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証明写真

作者: 佐井 識

“3回目のデート信仰”というものがある。世の標準的な男女は、3回デートしたところで告白したり、キスしたり、正式に付き合い始めるというアレだ。

「じゃあ……、また明日」

「うん。会社で」

 23時、銀座・数寄屋橋の交差点で私たちは別れた。私はJR、鈴木くんは地下鉄を使う。彼の後ろ姿が見えなくなったのを確認すると、私はくるりと身体の向きを変え、冬の街を足早に歩き始める。すれ違うのは、酔っぱらって楽しそうなサラリーマンや、寒さを理由に寄り添っているカップルたちばかり。鈴木くんといるあいだ浮かべ続けていた笑顔がほどける。次の瞬間、梅干をまるごと口に含んだような、ぎゅううううと身体全体が縮むような感覚に襲われ、私は自然と下を向いてしまっていた。


……結局今日も「付き合おう」って言われなかった。

 クリスマスを来月に控えて、3回目のデートだった。私だって期待してなかったわけじゃない。だからこそ珍しくカラータイツなんてはいてみたし、髪の毛も軽くセットしてきた。彼が連れて行ってくれた創作居酒屋を出る前、トイレでロクシタンのリップクリームを塗ったのも、もしかしたらキスするかも、という事態に備えてのことだ。

 と言いつつ、キスしないかも、ということも途中からほとんどわかっていた。鈴木くんは緊張してたっちゃ緊張してたし、いつもどおりといえばいつもどおりで、要するにこれまでのデートと変わらなかった。予想は当たり、私はひとりで銀座の街を歩いている。

 今日あたりだと思ってたんだけどなあ。がっかりする気持ちと少しの苛立ち。だけど不思議と、安堵に似た感覚もある。


 会社で毎日会っているのにふたりきりでデートしてるってことは、彼もその気がないわけじゃないはずだ。ただ、私たちのあいだには、艶っぽい会話は確かに少なめかもしれない。互いの昔の恋愛も話題に出たけど大して盛り上がることもなく、ボーナスの額が減るらしいよとか、俺の地元は雑煮に白みそあんが入るんだよとか、どちらかというと時候の挨拶的な会話をつまみに、取りとめもなくお酒を飲んだ。私は乾杯の生ビールのあとはカシスウーロンをちびちびやって、鈴木くんはお気に入りという芋焼酎のお湯割りを飲みながら、鶏のタタキや蓮根のはさみ揚げに箸を伸ばした。

 って、これじゃあ単なる同期同士のさし飲みじゃないか……。

 11月の冷たい風が頬をなでると、酔いも冷めていくようだった。交通会館の角を曲がり、JR有楽町駅が目に入る。私は昨晩の、樹里ちゃんとの電話を思い出した。

「3回目だよ? 3回目。これで鈴木が何も言ってこなかったら、もう相手にする価値なし!」

 樹里ちゃんは高校の同級生で、私の友だちのなかでは一番はっきりものを言う女の子だ。

「たぶん大丈夫だと思うけど、でも鈴木くん草食男子っていうか、恋愛に積極的なタイプじゃなさそうだから……」

「なにが草食男子よ。27にもなって、中学生みたいな付き合いしかできない男なんてどうかしてるわ。ていうか、友美はほんとに鈴木でいいの? 安全牌にするにも、ちょっと凡庸じゃない?」

 会ったこともないのに、「鈴木」と呼び捨てにしてマシンガントークを繰り広げる樹里ちゃんに痛いところを突かれ、私は少し口ごもってしまう。

「まあ、同じ会社だから互いの仕事環境とかお給料とかよくわかってるし、それなりに真面目で信頼できそうなタイプだし、普通っぽいのが逆に安心っていうか……」

「お見合いおばさんみたいなこと自分で言ってどうすんのよ~。あんたは将来設計とか気にしすぎだって。だいたい鈴木って名字からして凡庸じゃん。せっかく立花友美っていう綺麗な名前なんだから、鈴木に落ち着くのはもうちょっと考えてもいいと思うわ、私」

 毎度ながら樹里ちゃんは舌鋒鋭い。自分にないものを持つ彼女は、新鮮な意見をくれる。口は悪いけど、広告代理店で忙しく働いているのに、私のしょうもない相談に時間を作ってくれる友達思いの女の子だ。彼女の言うことは、いつもだいたい当たっている。

 だけど、ただ……。


 定期券を取り出したところで、駅の脇にある、証明写真の機械が目に入った。この年末年始は、おばあちゃんの喜寿のお祝いでハワイに行く予定だ。パスポートが切れていたので、来週にでも午前休をとって更新しにいこうと思っていた。

 ちょうど髪もセットしてるし、今撮ってしまうことに決めた。きょろきょろと周りを見回して人通りが途切れたのを確認すると、カーテンを開けてさっと機械の中に滑り込む。証明写真の機械に入る瞬間って、何故かいつも緊張してしまう。

 荷物を椅子の横に置き、座って一息ついた。700円を入れると、コンピューターの女性の声が喋り始める。私は指示にそって、ボタンを操作していく。「3回まで撮り直しができます」と機械が言った。

 ぼんやりと、鈴木くんのことを考えた。がっかりしてるのか、安心してるのか、自分でもよくわからない。樹里ちゃんの言うとおり、私は安全牌に逃げようとしているのかもしれない。

 確かに彼は凡庸だった。地方から上京して、1浪して東京の大学に入り、私と同期で保険会社に入社した。浜松に配属され、東京に戻って来たのが今年の春。同期といってもほとんど交流はなかったけど、フロアが一緒になって、喋る機会が自然と増えた。中肉中背で、ちょっと猫背。野球好きで、会社の隣にあるコンビニでよくスポーツ雑誌を立ち読みしている。ラジオも好きで、外回りの際はいつもイヤホンでAMを聴いているらしい。

 流行に敏感とか、すごくオシャレとかじゃ決してない。今日のお店だって、デートに最適かと言われたらわからない。でも料理は美味しかったし、肩肘張らなくていい雰囲気が結構心地よかった。温かいおしぼりを開いたときの、彼の気の緩んだ顔を思い出す。おしぼりで手首まで拭くのが鈴木くんの習慣で、何故なのか尋ねると真面目な顔で「インフルエンザ対策」と言った。かといって几帳面すぎる性格というわけでもなくて、袖口のボタンが取れかけているのに気づいてなさそうだった。

 指摘しようと手を伸ばしたとき、彼の手に触れたい、と一瞬強く思った。でも袖口に届く前に、その考えはしぼんでしまった。私の中の何かが行動の邪魔をした。宙ぶらりんの私の右手を見て、何をしようとしていたか鈴木くんも気づいたはずだ。決まりの悪い緊張が走ったあと、彼は咳払いをひとつした。それ機に、私たちは何もなかったかのように会話を再開した。

 もしあのとき袖口に触れていたら、状況は変わっていたのだろうか……。

 撮影の準備が整って、画面に示された顔のラインにあわせて背筋を伸ばす。私は私の顔と向かい合った。

 凡庸な顔だった。奥二重で、目元にほくろがあって、丸顔の、見慣れた自分自身の顔。

 樹里ちゃんはあんなふうに言うけど、結局私も凡庸な26歳だった。クリエイティブな現場でバリバリ働く樹里ちゃんにしてみたら、私の生き方は無難すぎるかもしれない。でも私はいまだに実家暮らしで、土日をきっかり休む普通のOLだ。ハワイ旅行だって、お金を出すのはほとんど両親だし、今は元気だけど、将来おばあちゃんがボケたら介護だってしなきゃいけない。

 特筆すべきところのない普通の人生を、そろそろ受け入れなきゃいけないような気がして、私は反射的に目を伏せた。


 そのときカーテンが揺れる気配がして、私は左脇に目をやった。サラリーマンの下半身が見える。順番を待っている人かと思ったら、いきなり右手がぬっとカーテンの下から侵入してくる。私は思わず悲鳴を上げた。

「ひゃあ!?」

「もしもし、立花さん?」

 聞き覚えのある声。その、何者かの右手におそるおそる目をやると、袖口のボタンが取れかけていた。

 カーテンを開けると、鈴木くんがいた。全身の力が抜ける。

「もう、驚かせないでよ……」

「ごめん、つい気が急いて」

 走ったあとなのか、鈴木くんは少し息があがっていた。外に立ったまま、上半身をひょこっと機械の内側にのぞかせる。

「なんで、私だってわかったの?」

 私も私で声が変に上ずったまま、彼を見上げた。鈴木くんが私の足元を見る。

「立花さんを探してて、証明写真の横を通り過ぎたら、そのタイツの色がカーテンの下から目について……。今日、印象に残ってたから」

 私は赤面した。会社帰りだからいつもどおりの通勤スタイルしかできなくて、でもちょっとはおめかししたくて、タイツだけは明るいボルドーを選んでいた。

 鈴木くんはそれに気づいてくれていたんだ。私が彼の、袖口のボタンに気づいたように。

 私の赤面が伝染したように、鈴木くんも照れくさそうにいくらか逡巡したあと、それでもせっぱつまった顔でこう言った。

「さっき何も言えずに別れちゃったけど、俺、好きだから。立花さんのこと」

 私は耳まで真っ赤になった。遠くでシャッター音が聞こえた。

「ごめん、それだけ言いたくて……。迷惑だったら、ごめん」

 私が何か言う前に、「じゃあ、また明日」と言って鈴木くんは去ってしまった。カーテンがひらひらと揺れている。私はぽかんと口を開けたまま、ひとり取り残されていた。


 気がついたら、写真はとっくに3度撮られたあとで、操作するひまもなく「タイムオーバーです。印刷を開始します」とコンピューターが告げていた。よろよろと外に出て、深呼吸して心拍数を整える。駅の周りは相変わらず人で賑わっていて、たったさっき証明写真の機械の中であったことなど誰も気に留めていなかった。

 受け取り口に写真が落ちてくる。眺めて、私は苦笑した。

 困った顔をしていると思ってた。でもそこに写った自分は、困りつつも、嬉しさを隠し切れていなかった。私も鈴木くんを憎からず思っているという、何よりの証明だった。

 明日、私から、これからよろしくお願いしますって言おう。

 私は写真をそっと手帳に挟むと、改札に向かって歩き始めた。


普通の男女の恋愛を書いてみたくて、チャレンジした作品です。証明写真とか電話ボックスとか、街中にある一種閉ざされた空間が好きです。

銀座~有楽町あたりの雰囲気が個人的に好きで、舞台に選んでみました。実際に有楽町駅の脇に証明写真があるかどうかは不明です(笑)。


※2018年2月23日 終盤を加筆修正しました

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[良い点] ヒロインの友美と鈴木君の平凡でありながら、 愛すべきキャラクターが短い分量でビビッドに描かれている点に敬服します。 ボルドーのタイツやボタンの取れかけた袖口、創作居酒屋など、 互いの人と…
[良い点] 世の中 ライトな世界系小説が増えてますが 等身大の悩みや意見をもつ登場人物を読みやすい文章で届ける小説の王道です。応援したく登場人物が良いです。一人称も三人称も使いこなすなんて ちょっと悔…
[良い点] 付き合う寸前の若い男女ふたりの、心の機微や所作が、とても丁寧に書かれていて、好感が持てました。カラータイツの小道具の使い方も好きです。ああ、こんなに素直な作品を久しぶりに読んだ気が・・・。…
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