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無口でノンデリな夫に愛想が尽きた伯爵夫人の失踪

掲載日:2026/08/31

重厚なインテリアが置かれた王都一のドレスサロンで、最終フィッティングをしていた。

この日のために、1年以上をかけて作られた最高級のウエディングドレス。

サロンスタッフによってその繊細なレースのベールをそぅーと慎重に被せられたのは、王国の筆頭公爵家の娘エルザベート・フォン・ロルベルク。


ミルクティブラウンの髪に榛色の瞳、高位貴族では地味な色味ではあるが理性的な顔立ちと周囲の者は気遣って言ってくれていた、でもその時鏡に映っていたのは、間違いなく今まで生きてきた中で一番綺麗、そう思えた笑顔の自分だった。


その1時間後、結婚式の最終の打ち合わせの為応接室で待っていた婚約者、この国の第二王子ユーリアン殿下から、

「エルザ、婚約を解消させて欲しい」

と、時と場所が全く合ってない非常織な言葉を聞かされるまでの短い時間であったのだが。


同席した母と兄嫁が烈火の如く怒り出して、文字通り殿下の首根っこを引掴んで王宮へと連行し、『この愚か者の製造者を呼びなさい』と雑に突き出しながら言い捨てれば、宰相が転がるようにやって来て、王族の私室で一番格の高い部屋へと通され、そこで待ち構えていた公爵の父と次期当主の兄のその隣へと母、兄嫁、エルザベートが順に並んで座った。


この部屋まで宰相を先頭に、近衛騎士に囲まれて連行されて来たユーリアン殿下が、

「私は、リリ・フォン・ベーム子爵令嬢を愛してしまったのだ。愛したことが罪ならば、その罪は私が一生背負おう。しかしこの愛は誰にも止めることなど出来ない、貴様のような、単なる公爵家に生まれただけのつまらぬ女に私の愛が得られると思うな!」

と、状況をまるで理解していない様子で、睨み付けながら口汚く罵り喚いたのだった。


が、そこに国王陛下と側妃殿下が大股で滑り込んできて、ユーリアン殿下の頬を左右からバチンバチンと良い音を響かせ、そのまま彼の頭を各々の手で押さえつけて深々と下げさせた。


「殿下の発言は不貞の自白と思っているが、その認識で良いか」

父がソファにゆったりと座りながらその様子を目を細めて眺め、鷹揚に問いかければ、


「あ、ああ。そうだ、非は全てユーリアンにある。ユーリアンの王位継承権はこの場で破棄し、エルザベート嬢との婚姻後に臣籍降下するはずだった爵位、ラインフェルズ伯爵位とケーニヒスゼー離宮を慰謝料として渡そう、当然それ以外にもエルザベート嬢への瑕疵に対する慰謝料も支払うしご令嬢に一切の責任は無く全て愚息の不徳によるものだと広報にも努める。申し訳なかった」

国王と側妃はそう告げ頭を下げて見せたのだった。


「な、では私はどうなるのですか!?爵位なぞ女の身に必要無い」

「うるさい、黙れ!お前は断種の上、ベーム子爵家へ婿入りせよ。今すぐ王命を出すので早く出ていけ」

「な!私が、子爵、王子の私が子爵なぞ」

「うるさい、黙れと言うのがわからぬか。衛兵、そこへ口を塞いで縛って転がしておけ」

一国の王族が頭を下げて居る、その重要性をも理解せず感情のままに騒ぐ男、元婚約者を虫けらを見るような目で眺めていた。


婚約解消の申し入れから数時間で、王子の身分から子爵家婿、子爵でも次期子爵でも無く子爵家婿、ベーム家には既に婚姻して子供もいる跡取りの長男が居るのだから当然子爵令嬢の婿よね、と転落したユーリアンが縛ら猿轡をされて蓑虫のように床に転がされる様を、凪いだ気持ちで見つめた。


そして、その日そのままの姿で私は、王領地の外れ、深い森の真ん中にある湖の畔の離宮ケーニヒスゼーへ、療養と言う名目で送られ無為な日々を過ごすことになったのだった。


ロルベルク公爵家は、政財武を統べる王国一の大貴族家である。


数年前から財政難に陥っていた王家が縁を結びたいと頼み込んで結んだ婚約であった。

王家としては、王太子妃にと望んでいたのだが、王家に取り込まれると活動が抑制される、それをよく思わない当主である父が、『臣下となった王子とならば嫁に出すのも吝かでは無い』と答えたので、正妃の子では無い元男爵令嬢の側妃の子であるユーリアンと婚約させられたのだ。


完全な政略結婚だったが、貴族令嬢である以上それには異論は無い。


別に全く好きでは無かったし、優秀さの片鱗もみられない会話の続かない彼との結婚生活に希望を持っていた訳でも無かったのだが、ウエディングドレスを試着して、もうあと1ケ月で結婚式だとさすがに気分が高揚していたその席での急な婚約解消の申し入れに、そのデリカシーの無さと自分勝手さにエルザベートは辟易として、少なからず心に傷を負わされたのは確かなことであった。


父にすれば、これで王家に余計な枷を付けられることも無く大きな貸しが出来たと清々した気分だったのだろうし、王家は父が離反しないように最大限早急に対応したその結果、エルザベートは爵位と領地、そして慰謝料で多くの金貨を手に入れ大富豪となったのだが、本人の気持ちを誰からも聞かれることもなく、幽閉のように思い入れも何も無い地へと追いやられた、と鬱ぐのだった。


ドレスサロンでの解消の申し入れ、平民のスタッフたちの前でのやり取りに、あっという間に噂が広まるのは当然で、社交界で面白おかしく話されて、それは被害者であるエルザベートを嘲笑するものも多く含まれるだろうことも、誰でも想像することだったろう。


だから、父は公爵家の邸にエルザベートを戻らせず、王宮からそのままケーニヒスゼーの離宮へと向かうように命じたのは噂を気遣ったのかもしれない。


ただ深い森の中、澄んだ湖畔の離宮は美しく、細部にまで拘った意匠の立派なものだったし、状態は王家所有なので当然、清潔に保たれ優秀な王家の使用人が仕えていて文句の無い保養地ではあったのだが、別に病身でも無い若者が長く住むには刺激も楽しみも無く、静かで寂しい、そんな場所であった。


生まれて一番綺麗な私だと思った次の瞬間、独り寂しい場所に閉じ込められ咎人のよう、そんな気持ちを抱えながらも1年を過ごして、今度は突然父から『寄り子のアーレンス伯爵との婚姻が決まった』と言う、一方的な便りがもたらされて、エルザベートの幽閉生活は終わったのだった。


アーレンス伯爵であるギルベルトはエルザより6つ年上の再婚で、先妻が嫡男を生んですぐに亡くなったので家政を取り仕切る女主人を求めていた。


寄り家の訳有り令嬢を娶れば、公爵家に恩も売れるし、嫡男の後見も得られるしと言う旨味の多い政略結婚だ。


父にしても、瑕疵の付いた娘の嫁入り先としては先ず先ずだと思ったのだろう、エルザベートはユーリアンとの結婚の為に仕立てたウエディングドレスを着せられて、王都に戻ると半月でアーレンス伯爵へと嫁がされたのだった。



ただギルベルトは『お前を愛することはない』なんて安い舞台のような陳腐な台詞を初夜の晩に吐くことも無く、型通りで正しい政略らしい結婚生活が始まって、すぐに妊娠し翌年には娘を生んだ。


先妻の子レオナールは母親の記憶も無い為、すんなりとエルザベートに懐き、生まれた妹ミリアムも可愛がって、仲の良い兄妹として育っていった。


ギルベルトは、ケーニヒスゼーの離宮を訪ねてきた形式上の見合いの席でも結婚式でもミリアムを生んだ後も変わらず、無口で淡々としていて、でも時間が許す限り必ずエルザベートの側にいた。


エルザベートは子育てをしながら徐々に社交界へと戻り、アーレンス伯爵家の利になるように、貴族間の縁を上手に結んでいった。


結婚当初は、『王子の婚約者が伯爵の後妻なんて随分な転落ね』とか『地味な見た目にはお似合いなお相手よ』とか『仮面夫婦』とか嘲笑されていたけれども、たれ目気味な目を細めて薄く微笑んだ顔で佇めば、結婚間際で一方的に婚約解消され、責任は元王子一人にあると言う王家の広報も繰り返し為されていたので、儚げな印象のエルザベートを苛める悪役令嬢、意地悪夫人と噂をしていた相手に不名誉なあだ名がついて、その者たちは社交界からつま弾きにされ失脚して行ったのだった。


因みにそんな場面でも、夫のギルベルトはエルザベートを放って紳士仲間の集団に入って享楽に耽ることも無く、婚前から親しくする女性と知らぬ間に消えることも無く、必ず隣に居る黙って居る。


隣なのだから気分の悪い会話が彼にも聞こえているはずなのに、一度も反論めいたことを言うことも無く、『気にするな俺がついているから』なんて言葉をかけるでも無く、相変わらずムッツリと黙りこんだデフォルトな顔で隣に居た、だけ。


ギルベルトは、茶色の髪に茶色の目、特段眉目秀麗と言う訳では無いが、騎士かと見違えるほどの大きな恵まれた体躯でキリリとした凛々しい顔立ちではある。


が、常にムッツリと口を真一文字に結んだ顔で無口な姿は気難しく見えて、女性から秋波を送られると言うことは無い。


結婚して間もないある日、王家主催の夜会に初めて夫婦として出席した時に、偶然なのか意図して待ち構えていたのか、

「エルザ、久しぶりだな」

と、ユーリアンに軽く人の合間から声をかけられた。


元王子とはいえ、今は子爵家の婿と言う立場、子爵でもなく個人の爵位も持たぬ彼が、伯爵夫人のエルザベートに気安く声をかけるのは重大なマナー違反であるし、お互い婚約を解消した身で夫を前にして呼び捨てるとか常識を疑う振る舞いであった。


そんな声かけにエルザベートは足を止めることも無くチラリと視線を向けることも無く、ギルベルトにエスコートされたまま通り過ぎた。

すると、名乗りもせず挨拶もしない女が、

「無視するなんてひどい、そんなんだからユーリに捨てられるのよ。お高く止まってると実家の力で無理矢理娶らせたその伯爵様にも捨てられますよ」

と、通り過ぎた後ろからキンキンした金切り声で聞き捨てならないことを叫ばれた。


さすがにエルザベートも足を止めて、チラリとギルベルトを見上げれば、ギルベルトは、はぁぁとため息を一つ吐いて、

「無礼者に関わるな、時間の無駄だ」

と言って首を横に振り、そのまま進み始めた。


相手に何か言い返すなり、エルザベートに言い訳を言うなり何かはすると思ったが、ギルベルトはいつもの顔でいつも通り淡々としているだけであった。


ただ後日、ベーム子爵家にアーレンス伯爵家と王家から、夜会での子爵令嬢とその婿のアーレンス伯爵夫人を貶める態度に対して苦情が入れられて、リリの父子爵から平身低頭な謝罪が為された。


ユーリアンが次期当主になると、次期当主だったリリの兄が平民になってしまうし、兄の子も平民になってしまう。

しかもユーリアンは子が作れないので子爵家は断絶してしまう。


王子を当主にしない為、兄とその子を平民にしない為、父は兄の子が成人するまで死ねないし、爵位を守らねばならない。


ユーリアンは自分が子爵令嬢の婿と言う、実にあやふやな立場だと暫く気付かず、リリもわかっていなかったようだが、夜会でエルザベートに難癖をつけたそれ以後、社交界で見かけることは無くなった。


王家が護衛を派遣して厳しく見張り、子爵領の外れに建てられた別邸と言う名の簡素な小屋で、王都では味わうことの出来ないストレスフリーなスローライフを送っていると、どこかの茶会で一度耳にしたくらい。


エルザベートには最初はビターな社交界だったが年数を重ねれば、夫唱婦随なアーレンス伯爵家と呼ばれるようになって行った。


エルザベートは元公爵令嬢であったので淑女マナーは完璧であったし、性格も我慢強くて、人の機微にも聡く気が利くと好意的に受け入れられていた。地味な見た目も年を経てみれば、落ち着いた上品な容姿と言われるようになった。


先妻の子レオナールは、王国一難しい男子校の王立学院へと入り学院内でも成績上位者で優秀な次世代の代表格と言われた。

それも幼い時よりエルザベートが自ら勉強を教えたり、家庭教師も自分が教わった者やその紹介者から選んで、熱心に取り組ませたことが身を結んだ、と周りから言われていた。

娘のミリアムにも差を付けずに同じように教育したので、彼女はエルザベートと同じ王立女学院へと進学した。


レオナールが大学へ、ミリアムが女学院へと入学した時に、王国の平均年齢では比較的遅くそれぞれに婚約者が決められた。

その婚約者選びもエルザベートが厳しい調査した結果選んだ者たちで、彼らは王立貴族学院と言う共学校の者であったが、学園で廃れた行いをする者は婚約者候補にすら選ばれなかったので、学校が違う婚約者に隠れて不貞を行うようなことは無かった。


二人の婚約が各々結ばれた後、エルザベートは子供たちを前にして、自分が婚約破棄されたこと、ユーリアン元第二王子の婚約解消に至った話とその後の転落をきっちりと話して聞かせた。

レオナールは自分の生みの母がエルザベートでは無いことを乳母から聞いて知っていたが、ミリアムは知らなかったので、婚約解消の話と共にとても驚いて、母の気持ちを慮って泣いた。


「ミリアム、泣かないで良いのよ。ただ人に後ろ指を指されるような愚かなことをあなた方はしないでね」

ミリアムをそっと胸に抱いて、髪を撫で、レオナールにはいつもの慈愛に満ちた微笑みを向けながら、そう伝えたのだった。


「ええ、母上。私にとって母とは母上だけ。その母上の汚点になるような愚かな真似は決して致しません。ただ、その元王子が愚かであったが故に私は母上の息子になれた。正直それは良かったと思ってしまうのですよ」

レオナールが目に困惑を滲ませながらそう答えた言葉に、エルザベートはこれまでの母として歩んできた道程が報われた気がして、嬉し涙をホロリと流したのだった。




レオナールもミリアムも寄宿舎へと入ってしまい、邸で向き合うのは無口な夫ギルベルトと二人。

朝食も、お茶も、夕食も。

王都のタウンハウスでも領地の邸でも。

夜会でも、今でも隣にはムッツリした顔のギルベルトが立っていた。


当然、執務中は執務室で補佐官たちと仕事をしているし、トラブルの折衝に向かったり、人に会いに行ったりとギルベルトが一人で出掛ける時間もそこそこ多いし、お茶会や教会のバザー、寄り家や寄り子の貴族家夫人との社交でエルザベートが一人で出掛けることも間々ある。


それでも子供たちが居た時は、7割、8割、9割がた子供の事に気を取られていて、そんなにギルベルトを気にしては居なかった。

居なかったのだけれど、だからといって気にならないかと言われたら、そんなことはない。

なんせギルベルトはノンデリなのだ。


家族の誕生日を気にして、プレゼントを用意したり好きな料理を料理長と決めたり。

そんなやり取りは当然エルザベートが引き受けていたが、ギルベルトはただの一度もエルザベートに贈り物をしてくれたことがない。


「俺は物を選ぶセンスに欠ける。君が君の好きなものを買えば良い。誕生日のその分は夫人の歳費からでは無く私からとするように家令には言ってあるから」

とか、

「ドレス、夜会のドレスなぞ君の好きなものを着たら良い。商人を呼んですぐに頼みなさい。家令にそのように伝えてあるから」

とか、

「宝石?インテリア?何でも必要なものを買うのに私の許可なぞ必要無いだろう。家令に伝えておくから自由にしなさい」

とか、結局自分で自分の誕生日プレゼントを選ぶのだった。


プレゼントってお金払うだけじゃなくない?値段だけじゃないだよね、その過程とか、相手を思って選ぶって言う行為があってのことじゃない?

そんなモヤモヤした思いは、結婚以来ずっと胸に燻っていた。


ギルベルトの友人への心付けも、夜会のちらりと見せるお揃いなアクセサリーも、結婚記念日の記念品でさえエルザベートが家令と侍女頭と相談して決めるのだ。


今ではエルザベートの好みを家令は完璧に把握していて、出入りの商人に持参させる前の段階で既にエルザベートの好みの物を指定しているようで、目の前に並べられる商品はどれもこれも甲乙付けがたい物ばかりだ、何十、何百回と家令と侍女頭と一緒になって自分の為のプレゼントを選んだことか。


今までは不満に思うもそれほど長く続かなかったのは、その後にレオナールとミレアムが心配りをしてくれたプレゼントを渡してくれたり、二人のことで頭が一杯だったからだったからで、それが無くなった今は、モヤモヤムカムカは消えること無く累積していくばかりであった。



そんなある日、いつものように同派閥の夫人会へと向かった先で、同じ伯爵夫人であるアグネスが病気で会合を欠席したことを心配して、手紙を送った。

すると直ぐに返事がきて、会って話がしたいと書いてあったので、日時を決めて見舞いに行った。


久しぶりに会ったアグネスは、随分窶れていて、髪も肌も艶が無くなっていた。

「まあ、アグネス様。お加減が悪いと伺ったのだけれど、どうしたの?どこが悪いの?」

不躾な言葉だとは思うけれど、そこは旧知の仲。

二人は女学院の同窓で、お互いの婚約者の質の悪さを嘆いた仲だった、エルザベートの婚約者は当時は元王子だったのだが。

アグネスの夫ホフマン伯爵は、平民のメイドに入れあげていて当時から婚約者のアグネスを蔑ろにしていたし、エルザベートの婚約者だったユーリアンも貴族学園で子爵令嬢と親密な付き合いをしていると、学校が違えど聞こえて来るほど噂になっていて、お互いにこのつまらない政略結婚の枷から逃れられないかと話し合ったものだ。


残念ながらアグネスは逃れられずにホフマン家に嫁ぎ、一子を得たが夫婦仲は推して知るべしであった。


「エルザ、私もう先が長くないのよ。医者に告げられたのよ。私が何か悪いことをしたかしら?神は罰を与える者を間違えたのよ、アイツがのうのうと生きて私が先に死ぬのなんて可笑しいと思わない?私の人生っていったい何だったのかしら。死んだ後、アイツが私の子を蔑ろにしないように、エルザに後見を頼みたいのよ、お願いよ」

挨拶もそこそこに、そう涙ながらに語るアグネスの骨ばった肩を抱いてエルザベートもまたはらはらと涙を溢した。

一頻り泣き終えて、『ねえ、どうせ余命が幾ばくもないのなら、いっそこんな所に居る必要などないじゃない』と言う話になって、アグネスをアーレンス伯爵家の馬車に乗せて生家のロルベルク公爵家へと向かった。



その日、アーレンス伯爵家にはロルベルク公爵家に泊まると連絡を入れて馬車と侍女を帰した。


ところがそれからエルザベートがアーレンス伯爵家に戻ってくることは無く、三日目に家令から帰宅を即す手紙が着いた。


それに返事も無く当然帰宅など為されず、翌日にはギルベルトからエルザベート宛に突然の帰省を咎めるような内容の手紙が着たが、それにも返事が無かった。


エルザベートの身に何かあったのかと心配した使用人が内々で公爵家の使用人に聞きに行った所、健康問題などは無いそれ以外は言えないとの返事を受けたとギルベルトに知らせた。


「はあ、どう言うことだ、エルザベートはなぜ連絡を寄越さない、もう私が向かう。先触れを出し馬車を回せ」


向かった先の妻の生家でギルベルトに対応したのは、現ロルベルク公爵夫人エルザベートの義姉であった。


「あらご無沙汰ね、伯爵。先触れと同時に来るとは随分なマナーだこと」

普段はそんな上から目線の発言をしない、エルザベートと同じ完璧な淑女然とした公爵夫人とは思えない刺々しい発言にグッと息を飲んだ。


「妻が、突然生家から戻らず、手紙の返事もない。それを心配して駆けつけてしまいました。マナー違反はお詫び申し上げます」


感情の読めない顔で謝罪と来訪の理由を告げたギルベルトの横を、エルザベートの兄公爵と書類束を持った男が通りすぎた。


「では、そのように早急に手配を頼む」

珍しく公爵の顔に疲れが滲んでいるのを、ギルベルトは黙って眺めていた。


「はい。帰って直ぐに対応して、届け出をしておきます。受理が終われば確認書が送られてくるはずですので、受け取り後事務所へとまたご連絡下さい」

書類束を持った男はきびきびと公爵へ返事した後、ギルベルトに目を向け軽く頭を下げる挨拶をして、帰っていった。


「ああ、アーレンス伯爵。今は大変立て込んでいる、エルザベートは暫く、当面帰らない。無事であるし、至って健康であるから心配無用だ。落ち着いてから連絡をさせるから今日はお引き取り願おう」

公爵が夫人の目線を気にしながらギルベルトに一方的に告げて、公爵家の使用人が慇懃無礼にドアを開けて帰宅を促した。


ギルベルトはデフォルトの真一文字に口を閉じて、珍しく眉間に深いシワを寄せていたが、そのまま無言で立ち去ったのだった。



義弟のアーレンス伯爵が立ち去ると、公爵夫人はチラリと夫の顔を一瞥してから無言で自室へと戻って行った、公爵である兄は妹エルザベートを思って深い後悔をしていたのだった。


数ヵ月が経ち、深い森の湖畔の離宮には健やかな笑い声が響いていた。

「おめでとう、アグネス晴れて自由の身よ!」

「ありがとうエルザ。貴女のお陰よ」


余命宣告をされていたホフマン伯爵夫人のアグネスは、伯爵家の使用人から毒を盛られていたことが発覚した。

それは夫であるホフマン伯爵の指示によるもので、妻にしてくれないのなら別れると愛人に迫られてのことだった。

自由に外部との連絡を取らせ無いように使用人に言いつけていたが、元公爵令嬢であるエルザベートの来訪を使用人が断る無礼は許されず、あの日の見舞いを受けることになったのだ。

エルザベートは強引にアグネスを生家であるロルベルク公爵家に連れていった。

派閥も違う、上位貴族の家に押し入ることなぞ貴族社会では出来ないのだから。


生家で主治医に見せると直ぐに毒によるものだと判明し、公爵家から憲兵に告発すると同時に、アグネスの療養に嘗ての慰謝料でもらったケーニヒスゼーの離宮へ行くことを決めた。


「お兄様、わたくしが一番辛かった時にその不幸を利用して王家に対して大きな恩が売れたのです。

どうぞ今度はわたくしに恩返しをしてくださいませ。ええ、お兄様もお父様も愛情故と仰いましたわね、当時も。

でもわたくし、なぜ王家がわたくしに責がないと言っているのにあんな辺鄙な場所に1年も軟禁されなければならなかったのか、わたくしは見捨てられたのかと毎日毎晩呪ってましたのよ。


お母様とお義姉様はわたくしの気持ちを汲んで何度も離宮へとやって来て慰め、お父様にもお兄様にも非道な仕打ちだと泣いて訴えて下さいましたのに、お二人は突然の婚約解消に心を壊してしまったと言うストーリーの方がより王家の力を削げるから我慢せいとわたくしに咎人のような暮らしをさせて。


お陰で王家に対してより強い立場を得ることが出来ましたでしょう?わたくしの不幸を踏み台にして。

ええ、ええわかってますわ、貴族の矜持でございましょう?散々仰っていましたものね、お兄様。どうぞその矜持を以てわたくしに恩を返して下さいませ」


エルザベートはもう年若い乙女では無いし、淑女の仮面の下には社交の場で揉まれた狡猾な顔も持ち合わせていて、しかも執念深いと言う性質故に絶対いつか反撃してやると思い返しムカつきを繰り返していた。

父も兄も、どうせならギルベルトもエルザベートのことを大人しく御しやすい女だと侮っている節があったけれど、そう言う女の方が油断するだろうと態とそう振る舞って居ただけであった。

だいたい、そんな女、貴族夫人として何人いるのか。そんな女に家政を任せて大丈夫だとなぜ思うのか、不思議であるし愚かだと思う。


アグネスも母も義姉も、手弱やかに見せてはいても強かで、そのお陰で一門の統一が図られていることに気付いてもいない、それは第二王子であったユーリアンと同じような者である。


子供が育ち手を離れたらいつまで一緒に居るかを決めるのはこちら側だろう、と思っている女は以外と多いのだ。

兄は義姉に『ホフマン伯爵は犯罪者だから当然一番悪いのだけれど、妹に対する仕打ちを見ていつかの自分の姿を想像して幻滅した』と告げられて、初めて順風満帆だと思っていた足元の不安定さに気付いた所だ。


公爵家の全面支援を受けて、ホフマン伯爵は捕まり爵位を剥奪され平民となり生涯強制労働の罰を受け、毒を盛っていたメイドと唆した愛人は絞首刑に処されとっくに散った。

ホフマン伯爵家はアグネスの生んだ成人した娘が継いだが、まだ女学院生だったので、暫くはロルベルク公爵家が後見人として代理を派遣して管理することになっていた。

これで、ロルベルク公爵家門がまた一つ増え、より影響力が増したのだから兄も本望であろう。


アグネスは毒が完全に抜けて体調が整うまで、離宮で療養することになっていたのでエルザベートも付き添うことにした。

黙ってアーレンス伯爵家を出てきたことに後悔は無い。

あの日まで、15年もあったのだ。

愛を語らずとも情を感じる時があっても良かったはずなのに、エルザベートはギルベルトから何も感じることは出来なかった。


いや、エルザベートには政略結婚の旨味が凝縮されているのだろうな、そんなことは何度と無く感じて虚しさを数えるのを止めた。


結婚生活の中で、彼から愛情どころか花一輪も貰ったことが無いのだから。


ホフマン元伯爵とは違い、彼は亡くなった先妻に愛を捧げている、と言うことも無い。

だから先妻の子レオナールにも、エルザベートの生んだミリアムにも同じ対応で、それは子へ向ける愛を見つけることは難しい。

エルザベートが教育に悩んでも、トラブルに奔走しても、その都度相談しても『そうか』の一言だけ。相談に乗ることも、一緒に悩むことも、慰めることも無かったのだ。

そう、彼にとって自分以外は興味が無いのだ、アーレンス伯爵家の体面以外としても良いのかもしれない。


だから、衣装室に残されていた先妻のドレスをどうするかと尋ねた時も『君の好きなように』レオナールの子供部屋の、実母が決めた内装を年相応に改装する時も『君の好きなように』宝物庫に残されている嫁入りの時に持ってきた宝飾品をどうするか尋ねても『君の好きなように』


無いから、好きなようにする気が無いから!

何度そう言い返したいと思ったか。

その都度、侍女と侍女頭が慰労するような視線を寄越して、適切に対処してくれたから我慢できたけれども、彼には人を思いやる、慮ると言う気が無いのだろう。


どうせならこのまま、この離宮に住み続けても良いかもしれない。

爵位だってあるし、ラインフェルズ女伯爵として独立しても良いかもしれない。


ホフマンと別れ身軽になったアグネスを見ていると羨ましい気がして、そんなことを考えたりしながら一度も手紙も書かずに過ごしていた。


義姉からは、ギルベルトが何度も公爵邸を訪ねて来ていることは知らされていた。

『ふん、そんなところにはとっくに居ないわよ。君の好きにしたら良いっていつもみたいに言えばいいじゃない』

手紙を読みつつ、アグネスに愚痴りつつ、決定的な決断が出来ずに季節だけが移り変わっていた。


その日は突然で、朝食前に離宮の門番からもたらされた報告だった。


「エルザベート様、ケーニヒスゼーの領門にアーレンス伯爵とご子息ご令嬢がいらっしているとのことです」

「ええ、狡いわ。子供をダシ使うなんて」

「じゃあ、追い返して貰えば良いじゃない。この前の公爵閣下にしたみたいに」

憤慨するエルザベートにアグネスがからかうように言った。


数日前に、先触れもなくロルベルク公爵である兄が突然訪ねてきたのだけれど、腐っても王家。

ここは王領地であるし、しかも離宮はエルザベート個人の所有なので王宮から派遣されている護衛がエルザベートの意向を無視することは無く、険もほろろに追い返されたのだ。


その後、義姉から兄の無礼を止められなかったことを詫びる手紙が着たのだが、義姉との仲がギクシャクしているのをエルザベートがいつまでも離宮に居るからだと責任転嫁した考えからやって来たらしい。

それによって、より一層姉との仲が拗れたみたいだが、『それはお気の毒様』と言う言葉と裏腹に、自業自得だろうとにこやかな笑顔を浮かべてしまった。


「良いわ、お通しして」

何ヵ月ぶりにあった夫は、記憶の中のどの時よりも萎れていた。


「いらっしゃい、レオナールミリアム。今日はどうしたのかしら、学校は?」

応接室に家族を通して向かい合って座ると、優しい眼差しを子供たちに冷たい眼差しを夫に向けて問いかけた。


レオナールとミリアムがお互いに目で会話しているようだったけれど、意を決したようにレオナールが、

「母上、今日こちらを訪れたのは学院で母が失踪したと友人から聞かされて、驚いて家に帰ってみれば母の気配も無く、父上を問い詰めてことの次第を聞いたからだ。僕が急いでミリアムへ連絡をして伝えたんだ」


「わたくし、失踪したことになっているの?どうして?」

家内のことを他家に知られるなど、うちの使用人たちはそんなことはしないと信じていたのだが。


「父上が会員制の社交サロンでロルベルク公爵閣下と揉めていたのを何人もの人が見ていたと言うんだ。『話が違う、少し待てばエルザベートも帰ってくると言ったじゃないか』ってえらい剣幕で」


まあ、それは一夜にして噂が噂を生んで広がってしまうわ。

だから兄が強行突破して連れ戻しに来たのね、納得。


「お母様、侍女たちからお母様のお話を聞いて、伯母様にも会ってお父様とのことを伺ってきたけれど、私はお母様の味方だから。もう自由になって良いと思うわ」

ミリアムが冷たい目でギルベルトを見てため息混じりに呟いた。


「それは僕も同意見さ。母上の献身に何一つ報いないなど貴族紳士にも劣る」

レオナールも呆れた様子で己の父親を見ていた。


「どう言うこと。何を聞いたのかしら」

項垂れて顔を上げないギルベルトを見ながら問いかけると、いつものおっとりとした態度は霧散して目を三角にしていかにも怒った口調でミリアムが、


「一度も、お母様にドレスもアクセサリーも誕生日プレゼントも送らずに過ごしてきただなんて!自分のお誕生日にはお母様から毎年プレゼントを受け取っていたじゃない。祝いの席でも一言の感謝も無いなとは思っていたけれど、子供の前では恥ずかしいいのかしら、なんて好意的にみていたら結婚生活の中一度も無いだなんて!夫として、いえ人として可笑しいわ。お母様が失踪したくなっちゃうのも当然よ」

と、失踪した前提で話した。


「父上、こんな時にまで無口で居て良いのですか。たぶん今回が最後になる可能性が高いですよ。次は公爵家からの使いで弁護士から離縁届けを渡されて終わり、このままならそうなると僕は思う。そうなっても僕は母上の味方だけれども」

いつの間にか大人になって、レオナールの話し方から成長を感じて嬉しくなってしまう。


茶色い髪に茶色い目の、夫に良く似た顔立ちなのに、所作や雰囲気が柔らかいからかレオナールは女性からの評判が高い、自慢の息子だ。

一方、ここまで話のきっかけを子供たちに作って貰っているのに夫の口は真一文字に結ばれたまま、でもその眉間には珍しく深いシワが寄せられていた。


どうしたのかしら、いつもは淡々としているのに。

公の場で爵位の高い公爵である兄に食って掛かるという話も信じられない、夫はとにかく無口がデフォルトだから。

何か不具合が領地であったのかしら?いやでも、領地のことを私がすることも無いしね。社交の場で噂になっているとは義姉からは聞いてなかったから、最近の出来事なのでしょうね。どうしたのかしら。


小首を傾げて、目の前の拳を太ももに置いたまま力強く握っている夫を見ていた。


脂汗が額に吹き出し、ギュッと目を瞑った後、ガっと開けてエルザベートを睨み付けて、大きく息を吸っては吐いて吸っては吐いて、吐きながら

「も」

と、言ったまま固まった。

「続けて」

暫く、もの次の言葉を待っていたけれど無いので先を即した。

それ申し訳なかったって続くんでしょ?謝罪くらい出し惜しみしないで言いなさいよ、何なの?妻に謝ったら死んじゃう病?失礼しちゃうわ。


「も」

だから、『も』はわかってんだつーんだよ、次はよ次。

もう合いの手も入れてやらない。

子供たちも呆れた眼差しで見ている。

いい、あなたたちはこんな謝れない大人になってはダメよ。反面教師にするのよ、わかった?

アイコンタクトで二人に告げると、うん、はいと返された(気がした)。


「も、も、戻ってきてくれよ~」

すると突然夫が頭を下げて泣き始めた。

え、そっちの『も』?いや謝罪からじゃない?子供じゃあるまいし。


「まさか、まさか俺の気持ちが、つた、伝わって無いなんて。あ、」

あ?何よ、こんな所で無し崩し的に愛してるなんて言われても絆されたりしないんだからね。


「あ」

だから『あ』の次はいでしょう、そんな所で止まっちゃって本当に台無し。ほら続けなさいよ。


「あ、あ、呆れて物が言えない」

「何ですって!どの口で言っているのよ、呆れて物が言えないのはわたくしよ!」

本当に、何こいつ、喧嘩売ってんの買うわ、上等よ。

淑女としての仮面などこんな奴には不要と脱ぎ捨てて、部屋中に響き渡る大声で言い返した。


それに負けずに

「俺は神に誓ったじゃないか!病める時も健やかなる時も汝を妻として愛すると誓っただろう、君だって誓ったじゃないか。その誓いを信じて無かったのか!信じられない神への冒涜だ」

と、目を吊り上げて言い返してきたけれど、涙も鼻水も垂れ流しているきったない顔で言われてもね、怖くもへったくれも無いわね。


「そんなの、それ言ったの司祭様じゃない、あなた『はい、誓います』って言ったのよ、それだけ」


「そ、それだけって。誓ったじゃないか!ここにだって、君に初めて会った時にだって、君に言ったじゃないか『大切にするから結婚して欲しい』って。君は『わかりました』って、わかったって言ったじゃないかわかったって」

言いながら悲しくなったのか、語尾は消えそうなほど小さな声になって顔を覆ってウゴウゴと嗚咽を漏らして泣き続けた。


「だって、父からはあなたとの結婚が決まったって先に連絡が来たんだもの。もう決まったことに『わかった』以外の答えってあるの?」

エルザベートの困惑した声での返答に、涙と鼻水で濡れた顔を上げて驚きに目を見開いて

「え、え、え、」

え!今度はえ?えの次何よ、え?って言う問いかけ?なに驚いているのよ。


「エルザ!」

名前かい、と言うか愛称で呼ばれたことなんて一度も無いけれど。あなたいつも君じゃない、私の名前知ってるのかしらって思っていたわよ。エルザの次がわからないなんてこと無いかしら?


「エルザ、エルザベート!き、君は俺との結婚は何だと思っている?」

あら、知ってたみたい。いや、結婚に何とかって何なのよ。

「政略」

「違う!俺が義父に、前公爵閣下に頼み込んで願ったんだ。後妻だなんてダメだと難色を示されたけれど何度も何度も頼み込んで、義兄上にも頼んで、それで一年かかってやっと叶ったんだ!聞いてないのか!」

聞いてなーい、聞いてないわ。義姉様からも母からも聞いてない、寧ろ二人とも政略の道具にしてって怒ってくれたんだもの、知らないわよ。


「知らないわよ。あなたそんなこと仰ったこと一度も無いじゃない」


「だ、だって俺は君の最大のイェスマンだったじゃないか!」

「どこがよ!」

「君の好きにすれば良いっていつも言ってたじゃないか。毎日の食事も、外出も出来る限り一緒に過ごすように態度で示してきたじゃないか。夜会でも常に隣に居たじゃないか!それでわからないとか、信じられない」

た、タシカニ!確かに時間が有れば隣に居たし、『君の好きにすれば良い』とは耳タコ位言われたけれども、けれども!


「あ、あなた、花一輪わたくしにくれたこと無かったじゃない。ドレスだってアクセサリーだって全て自分で手配してきたのよ。何が悲しいって結婚記念のプレゼントを自分で選ぶこと程虚しいことって無かったわ」

あの時の、結婚5年目、10年目の区切りの記念品を一人で、いや違うわね、家令と侍女頭と三人で選んでいた時の気持ちを思い出して、ホロリと涙が溢れちゃう。


「あ、え、あ、え」

今度は何よ、あえ?あえって何よ、何で大の大人が喃語しゃべってんのよ!


キッと睨み付けようと顔を上げた瞬間、テーブルを跨ぐと大きな手が頭を包んで、広い胸に押し付けられ、

「ごめん、エルザ、ごめんよ。俺が全部悪い。全て俺の不徳の致す所だ。エルザ俺が全部悪いから直す、神に誓って直すから泣くな、エルザ。エルザベート泣かないでくれ」

そう言って、優しく背中を撫でられ抱き締められたのだった。


「こ、子供の前でなんとはしたない。離して、離してってば」

暫くして我に返って、ギルベルトの腕の中から抜け出そうと足掻いた時には良くできた子供たちは部屋から退席してくれていた。


それから、どこかの夜会でユーリアン元王子に邪険にされている姿を見るにつけ、心配になっていたとか、その時、自分だったらあんな目に遇わせないのにと仄かに思っていたとか、婚約解消の話を聞き付けて、一番に公爵邸を訪れたことを聞いた。


プレゼントも記念品も渡さなかった理由は、婚約者時代から先妻がギルベルトのセンスの無さを嘆いて『購入する時には家令か侍女頭に聞いてからにして』とある時に言われたと言う。

婚姻後は、自分で好きに選びたいと言うので、『女性とはそう言うものか』と理解した、思い込んだと言うことだった。


帰ってこないエルザベートがそのことを不満に思っているとは露にも思わなかったが、家令にも侍女頭にも子供たちにも指摘されて、それが非常識なことだ初めて知ったと言う。


「エルザ、」

「そうそれですけど、あなたわたくしのこと、いつも君と呼んでらっしゃったでしょう?エルザって愛称で呼ばれたことありましたっけ?」

いい大人が瞼と鼻を赤くした顔でお互いに向き合い、小首を傾げて問いかけると、

「あ、あ、ええあ、」

「何よ、はっきり仰って」

「君が寝ている時には、え、エルザと呼び掛けていた。ロルベルク家の人たちは皆君のことをそう呼んでいたから自然と心の中では呼んでいたけれども、君に呼んで良いか尋ねるのが恥ずかしくて、長い時間を過ごしてしまった。君のことをエルザと呼んで良いだろうか」

ギルベルトは首まで真っ赤に染めてそう尋ねた。


「ええ、良いです。で、なんですか。お話を遮ってしまったでしょう?」

赤面が移ってしまいそうで、少しぶっきらぼうな物言いになってしまったが、


「エルザ、帰ってきてくれ。別れるなどそんなことを言わないでくれ。きみ、エルザベート、愛しているんだ」

そう言うと、床に膝をついて指先を手に取って額に当てて懇願した。


それは騎士の誓いのようで、さっきもこの人神への誓い誓いって言ってたな、そんなことを思った。


「ええ、わかりました」

了承の意を伝えると、目を輝かせて立ち上がり横抱きに抱えて、さあ帰ろうと歩き出そうとするので、

「ちょっと待って、ちょっと待って。アグネスの体調が万全になるまではまだここから帰れないわ」

と胸を叩いて告げると、絶望した顔を見せた。


え、あなたこんなに表情があったのね、15年間淡々とした顔しかみたことなかったのにと顔を見つめた。


「ここでなければ治療が受けれない訳では無いのだろう?」

「そうだけど、療養地としてはここは向いているのよ、空気も綺麗だし安全だし」

その言葉に、いつもの淡々としていて真一文字に口を結んだ表情をした。


「わかった」

小さくそう答える姿をみて、この顔って我慢している表情なのかしら?と思い至る。

「でも貴方もお休み前とか時間のある時には訪ねてきたら良いじゃない。先触れは出してね、門番に伝えておかなきゃならないから」

そう言ってみると、ぱあ~と明るい笑顔が広がった。


帰りたくない帰りたくないと駄々を捏ねるギルベルトをレオナールが宥めて馬車に乗せて、帰るのを手を振って見送った。

それから数時間後に手紙が持たされて、翌日朝に来ると言う。

いや、来るの早いから、仕事しなさいよ!と返信を出して、直ぐ様、では午後一でと返事が来て、あまりに頻繁に手紙がくるのでやり取りが面倒になって、アグネスからも


「一度帰ってあげなさいよ。アーレンス伯爵家の使用人が不憫だわ」

と言われたので、しょうがないと重い腰を上げて翌日に一時帰宅した所、使用人たちに囲まれて泣かれてしまった、ギルベルトが使い物にならなくて苦労をかけたみたい。


泊まり込みは止めて欲しい、何時でも良いから帰ってきて欲しいとギルベルトが出がけに馬車の前でグズグズと泣くので、結局、アグネスの状態がほぼ元通りと言う診断が出るちょっと前には、一足先にエルザベートは元通りの生活に戻ったのだった。


ただ違うのは、ギルベルトの表情が豊かになったことと、アーレンス伯爵家の中に、

「エルザ!エルザ!」

と、エルザベートを愛称で呼びながら探し回るママ追い時期の子供のようなギルベルトの姿が見られるようになったことだろうか。


「ギル、そんな大声で呼ばなくても聞こえているわ」


夫を愛称で呼ぶエルザベートが呆れた顔を見せるとそそくさと横に寄り添い腰を抱くギルベルトの姿が。

少しだけ騒がしくて仲良さげになったアーレンス伯爵夫妻の日常の一幕であった。











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