない。

 正に文字通りの、殺風景。


「なんつーか…………物寂しい場所だよな。本当にこの先に町なんてあるのか?」

「流石にそれくらいは信じてよ…………町自体はちゃんと存在するよ。地図で見たもん」

「それならいいんだがな…………。しっかし、この景色がどう殺人鬼と繋がるんだよ。まさか、殺風景の『殺』と殺人鬼の『殺』がおんなじだから、とか、そんな下らない理由じゃ……」

「い、いくらなんでも、そこまで下らないことなんて考えないよ! バカにして! もう一回お仕置きするよ!」

「それは殆ど自分が下らないことを考えていたと認めるような発言だよな」

「う~…………このまま事故ってやろっかな……」

「やってみろ。障害物もなんもないこの真っ平らな道路擬きでよ」

「…………………………………………ふぇ」

「だー! 泣くな! 運転中だろうが! 悪かったよおちょくり過ぎた! 謝るから! 泣くなこら! おい揺らすな! ホント悪かったから! マジでゴメン! すいませんでした林檎さん! いや林檎様!」


 俺は今にも泣き出しそうな声を出した林檎を慌てて宥めにかかった。首をゆっくりと絞められているような、そんな切ない音が断続的に聞こえてくる。林檎が必死になって涙を堪えている声だ。いや、涙だけではない。嗚咽も鼻水も泣き喚くことも、まとめて我慢しているのだろう。しゃくりあげるような声に交じって、壊れたレコードのようなノイズも聞こえてしまう。

 …………あー、やっばい。めっちゃくちゃな罪悪感。

 別にこいつは、泣くととんでもないことを仕出かすような、そんな漫画仕様のキャラではない。殺人鬼だからといって、そこら辺の感性は一般人と大して変わらないのだ。

 笑う時は笑うし、泣く時は泣く。

 ただ…………何故だろう、こいつが泣くと、数値に直せないくらいの凶悪な罪悪感に襲われるのだ。

 見た目も精神年齢も、総じて幼い所為だろうか。何か、例えるなら高校生の癖に小学校低学年の女の子に本気で口喧嘩を仕掛けて、手加減も手心も加えずに圧勝して泣かれてしまったような、居たたまれなさを感じる。

 しかも、林檎は林檎で結構粘着質な奴で、一度怒らせると、あまつさえ泣かせたりなどすれば、以降三日間は風呂に入れられた猫のように不機嫌な状態が続き、口を利いてさえくれない。

 二人だけでの流浪の旅の中で、そのような無言状態ほど痛々しいものはないのだ。


「ひっ…………ふぇ……ふぅ…………」

「そ、その、林檎…………」

「……愛鬼はイジワルだ…………」

「ご、ごめんなさい! 本っ当にごめんなさい!」

「…………やだ」

「いやホントに悪かった! 謝る! 全身全霊をもって謝るから!」

「やだったら、やだ」

「……………………林檎」

「やだ」


 どうやら相当お冠らしい。

 …………今のやり取りって、そこまで壮絶で酷いものだったかなぁ?

 いや、ごめんなさいマジでホントすいません。言い訳です弁解です逃げ口上です。はい理由とか過程がどうであれ、俺が女の子を泣かせたという事実は少しも揺るぎません、はい。

 自らの精神から猛烈に送られてくる、氷点下の冷た過ぎる視線に耐え切れず、口には出さずに猛省する俺。首から上だけしかないのに精神の存在を感じるとは…………矢張り心というものは、脳に宿っているのかも知れない。

 関係ないことに思考が飛びかけたところで、俺は改めて林檎に許しを請う作業を開始する。


「…………林檎~?」

「ダメだから」

「は?」

「絶対に許さないから」

「……………………」


 交渉を始める前にバッサリと拒否られました。何もかもを。


「いや、そんなこと言わないでくれよ。ほら、前にも一回こうして喧嘩してさ、その後、お互いなんだか気不味かったじゃん。二人旅での会話ゼロ状態って、相当キツかったじゃん」

「林檎は慣れてるもん。一人ぼっちとか、別に平気だもん」


 やべぇ。一人称が『私』から『林檎』に変わってる。これは…………ちょっと不味いかも。多分、今までの中で一番怒っているっぽい。可愛いけど。


「で、でも、さ。ほら、話し相手が欲しいって、言ってたじゃん、林檎」

「…………イジワルなのは、やだ」

「…………どうしたら、俺は、林檎に許してもらえるかな?」


 戦略変更。

 埒が開きそうにないので、俺は妥協点を見出すのに全力を注ぐことにした。


「俺が林檎を怒らせちゃったんだし…………首だけしかないけど、こんな俺でも、林檎の為にならなんでもするぜ? …………どうかな?」

「……………………」

「……………………」

「…………め……て……」

「ん? なんだって?」


「~~~~~~~~だからぁ! 褒めて! 林檎のこと!」


「……………………は?」


 スピードを緩めることなく走り続けるバイクの運転席。

 その上で、林檎は可愛らしい顔を耳まで真っ赤にして、怒鳴り散らしていた。


「林檎が殺人鬼の情報を見つけたら、褒めて! 林檎が、襲ってきた殺人犯から愛鬼を守れたら、褒めて! 林檎が、上手に人を殺せたら、褒めて! あと…………ん~、とにかく! 林檎のこと、なにからなにまで全部褒めてよ!」

「…………褒め、る? それだけで、いいのか?」

「いいの!!」

「まあ、それで許してくれるなら、こっちとしてもありがたいんだが…………それにしても、なんで?」

「…………だって、愛鬼……林檎のこと、褒めてくれないんだもん…………」

「………………あ~」


 確かになあ。

 今じゃ大分慣れた――慣れて『しまった』――けど、林檎は基本的に、殺人鬼だ。それは俺と旅をするようになっても、当然変わることはなく、林檎は必要に応じて、もしくは気の向くままに、或いは殆ど義務のような感覚で、人を殺してきた。

 当たり前だが、俺はその犯行を、被害者の次に近い位置で見てきた。そしてその度に、俺は林檎に詰問した。

『なんの理由があって、こんなことをしたんだ』と。

 林檎は言われる度に、困ったような、少し悲しんでいるような、曖昧な笑顔を浮かべて誤魔化していた。

 今思えば、あの詰問自体は、一般人である俺からすれば、至極当然な言葉だった。だが、殺人鬼である林檎からしてみれば、俺に殺人を否定されることは、自分自身の存在そのものを全否定されることと、何ら違いはなかったのだろう。

 実際、首だけしかないのに生きているっていうビックリ人間なこの俺が、今まで平穏無事に旅を続けられたのは、林檎がそうやって俺を守ってくれていたからだ。やり方は多少乱暴かも知れないが、それは殺人鬼である彼女にしてみたら、まるで見当外れな指摘に過ぎない。

 そんな林檎に対して、俺は今まで、『褒めてあげたこと』は、一度もなかった。

 責めるばかりで、褒めようなんて全く考えていなかった。

 ただ頑なに――――殺人を忌み嫌っていた。

 殺人鬼の殺人によって、辛うじて身の安全が保証されているだけだというのに。


「…………だめ?」

「いや、だめなんてことは…………」

「愛鬼は、林檎と一緒に行きたい? それとも――――人間に、戻りたい?」

「……………………それは……」


 林檎はなにも、大袈裟に誇張された話をしているのではない。

 人間を、まるで息でもするかのように殺す林檎は、最早人間とは呼べない。彼女は紛うことなき殺人鬼であり、それ以外では決してあり得ないのだ。

 ならば、林檎と共に行動している俺だって、その立ち位置は推して知るべしだろう。大体、首から上だけしかない人間を、まともに人間扱いしてくれる奴が一人でもいるだろうか。断言しよう、間違いなくいない。少なくとも、こいつ以外には。


「……………………」


 一人ぼっちは慣れている。

 そんなことを言っていたけど、でも、やっぱりそんなのは嘘なんだろう。

 誰だってなんだって、一人ぼっちは寂しい。殺人鬼だろうが生首だろうが、一人ぼっちは嫌なんだ。

 だからこそ、林檎は俺と一緒に旅をしている。今回の『褒めて』云々だって、ずっと一人ぼっちだった経験の反動がきたのだろう。残虐非道な殺人鬼といえども、林檎はまだ一〇代前半。甘えたい年頃だろうし、人恋しい時期には違いない。


「…………わーったよ。林檎」

「…………?」

「これからは、お前がなにかする度に、褒めて褒めて褒めまくってやる」

「ほ、本当?」

「ああ。お前が『もう止めて!』とか泣き叫ぶくらいに何度も何度も、どんな些細なことだって褒めまくって褒めちぎって褒め殺しにしてやる。覚悟しといた方がいいぜ、林檎」

「な、なんか、要求が通ったのに脅迫をされているような感じ…………。ふ、ふん! そっちこそ、覚悟しといてよね! 林檎だって、愛鬼の褒め言葉のボキャブラリーが底をついちゃうくらいに、褒められるようなことをたくさんやってやるんだから! 愛鬼なんて褒めさせ殺しにしてあげるもん!」

「その威勢のよさやよし!」

「キャー! 愛鬼に褒められたー!」


 一瞬ハンドルから手を離し、諸手を上げた上に歓声まで上げる林檎。バイクのバランスがほんの少しだけ崩れるが、慌てて両手を一緒にハンドルに戻――――


「痛ぁ!?」

「ああ! ご、ごめん愛鬼!」


 俺の入った鳥籠が、思いっ切りハンドルにぶち当たった。凄い勢いで鳥籠がぐわんぐわんと揺れ、後頭部や額をがつんがつん柵にぶつかる。もうホント、言い表せないくらいに痛い。


「だ、大丈夫?」

「あ、ああ…………なんとか……」

「その…………ごめんね、愛鬼」

「ん…………」


 上目遣いで林檎の顔を見上げてみる。平たい胸は俺の視線を遮ることはなく、殺人鬼の少女の幼い顔がよく見えた。

 林檎は――――なんとも申し訳なさそうに目を潤ませ、前方と、俺の入った鳥籠とに、交互に目線を送っていた。さっきとは違った意味で泣きそうだった。…………やばい、めちゃくちゃ可愛い。いやそんなもんじゃ済まない。可愛い。可愛過ぎる。それだけで既に殺人級なまでに可愛い! テラかわゆす(用法合ってるか?)!!


「林檎…………めちゃくちゃ可愛い!」

「え? な、なんか褒められた…………ちょっと、タイミングが違うような気もするけど…………」

「ツッコミにキレがある! 流石は林檎!」

「いや、今のはあんまりキレがあるとは言えないんじゃ……」

「謙虚な林檎、超素敵!」

「……………………」

「俺を見つめる林檎の慈愛に満ちた瞳の輝き…………感動した!」

「うわぁああああああん! 愛鬼が褒めまくってくるー!」

「そうしろって言ったのは、林檎だろう」

「天井知らずにも程があるよ! なんにもしてなくっても褒められちゃうのも、大分複雑だよ!」

「我儘だなぁ………………でも、そんな我儘な林檎もマジで可愛い! 超キュート! Very Cute!」

「うわっ、発音いい! …………じゃなくて! 愛鬼、いくらなんでも褒め過ぎ! 無節操!」

「えぇ~。そこまで言われるほど褒めまくってないぜ、まだ」

「まだ!? これからの道中、ずっと褒め続けるつもりだったの!?」

「俺なら出来ると、信じています」

「そんな確信はいらないよ! もう下手に嫌味とか悪口言われるよりも性質の悪いイジメだよこれ! 拷問だよ!」

「うむ。やっぱりツッコミにキレが――――」

「言わせないよ!?」

「いや、本当にツッコミにキレがあるよな…………林檎、もしかしてお笑い好き?」

「ぐ…………べ、別に、好きなんかじゃないんだからね! お、お笑いとか、愛鬼なんて、す……好きなんかじゃ、全然、ないんだから!!」

「いや、ツンデレられても…………でもそんな照れ照れの林檎もテラプリティ!」

「林檎が悪かったよー! もうそこまで褒めないで! 褒めさせ殺しとか諦めるから! せめて林檎がなにかした時だけ褒めてよ~!」

「了解しました、お嬢様」

「うにゃぁあああああああああああああああああ!」


 してやったり、と口端を歪める俺の頭上で、林檎が完全にパニック状態に陥って悲鳴を上げていた。いやぁ、今日も林檎はいじり甲斐があるねぇ。

 恥ずかしさやら後悔やらの入り雑じった叫びを上げる林檎だが、運転そのものは安全運転を絵に描いたような安定感を保ちながら続けられる。そこの辺りは、きちんと分別がついているようだ。

 ただ…………違和感は、矢張り感じていた。


「…………静かだな、ヤケに」


 悲鳴は止んだが、しかしまだ気恥ずかしさが抜けないのか、唸り続けている林檎の傍らで、俺はぽつりと呟いた。

 いくらなんでも静か過ぎる。

 林檎がここまで大声で叫んでいるというのに、あまりにも周りからのリアクションがない。近くに集落があるなら、そもそもここに来るまでの道中で少しは人と会っていなければおかしい筈なのだが…………。


「殺風景って言うよりも、殺された風景、って言った方がよかったか? なんつーか、確かになにかしらが出てきても、全然不思議ではない雰囲気だよな。剣呑な空気っつーか」

「うんうん! 愛鬼、ようやく私の言いたいことが分かったみたいだね!」


 あ。一人称が『私』に戻ってやがる。ちくしょう、可愛かったのに。


「――――ほら、見えてきた」

「……おぉ」


 ただでさえ蚊の羽音のように小さいバイクのエンジン音が、更にフェードアウトしていって、本体の停止と共に完全な静寂を俺たちに齎した。

 道は、そこでばっさりと途切れていた。代わりに現れたのは、まるで落とし穴のようにぽっかりと口を開けた町――――。


「ここ、か…………」

「うん、ここが哭骨町」


 眼下に広がるジオラマのような町を見下ろしながら、俺たちは一言ずつ言葉を交わした。

 哭骨町。

 それは、干からびた湖の底みたいな、巨大な窪地に作られた町だった。

 断崖絶壁が町全体を取り囲み、侵入者を拒む働きと、内部から人を逃がさないようにする働きとの、両方を同時にこなしている。日当たりはすこぶる悪そうで、大雨が降ればたちまち浸水してしまうだろう。この場所が『町』として機能している現実が、にわかには信じられなかった。


「『十三日の金曜日』って、知ってる?」


 林檎が質問してくる。俺は「名前だけはな」と簡潔に答えた。


「私も、そこまで詳しく知ってる訳じゃないんだけどね」


 少し照れたように笑いながら、林檎は続ける。


「その映画の主人公、連続殺人犯・ジェイソンは、とある湖の近くで殺人を行っていたんだってさ。…………近いものを感じない?」

「湖、ね。ここならどっちかっつーと、池とか沼って感じだけどな」

「早速、行ってみよっか」

「おっけ。事故んねーように気を付けろよ」


 はいはーい。

 元気よく返事をして、林檎は再びバイクを動かし始める。町への入り口を探して、崖の縁に沿うようにして走る林檎の顔は、心なしとても楽しそうに見えた。まるで遊園地でアトラクションの順番待ちをしている子どものような、無邪気な笑みだった。


「……………………」


 殺人を認めるつもりは、ないけれど。

 でも、この殺人鬼のことは、認めてあげようかな――――と、そう思った。



「…………静か、だね」

「……ああ」


 急な傾斜がついた坂道を下って、ようやく辿り着いた目的地――――哭骨町は、不気味なまでに閑散とした場所だった。

 家や商店が立ち並び、公園も幼稚園も学校もある。人が住むコミュニティとして最低限の設備は、残らず網羅されている。

 なのに。

 この町には、圧倒的に欠けているものがあった。たった一つ、それでいて最も重要で肝要であるだろうそれの欠落は、感覚としてはまだ真人間に近い俺のことは勿論、価値観がどこかで致命的な崩壊を迎えている筈の林檎をも、言い知れぬ不安と焦燥の坩堝に叩き落とした。


「…………林檎、この町に来てから、もう何時間だ?」

「〇・五時間だね。強いて時間単位で言うなら」

「……だよな」


 そうだ。俺たちはこの町に足を踏み入れてから、三〇分もの間、こうして住宅地の周りをぐるぐるとバイクで彷徨っているのだ。いくら騒音なんて出そうと思っても出ないような超がつくエコカーだろうと、このような超低速走行を三〇分も続けていれば、誰か一人くらい、町民と擦れ違ってもおかしくないだろう。いや、寧ろ擦れ違わない方が不自然だ。

 そう。

 この町には、人がいない。


「なんなんだこりゃ。町内全部が旅行にでも出てんのか?」

「それはないと思うけどね。さっきから気配だけは妙に感じるし」

「…………ってことは、あれか? 殺人鬼対策で隠れてるっつーことか? でも、今までの町でそんなことってあったっけか?」

「まあ、今まで見てきた殺人犯と、この町にいるっていう殺人鬼とを同列に語れるかどうかは分かんないけど――――なかったね。いつもより明らかにハイテンションな町があったくらいだし」

「そうなんだよな――」


 幸いにして、俺は三ヶ月前までの人生一五年間、そういう問題の被害者になることも加害者になることもなかったのだが――――イジメ問題などを鑑みれば分かる通り、元来人間とは、心のどこかで破滅とか破壊とか、所謂カタストロフを望んで止まない生物なのだ。そんな人間たちにとって、身近なところで殺人鬼などという非日常そのものが自由気儘に殺人という禁忌を犯している状況は、恐怖以上に言い様のない興奮を誘うらしい。

 少なくとも、今まで見てきた町は、みんなそうだった。

 勿論、それは命の重要性など欠片も知らない上に、表面上だけでも取り繕うなんていう人間社会の必須スキルさえも習得していない、要するにバカな奴らだけの話だったけど。

 でも、それにしたって、これはない。

 こんな無音と閑散さは、今までにない。


「――どうなっていやがんだ? この町は」

「さあね。でも、どの道マトモな場所とは言い難いかも」


 言って、林檎はその場所で不意にバイクを止めた。担がれるような形になって、常に後方と上空しか見ていない俺からは、林檎の表情を窺い知ることは出来ないが、予め計画を持っての停止とは違うだろう。ブレーキ痕がくっきりとついてしまうであろうほどに、慌てたブレーキのかけ方だった。安全運転がモットーの林檎にしては珍しい。


「ど、どうしたんだよ林檎」


 俺の質問を綺麗に無視して、林檎はバイクから下りた。俺を担いだまま、姿勢を一切変えずに。


「この家…………」

「んあ?」


 肩からぶら下がるストラップのような体勢だった俺は、林檎がようやく鳥籠を通常持つような手から垂れ下げる形に戻してくれたお陰で、林檎が指差す家を見ることが出来た。

 なんてことはない。ただの一軒家だ。屋根の色が赤いとか、壁が白いとか、新築っぽいとか、特徴を述べようと思えばいくらでもあげつらうことが出来るのに、しかし後々印象に残ることはないだろうという、無味乾燥とした家だった。完全に町の景色に溶け込んでいて、林檎が気配など探っていなければ、注目さえせずに通り過ぎていただろう。

 そんななんの変哲もない一家屋を見上げながら、林檎は険しい目付きで言った。


「この家だけ、なんの気配もしない」

「…………他の家からは」

「全部。気配の隠し方も殺気の抑え方も、素人レベルだけど」

「ってことは、ここにはなんかある、そう見て間違いないだろうな」

「うん。周囲にあるものがない場所には、周囲にはないものがある――――愛鬼も、大分慣れてきたね」

「お陰様で」首を切られる前の、普通の人間からは全力で遠退いてるけどな。

まぁ、それは今考えることじゃない。


 林檎はバイクの座席を持ち上げて、隠れていた収納庫から得物を取り出した。俺の入った鳥籠を持ったまま、片手でその作業を淡々とこなしている辺り、こいつも相当俺との旅に慣れてきた感じがする。

ホルスターの付いた革製のベルトを器用に腰に巻き、そこに林檎の得物――『殺人七つ道具』――を一つずつ差し込んでいく。サイズも形体も用途も違う七つの凶器は、それぞれ相応しい位置へと収まった。


「準備完了っと。それじゃ、行ってみよっか」

「ああ…………さぁて、鬼が出るか蛇が出るか」

「どっちもぶっちゃけ、私たちのことなんだけどね」


 言って、俺たちは玄関に向かって歩いていく。実際に歩いているのは林檎だけなんだけど、そこはスルーで。

 玄関に鍵はかかっていなかったが、代わりにドアチェーンががっちりと侵入者を拒んでいた。しかし、例えチェーンがなかったとしても、常人ならば扉を開けた瞬間に中に入ることを思い止まっていたことだろう。


「……………………」

「ぐっ…………」


 平気な様子で無言の林檎。対して俺は、すっかり慣れてしまった筈の臭いに、しかし耐え切れずに顔を顰めた。

 凄まじい異臭。

 吐き気を催す、腐臭。

 これまでに幾度となく味わってきた――――人肉の腐っていく臭い。


「中には…………いるな、こりゃ。仏さんが」

「入るよ。いつも通り、チェーン切るから、気を付けてね」


 あいよ、と気のない返事をする俺。気を付けるもなにも、そもそも動けないのだから気を付けようがない。まあ破片がぶつかったら首のバネだけで柵に体当たりして、鳥籠を林檎の向こう脛にぶつけてやる。 流石の殺人鬼も、弁慶の泣き所を攻められれば痛かろう。

 ま、最初からそんな心配は無用だって、こっちは分かってるんだけど。


「よいしょっと」


 ベルトから重そうに林檎が抜き取ったのは、ホテルなどで使われるような上品なチェーン専用の器具などではない。

 それは――――鋏だ。

 無骨で凶悪で、この上なく禍々しい、巨大な鋏。

 優に六〇センチはあるであろう、黒塗りの断ち鋏。

 万物を両断し、截断し、断絶するとまで言わしめる、『殺人七つ道具』の内の一つ。

 名を『迎刃而解(チェーンレスジェイル)』。


「よっ、と」


 重そうに鋏の両刃を広げ、チェーンを挟み込む。ギチリ、と嫌な音がした。鋏そのものが獲物を求めて雄叫びを上げているようにも、チェーンが断末魔の叫びを上げているようにも、或いはその両方にも思えた。


「そっ、れぃ!!」


 気合いの入った掛け声だったが、しかしそれに似合わず、チェーンはいとも簡単に断ち切られた。

 パキン、なんて、間抜けで乾いた音を立てて。

 まるで豆腐か何かを包丁で切ったかのように、容易く。

 破片が勢いよく飛び散る余地など、欠片も残さず。


「相変わらず、凄い切れ味だな、その『迎刃而解(チェーンレスジェイル)』」

「お兄ちゃんの作品だしね。…………一体どんな仕組みになってんのか、使っている私でもさっぱりなんだけど。ここまで切れると、便利を通り越して不気味だよ」

「まあな。確かそれ、隕石以外の物質は全部切れるっていうのが売り文句なんだよな?」

「そこら辺は、ただ単に実験用の隕石が手に入らなかっただけだと思うけどね。鉄が切れるんだから、隕石だって切れるでしょ、多分」

「切る機会が来ないことを祈るぜ…………」

「同感。それじゃ、入ってみよっか。おっじゃまっしま~っす」


 言って、玄関で靴を脱ぐこともなく、俺たちは家の中に侵入した。腐臭は一層強くなったが、その頃には俺もすっかり臭いに慣れてしまって、苦い顔をすることはなかった。

 薄暗い廊下を、ゆっくりと歩く。


「……………………」


 視点の低い俺は、自然と前だけではなく、床や壁の足許部分にも視線が移る。すぐ横には林檎の、スカートから少しだけ露出した生足があるのだが、流石にそこに目を向けて視点の低さに対する役得を声高に叫ぶような余裕はない。…………つーか、そんなことを実行しようものなら、羞恥に顔を真っ赤に染めた林檎に、問答無用で八つ裂きにされかねない。

 廊下や壁に見えたのは、無数の擦過傷だった。しかも、そのところどころに、乾き切った血の赤黒い斑点模様が繁茂している。三ヶ月間殺人鬼と旅をしているのに、武器やらなんやらに関する知識が未だに乏しい俺では断定しかねるが、恐らくは包丁などの、そんなに切れ味のよくない刃物でつけられた傷だろう。傷の深さや程度が不均一だし、刃毀れとおぼしき破片もいくつかめり込んでいる。


「外にも、似たようなのがあったよ」


 怪訝そうに壁を見ている俺に気付いたのか、林檎は不意に立ち止まり、そんなことを言ってきた。


「刃物で脅して入ってきた、ってところか。つまり、今回は殺人鬼というよりも強盗…………」

「申し訳ないことに今回もまた殺人鬼じゃない、ってことまでは同意するけど…………強盗っていうのとは、ちょっと違うかもよ」

「え? なんでだ?」

「強盗だったら、相手が扉を開けた瞬間に殺せばいい。殺せなくっても、多少は手傷を負わせられる筈。なのに、壁や床には傷しかなくて、血痕がこんな少ししかないっていうのは、不自然だよ」

「犯人が拭き取って、チェーンかけて出ていったっていう可能性は…………」

「ない訳じゃないけど…………どうも違う気がするんだよね。大体、血を拭きとろうとなにをしようと、そこに血が流れたという事実があるなら――――私には、偽れない」


 自信溢れる声で、しかしどこか恥じ入るように林檎は言った。

 そうだ、こいつはただの殺人鬼ではない。殊更に、特別な能力を有する殺人鬼なのだ。

 どういう訳だか、林檎には血の痕跡というものが、誰よりもなによりもよく分かるのだ。例えその血が数十年という時を経た、骨董品と言っても差し支えないようなものでも、林檎には手に取るように分かる。理由は以前に聞かされたような気もするが、忘れた。あまりに観念的な話だったので、さっぱり頭に入ってこなかったのだ。林檎も、俺に自分の特性を理解させることを諦めているらしく、結果だけを伝えて経過や方法などは教えない。

 それでいい。

 それでも充分に成り立つのだから、俺たちの関係は、それでいい。


「おかしなことは、他にもあるよ。強盗だとしたら、説明のつかないこと」

「…………なんだ?」

「傷をよく見てよ。例えば――」林檎は俺を高々と持ち上げ、丁度彼女の頭の位置くらいにある傷を二つ、指で示した。「これと、これとか」

「……他の傷との違いが分からんが」

「よっく見てよ」


 ぐいぐいと、壁に鳥籠を押し付ける林檎。そんなことをしても、よく見えるどころか逆に近過ぎて見え辛いんだが…………。


「傷の強弱をよく見て。刃物が途中で刃毀れしたってだけじゃ、とても説明し切れないような差があるよ。明らかに筋肉量の絶対的な差が作り出す傷の強弱が見て取れる。それに、傷が玄関側とリビング側、その両方から付けられてる。これくらいは、ちょっと傷を見れば分かることだけどね」

「そうかい、俺にはさっぱり分からん」

「いい加減慣れてよ、私と三ヶ月も一緒にいるんだからさ」


 無茶を言うな。


「しかし、そうなるとこの家にいた人間と、そして外から来た人間とが、ここで丁々発止の修羅場を演じてた、ってことになるぜ?」

「うん、そうなるね」

「そうなるね、じゃねえだろ。いくらなんでもおかし過ぎるぜ。人を襲うべくして這入ってきた奴もそうだが、家人もそいつを返り討ちにするべく向かって行った、って訳だろ? なんだそりゃ。町ぐるみでサバイバルでもやってんのか?」

「そうでないことを祈るよ。流石に面倒そうだしね……先、行ってみよ」


 鳥籠を重そうに下に下ろし、林檎はリビングへ向かって歩いていく。この廊下で見るべき物はもうないと言わんばかりに、スピードは速い。得物と俺とを合わせて、締めて一〇キロ近い重荷を背負っているにも拘らず、林檎は力強く奥へ奥へと向かっていく。

 歩き始めて一〇秒も経っていないのに、俺たちはリビングへと辿り着いた。

 そして――――予想通りのものを二つ、見つけた。


「う、わ…………」

「凄いね、これは。ある意味圧巻」


 俺たちは二人して、その有様に舌を巻いた。

 リビングにあったのは、なんてことはない、ただの二つの死体だ。ただ、今まで俺が見てきた死体の、そのどれよりも酷い、ただただ酷い様相を呈した死体だった。

 腹をぐちゃぐちゃに滅多刺しにされている二つの腐乱死体。それらは最早、男女の区別すらつかないほどに腐り切っていて、肉が溶けてこそげ落ち、骨が惜しげもなく外気に晒されて、その色を焦げたような茶色に変化させていた。服も一緒に風化していて、言い様のない悪臭をばら撒いている。

 今まで凄惨な死体ならいくらでも見てきた。腹を滅多刺しにされるどころか、顔面だけがひたすらに潰されていた死体とか、バラバラに分割された死体とか、明らかに死んだ後に情交を為されたような死体とか、見ていて気持ちの悪くなる死体とならいくらでも遭遇してきた。

 これらは、違う。

 それとは、決定的に違う。

 こんな見るまでもなく吐き気を催すような死体は、初めて見た。


「これって…………」

「この家の家主、かな。それと同居人。死んだのは、少なく見積もっても一ヶ月以上前っぽいね」

「一ヶ月間、ずっとこのまま放置されてた、っていうのかよ。それだったら本当に…………」

「まだ分かんないけどね。愛鬼、悪いんだけど、窓の外を見張っててくれない? 私はちょっと、この死体を検分したいから」

「あいよ。出来るだけ手早く頼むぜ? この臭い、正直耐えるのが滅茶苦茶苦痛だ」

「努力するよ」


 言って、林檎は俺の入った鳥籠を窓際に置き、俺の背後で二つの死体を検分し始めた。並んで倒れた死体の真ん中にしゃがみ込んで、じっくりと。

 その死体を見つめる目は、相変わらず俺と話している時よりも余程キラキラと輝いていて、何故だか俺を妙にイラつかせた。溜め息をこれ見よがしに吐いてみるが、林檎はこちらに振り向きもしない。

 それでも諦め切れずに、ちらちらと林檎と窓とに視線を交互に送る。

 首から上だけしかないっつーのに、結構器用なもんだよな、俺も。まあ、三ヶ月もこの状態なら、運動のコツっつーもんも掴めるってもんだ。


「……………………ん?」


 何度目になるか分からない目配せの果てに、俺は窓の向こうに、一つ、微かに動く影を見つけた。真っ昼間の道には似つかわしくない、ヤケにコッソリとした動きだ。周りを窺うように首を忙しなく動かしながら、ゆっくりとこの家へと続く道を歩いてきている。

 …………これは、不味いか。


「林檎」

「ん? なに? 愛鬼。林檎は今忙しいんだよ?」


 夢中になって死体を眺めているのか、一人称が『私』から再び『林檎』になっていた。…………やベぇ、可愛い。

 ……じゃなくて。


「やべぇぞ。こっちに向かって来てる奴がいる」

「……? この家に? なんで?」

「俺が知るか。大方、あの大型バイク見つけて不審に思ったんじゃねーか?」


 それに、ここは家の一番尻の部分に位置している。従って、入り口近くの様子は欠片も窺い知ることが出来ないのだ。もしかしたら、事態は既に水面下で爆発的に拡大しているかも知れない。

 急ぐに越したことはない。


「う~ん、まだちょっと物足りないんだけど…………」

「んな我儘言ってる場合じゃねえだろ。殺人鬼がいないってんなら、この町にいたところで意味はない――――さっさと逃げようぜ。仮に俺の勘があたってたら…………」

「それはないって願いたいけどね。流石の私も、持久戦は苦手だし」


 林檎は渋々ながら立ち上がり、俺の頭上にある取っ手を掴んだ。

 そうだ、林檎は確かに殺人鬼だが、それ以前に肉体はまだ一〇代の少女なのだ。体力なんて高が知れてる、腕力なんて高が知れてる。一度に殺せる人数だって、高が知れている。

 いくら林檎の持っている『殺人七つ道具』が優秀な凶器だろうと、林檎のステータスを完全にカバーし切れる訳じゃない。この町でリアルにバトル・ロワイ○ルが発生している場合、逃げ切る前に林檎の体力が尽きる方が早いだろう。


「さっさと逃げよっか」

「おう、その見切りのよさやNice」

「……本当に発音いいね。どこで習ったのよ」

「中学の英語教師が優秀だったんだよ。俺が中三の時に事故で死んじまったけど」

「あ、そ」


 素っ気なく返事をして、林檎はすたすたと歩き始めた。薄暗い廊下を、先程とは逆に出口へと向かって、無言で。

 俺の入った鳥籠を握るのは利き手ではない左手で、右手は腰に差した七つの凶器の内の一個に絶えず触れている。その小さな身体からは並々ならぬ殺気が放たれていて、殺人鬼としての林檎の本性の発露が見て取れた。恐らく今、林檎に不用意に近付く生命体がいたら、それが虫だろうと鳥だろうと獣だろうと人だろうと、全て容赦なく区別なく、一瞬にして殺されることだろう。そんなことを容易に想像させ得るほどに、林檎の気迫は鬼気迫るものとなっていた。

 だが、それを恐れない者もいた。

 違うなにかを恐れ、林檎に牙を剥く者が、いた。


 ギィ………………


「!」

「ん?」


 玄関の扉を開けて現れたのは、痩せ細って頬までこけた、一人の男性だった。

 三〇代半ばと思われるその男は、しかし、目は虚ろで焦点が一定せず、そして手には何故かゴルフクラブを握り締めていた。

 まるで、それで俺たちを撲殺しようとでもしているかのように――――。


「ガ……ガァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!」


 予想通り、男はゴルフクラブを振り被って、いきなり俺たちに向けて突進してきた。口からだらしなく唾液を吐き散らし、何かに脅えるように目を見開きながら、男は林檎の頭を粉砕しようと迫ってくる。


「愛鬼、殺すよ?」

「ああ、殺れ。さっさとこの町から出よう」


 了解、という言葉と、バキィ! という轟音が響いたのは、ほぼ同時だった。

 林檎は一瞬の内にベルトから棘付きバット『鬼哭啾啾(ディボートモール)』を抜き取って、それで男の側頭部を殴り飛ばしたのだ。鋭い棘が男の頭部の内部を抉り、頭部を一瞬にして汚い肉片へと変えた。

 俺たちはそのまま、何事もなかったように玄関へと向かい、そのまま外に出た。

 そこには、俺たちにとって最悪のシチュエーションが広がっていた。


「な…………」

「……愛鬼、あんたの勘、的中したみたいだね」


 ああ、あたっちまったみたいだ。

 こんな勘は、外れてくれた方がよかったんだが。

 林檎の自慢でもある、大きな黒のバイクの周り。

 その場所に――――何十人もの人間が、様々な凶器を手にして佇んでいた。


「町そのものが殺人狂ならぬ殺人郷…………最悪ね」

「どいつもこいつも、正気じゃねーぞ。あの目は。どうする?」

「強行突破しかないでしょ」

「――――だろうな!」


 俺は怒鳴るようにそう言って、くるり、と身体の向きを変えた。後ろを向いて、鳥籠の縁に後頭部を凭れる。

 それを確認することもせずに、林檎は勢いよく走り出した。鳥籠が大仰に揺れて、俺は後ろへと押し遣られる格好になるが、それを予め防ぐように姿勢を変えていた俺には何の問題もない。『鬼哭啾啾(ディボートモール)』を持ったまま、林檎はゾンビのように佇むだけの町民の元へと駆け寄っていく。

 と、そこでようやく、町民たちが林檎の存在に気付き、声になっていない声を上げた。


 ヴァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!


「うるさいっ!」


 武器を振り被った町人を、二、三人まとめて『鬼哭啾啾(ディボートモール)』で払い除ける。命中した箇所に赤黒い穴が開き、一瞬遅れてそこから鮮血が溢れ出してくる。命そのものが、その不気味な穴から零れ出ているようにも見えた。

 だが、棘付きバットである『鬼哭啾啾(ディボートモール)』は、相応の破壊力の代償としてかなり重い。林檎の細腕では、精々数分しか扱えないだろう。林檎もそれは分かっているのか、バイクの近くにいた人間数人を薙ぎ払った後は、ベルトにバットを固定し、バイクへと飛び乗った。


「ガァアアアアアアアッ!」

「うっさい!」


 林檎は近寄ってくる狂人に向けて、手近な武器を振り回した。

 即ち――――俺が入った、鳥籠を。


「ゴガッ!?」


 顔面から柵にぶつかり、無様な悲鳴を上げる俺。文句を言おうとしても、口や歯も痛くてとてもじゃないが喋れない。その間に、林檎は俺をバイクの後ろに括り付け、エンジンを掛けた。


「行くよ、愛鬼!」

「無事にこの町出たら言うことがあるからな林檎ぉ!」


 俺の文言など耳に入っていないように、林檎はバイクで町民の山へと突っ込んで行った。手には女の子には相応しくないような大振りのナイフ、『殺傷過當(スクラップメーカー)』を握り締めている。寄り付いてくる奴はそれで斬殺という訳だ。俺は進行方向の反対側を見ているのだが、バイクが通った後には血だらけの死体がいくつも折り重なっていた。

 だが、よく見れば、死体たちはナイフで切り裂かれたものばかりではない。鈍器で頭を割られた死体があれば、全身にナイフやフォークが突き刺さっているような死体まである。それらは林檎の手による死体ではない、明らかに他の町民によって殺されたのだ。この混乱に乗じてか、それとも完全に錯乱してか、町民は俺たちを狙う他に、自分以外の町民まで狙っているのだ。

 人の山を抜け、うろ覚えの町並みを猛スピードで走っていく。林檎の方に向き直ると、きょろきょろと辺りを見渡している。出口を探しているだけではあるまい。どうやら道の両端を埋める家々の様子を窺っているようだ。


「やっぱり…………どこの家の気配も、全部消えてる」

「ちっ、俺たちを殺そうと躍起になってるって訳か。町民全部が殺人狂…………一体なにがあったってんだよ」

「そんなの林檎が……いや、私が知る訳ないでしょ!」


 平静さを失った林檎は、ナイフをベルトのホルスターにしまい、ただひたすらに町の出口を目指す。後ろから、町の人間が走って追ってきている。時折、肩がぶつかった人間を打ち殺しながら、どんどん人数を減らしながら、俺たちを追ってくる。

 ようやく並木のように家が並ぶ中心地を抜けた俺たちは、町を覆う崖に沿って走り始めた。この崖のどこかに、外部と繋がる階段があるのだ。林檎は必死になってそれを目指す。俺も辺りを見渡して、それらしきものを探すが、後方にはなにも見つからない。見えるのは、鬼気迫る表情をした町民たちだけだ。しかも彼らの内数人は、自転車や車に乗って追いかけてきている。地の利は向こうにあるのだから、この追いかけっこを長時間続ける訳にはいかない。


「――――あっ! 見つけたっ!」


 忌々しげに後方を見るのに嫌気が差した俺が少し横を見ると、そこには、出口へと続く長いスロープがあった。その入り口は、今俺たちが進んでいる方向の、ここから少しだけ離れたところにある筈だ。林檎にもそれが見えたのか、小さく拳を握り締めてガッツポーズを作っていた。

 だが、俺たちを殺そうとする奴らは、もうすぐ後ろまで来ている。もし奴らが拳銃を持っていたなら、林檎も俺もすぐに殺されていただろう。それだけが、今は救いか…………。

 と、思っていたら。


 ドンッ!


「「!!」」


 耳を劈く銃声。

 見れば、追いかける車の中から、一人の男が猟銃を構えてこちらを見ていた。口はへらへらと笑っていて、とても正気には見えない。


「ど、どうする林檎っ! 奴ら、銃まで持ってんぞ!」

「っ…………これはあんまり、好きな凶器じゃないんだけど――――!」


 苛立たしげに呟くと、林檎はホルスターの一つに手を突っ込み、中から小さな鉄の塊を出していた。

 歪んだL字型の、黒々とした鉄塊。

 それは、銃だった。

鉄中錚錚(ハンブルネイル)』。

 林檎の『殺人七つ道具』の中でも最も強力で、そして最も忌み嫌われている凶器。

 六連発式のリボルバー。

 林檎は振り返ることもなく、ただカーブミラーに映った追っ手の姿だけを頼りに、右手人差し指で引鉄を引いた。


 バンッ!


「ガ……ァ…………」


 猟銃を持った男が崩れ落ち、次いで二発の銃声が響く。それに呼応するように、車の窓ガラスにひびが入り、滅茶苦茶な軌道を描いて崖にぶつかり、そして止まった。恐らく、林檎は運転手を撃ち殺したのだろう。鏡像だけでよくそこまで狙い撃てるものだ、と場違いな感動まで覚えてしまうほどの腕前だった。

 そのまま、俺たちは町の出口へと向かって行った。

 スロープの入口――俺たちが入ってきたものとは百八十度逆の場所だった――には、二つの死体が転がっていた。

 一つは警官と思しきモノ。そしてもう一つは、服装から女のモノと思われた。


「これは……」

「愛鬼黙ってて! 舌噛むよ!」


 腐り切った二つの死体を跳ね飛ばし、ぐちゃぐちゃに踏み荒らしながら、林檎はバイクをスロープへと乗せた。そしてそのまま、猛スピードでスロープを駆け上がっていく。

 俺は、町を去る時にはいつも感じている、小さな寂寥感と共に、哭骨町の町並みを見下ろしてみた。

 あれだけ大量にいた、俺たちを殺そうとしていた町民たちは。

 今はもう、一人も生きてはいなかった。



「多分、全部のきっかけは、あの二つの死体だったんだろうね」


 哭骨町から脱出し、そこから二時間ほど走ったところで。

 林檎は、改めて手に持って担ぎ直した俺に向けて、そんなことを言ってきた。


「二つの死体? そりゃどっちの死体だよ。あの家のか? それとも」

「無論、あの出口近くに転がってた奴だよ」


 林檎が珍しく神妙な口調で言う。


「一つは警官っぽかったけど、その右手、見た?」

「あの状況で見れる訳ねーだろ」

「あの死体の右手、丁度ピストルを持つ時のかたちで固まってたんだよ。で、その傍に転がってた女の死体は、胸と額に銃創があった。で、ここからは私の推測なんだけど――――多分、あの警官が女の人を殺したんだろうね。で、その後すぐに誰かに警官が殺された」

「連鎖殺人、って奴か」

「うん。で、警官を殺した人も他の町民に殺されて、その殺した町民も殺されて、殺されて、殺されて、殺されて…………そうやって、殺人がどんどん広がっていったんだよ。元々、狭くて奥まった場所だったし、形状からして、雨とか降った時には大変だったんだろうね。あんな囲まれた場所じゃ、人の心はどんなふうに変貌するか、分かったもんじゃないよ」

「あいつらからしてみりゃ、あんな狭い場所の中に殺人犯がいるっつーことが、怖くて怖くてしょうがなかったんだろうな。いつ自分たちが殺されるか分かったもんじゃない。でも、周りの人間がもしかしたら殺人犯かも知れない。どいつもこいつも疑わしくて、そして行き着いた考えが――――殺られる前に、殺っちまえ、だった訳か」

「うん。…………まあ、あくまで推測だけどね。あの町の人が殆どみんな死んじゃった今となっては、真相は闇の中だよ」


 豪く寂しげに、林檎は呟いた。

 別に、真相が分からないことが気になる訳ではないだろう。林檎はそんな名探偵みたいな性格はしていない。死人は死人だ。そう割り切って、切り捨てて生きている。死んでしまった人間のことなど、林檎にとってはどうでもいいのだ。

 だから、林檎が気にしているのは、別のこと。

 また殺人鬼に逢えなかったという、その落胆すべき事実を、気にしているのだろう。


「………………ごめんね、愛鬼」

「なにがだよ。俺は今回、お前に結構感謝してるぜ? 今回は特に、お前がいなけりゃやばかったじゃねーか」

「…………でも、殺人鬼」

「……まあ、また逢えなかったけどな」

「……うん」

「……………………」

「……………………」


 沈黙が俺たちを包み込み、居心地の悪さを醸し出す。

 ……参ったなぁ。林檎の奴、人殺しとかはまったく気にしないのに、こういうことだけは矢鱈と気にする性質だからな……。

 さて……どうするか…………。


「……林檎」

「……………………」

「……林檎!」

「……………………」


「……林檎は、可愛い!」


「……へ?」


 お、ようやく反応してくれたな。あと一押しか。


「林檎は可愛い。それに強い、頼りになる。錠開けだって出来るし、死体の検分だって出来る。バイクだって運転出来るし、もうなんでも出来る完璧超人だな。ビバ、林檎!」

「ちょ、な、何を言い出すのよ急に!」

「なにって、褒めてんだよ。林檎のことを。褒めてって言ったのは、お前だろ?」

「そ、そうだけど…………」

「だったら褒められてろ。俺は今、お前を褒めたい気分なんだよ」

「……う~」


 恥ずかしそうに俯く林檎の姿が可笑しくて、俺は小さく笑った。

 無々篠林檎。

 こいつは本当、価値観はトチ狂ってるし、常識なんざ欠片もないし、人間を簡単に殺すし、俺を殺した奴と会いたがるような変態だし、凶器の選り好みなんかしやがるし、道交法とか思いっ切りぶっちぎってるし、なにより殺人鬼だけど。

 それでも、こんなに可愛いんだ。

 こんなに純情なんだ。

 こんなに優しいんだ。

 だから俺は――――こいつのことが、好きなんだ。


「なぁ、林檎」


 俺はゆっくりと、林檎に声をかける。


「次こそは、俺を殺した奴、見つけ出してくれよ」

「…………当ったり前じゃん」


 林檎は、さっきまでのションボリ具合などどこに行ったのか、自信満々に胸を張って、言った。


「私は、殺人鬼だもん! 愛鬼を殺した奴を見つけ出して、必ず、殺してあげるからね!」


 その言葉を聞いて、俺は再び笑った。

 ああ、そうだ。

 やっぱり俺は、こいつの嬉しそうな声を聞くのが、一番楽しい。



 林檎の背に担がれながら、空を見る。

 夕焼けに染まった茜色の空は、どんな陰惨な死体よりも、禍々しく、赤かった。


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