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十年間も交際を隠した社長の恋人が、忘年会では新任秘書ばかり特別扱いするので、私は会社も彼も捨てました

作者: 熾星
掲載日:2026/08/07


1.最後の忘年会

 神谷テクノロジーズ株式会社の忘年会は、駅前のホテルで開かれた。代表取締役社長の神谷怜司は、新任の社長秘書である相沢莉奈を連れて二十分遅れて現れ、私の隣に残っていた席を見ると、わずかに眉を寄せた。十年前には七人が古い雑居ビルの一室に集まっていた会社も、今では数度の資金調達を経て社員数が二百人を超え、取締役会と社外取締役を置くまでに成長している。


「朝倉、もう少し奥に詰めてくれ。相沢はここなら料理を取りに行きやすい」


 私は皿を持ち上げ、長テーブルのいちばん奥へ移った。怜司は私が素直に従うと思っていなかったらしく、一瞬だけこちらを見た。その直後、スマートフォンが震えた。


「気にするな。新人に気を配っているだけだ。明日は映画に行こう」


 私は一言だけ返した。


「わかった」


 それで安心したのだろう。宴会場の中央にはビュッフェ台が並び、怜司は莉奈のために料理を取り分け、グラスが空けば飲み物を注いだ。酔った社員が冗談半分に酒を勧めると、そのグラスまで取り上げた。私たちは十年間も交際を隠してきたのに、彼は同じテーブルに私がいることさえ忘れたようだった。


 莉奈が明るい笑顔でグラスを掲げた。


「社長はもうかなり飲んでいますから、この一杯は私が代わります。皆さん、来年もよろしくお願いします」


 怜司は彼女の手からグラスを取った。


「これは僕が飲む」


 周囲から、好意的で大げさな歓声が上がった。莉奈は耳まで赤くしてうつむき、怜司はそんな彼女を見て口元を緩めた。社内チャットには役員が参加していない非公式の雑談チャンネルがあり、もともとは社員同士が昼食の写真や残業の愚痴を共有するだけの場所だった。ところが莉奈が入社してからは、彼女が怜司との写真を頻繁に投稿するようになり、二人を勝手にくっつけて面白がる社員まで現れていた。


「さっき相沢さんが歌っていたとき、社長の顔を見た?」


「部下を見ている目じゃなかったよね」


「私もあんなに優しい上司に出会いたい」


 画面を上へ滑らせると、莉奈が投稿したばかりの短い動画が表示された。怜司が彼女の酒を引き受ける場面に、こんな文章が添えられていた。


「社長に助けてもらいました。あのままだったら、今夜は潰れていたかも」


 その下では、フィンランド案件の話題が出ていた。数か月前、私が率いるシステム開発部第一開発チームは、ヘルシンキの通信機器会社とクラウド運用システムを共同開発する準備を進めていた。事前調査の段階では、怜司が莉奈を連れてヘルシンキへ赴き、先方と技術要件や契約条件を確認している。


 その後、案件は最終契約の段階へ進んだ。怜司は再びフィンランドへ行き、最終会議に出席する予定だったが、出発直前に莉奈が高熱を出したため、急きょ出張を取りやめた。以前から先方は神谷テクノロジーズの意思決定の遅さに不安を示していたにもかかわらず、怜司は決裁権限を持つ担当取締役や執行役員を代理出席させることもしなかった。最終的に先方は当社の履行能力に疑問を持ち、契約を競合企業へ移した。


 あの契約は、神谷テクノロジーズが欧州市場へ進出する第一歩になるはずだった。私たちのチームは半年近く準備を続けてきたのに、技術検証もリスク評価も、最後の一週間ですべて意味を失った。それでも莉奈は、雑談チャンネルに軽い調子で書き込んでいた。


「社長も会社全体のことを考えて判断したんです。何でも社長の責任みたいに言わないでください」


 増え続けていたメッセージが、そこで急に止まった。案件に関わっていた古参社員たちは何も書かなくなり、莉奈だけがジュースを手に立ち上がって、テーブル越しに私を見た。


「朝倉さん、私からもご挨拶させてください。創業当初から会社を支えて、フィンランド案件も担当されたんですよね。これからいろいろ教えてください」


 私はグラスを持ち上げなかった。莉奈の笑みがゆっくりとこわばり、目の縁が赤くなっていく。それでも彼女は立ったままだった。


「私が新人なのはわかっています。でも、秘書室に入ってからずっと真面目に働いてきました。社長と距離が近いからって、わざと私を仲間外れにするのはひどくないですか?」


 怜司は莉奈の手の甲を軽く叩き、私へ向けた声だけを低くした。


「朝倉、新人を相手に張り合う必要はない。相沢はよく働いている。私情を職場に持ち込むな」


 十年一緒にいた時間が、彼の中では「私情」の一言で片づけられるらしい。私はグラスのワインを飲み干し、静かにテーブルへ戻した。


「私と神谷社長は、ただの上司と部下です。社長の私生活については存じませんし、関心もありません」


 怜司の表情がはっきりと変わった。何か言いかけたものの、大勢の前では口にできず、数秒間こちらを見つめただけだった。


 忘年会が終わり、私はコートを手に取った。宴会場を出たところで怜司に呼び止められ、人のいない休憩スペースへ連れていかれた。


「朝倉澪、さっきのはどういう意味だ。僕と関わりがあると思われるのが、そんなに嫌なのか?」


 怒ったときだけ、彼は私をフルネームで呼ぶ。その苛立ちが、今はひどく滑稽に見えた。


「関係を隠そうと言い出したのは怜司でしょう。私は言われたとおり、上司と部下の線を引いただけよ」


 創業当初、怜司は交際を公表すれば人事の公平性を疑われ、投資家から私が私的な関係で中核チームに入ったと思われると言った。当時の事務所は古い雑居ビルにあり、私たちはそれぞれエレベーターのない木造アパートに住み、夕食をコンビニのおにぎりで済ませることも多かった。会社が大きくなってからは、私の昇進や報酬は開発本部長と人事評価委員会が決め、怜司は直接関与していない。それでも彼は、会社が安定して私の実力が認められたら交際を公表すると約束し、私は一年、また一年と待ち続けた。やがて目にするようになったのは、若い秘書と親しげに写る写真ばかりだった。


 怜司はようやく納得できる理由を見つけたように、私の肩を抱いた。


「それでいい。本気で僕と結婚するつもりなら、もう少し落ち着いてくれ」


「莉奈とは仕事上の付き合いしかない。周りが面白がっているだけだ」


 彼の指には、古びた銀の指輪がはまっていた。会社を立ち上げて三年目、街角の小さなシルバーアクセサリー工房で二人一緒に作ったものだ。内側には互いの名前の頭文字を刻み、簡素なデザインの縁は長い年月ですり減っている。以前、その指輪がアパートの洗面台の排水口へ落ちたことがあった。怜司は狭い洗面所に這いつくばって探し、金属の縁で手の甲を切りながらも、見つけたときには何より大切なものを取り戻したように笑っていた。


「指輪なんて、なくしたらまた作ればいいでしょう」


「これは二人で作ったものだ。なくしかけて、本当に怖かった」


 記憶が消えきらないうちに、廊下の向こうから莉奈が駆けてきた。手には淡い桃色のリボンが結ばれた箱があり、中には新しい銀色の指輪が二つ並んでいた。


「社長、お誕生日のプレゼントです。SNSで話題になっているペアリングなんです。今日だけ一緒につけてください」


 怜司は莉奈を見て、それから私を見た。反応を確かめるように一瞬だけ目を合わせると、七年間つけてきた指輪を外し、莉奈から渡された新しい指輪にはめ替えた。


「今日だけなら、いいだろう」


 古い指輪は休憩スペースのテーブルに置き去りにされた。私はそれを拾い、怜司のスーツのポケットへそっと入れた。もう、この指輪がどれほど大切だったかを思い出させるつもりはなかった。私は一か月前に退職届を提出しており、今日が最後の出社日だったからだ。三時間前には、引っ越し業者のトラックがあの家にあった私物を積み込み、先に隣県へ向かっていた。



2.引っ越しの車

 怜司が私たちを送ると言い出すと、莉奈はすぐに彼の袖をつかんだ。忘年会のあとに自宅でもう一杯飲む約束をしており、先に私を送れば遅くなってしまうと言う。


「澪の家は近い。先に送っても大して時間はかからない」


「もう車を呼んであるから」


 怜司はわずかに眉を上げ、私の拒絶を拗ねているだけだと受け取ったようだった。


「じゃあ、先に莉奈を送る。家に着いたら連絡してくれ」


 ホテルの前には、すぐに私一人だけが残された。怜司の車が目の前を通り過ぎ、助手席の莉奈が窓越しに手を振った。数分後、タクシーが到着した。市内最大のターミナル駅へ向かうと告げると、車はゆっくりと夜の街へ走り出した。


 郊外の一戸建ては怜司名義で、住宅ローンも彼が支払っていた。私たちに共同口座はなく、高額な家具や家電にも購入記録が残っている。共同生活中に生じた財産と費用については弁護士に整理を依頼し、双方の代理人を通じて清算合意書を交わした。私は衣類、本、パソコン、両親から贈られた物だけを持ち出し、以後の必要な連絡はすべて代理人を介して行うことになっている。


 社内チャットに新しい通知が届いた。莉奈が投稿した動画には、彼女の肩にもたれて目を閉じる怜司が映っていた。


「社長、お疲れさまでした。今夜はゆっくり休んでください」


 続いて、怜司から二件のメッセージが届いた。


「家に着いたら知らせてくれ」


「莉奈の具合が悪いから、少し看ていく。今夜は帰らない」


 私は画面を閉じ、窓に頭を預けた。外では細い雨が降り、街灯の光がガラスの上で長く引き伸ばされ、消えていく道のように見えた。私はずっと北欧を恋の終着点だと思っていた。愛し合う二人が一緒にオーロラを見れば、いつまでも結ばれるという言い伝えがある。フィンランド案件を任されてから、誰よりも成功を願っていたのは、仕事が実を結んだあと、怜司と一緒にオーロラを見ることを夢見ていたからだ。胃の治療を続けながら時差のある会議に参加した時期もあった。


 けれど最終会議の直前、彼は莉奈のそばに残ることを選んだ。あとになって、事前調査のときに撮られた二人の写真を雑談チャンネルで見つけた。雪の積もったヘルシンキの街で、莉奈は怜司の胸に体を預けていた。彼はとっくに、私が夢見ていたオーロラを見ていたのだ。そこにいたのは、私ではなかった。


 突然、スマートフォンが鳴った。発信者は怜司だった。通話をつないでも黙っていると、向こうからグラスの触れ合う音が聞こえ、やがて酒に酔った声が届いた。


「朝倉澪? 仕事はできるけど、恋人としては強すぎるんだよ」


「本気で僕と結婚したいなら、口を出していいことと悪いことくらい理解するべきだ。この立場なら、仕事以外の付き合いだって避けられない。何にでも干渉されるのは面倒だ」


 莉奈の声がすぐ近くから聞こえた。


「ずっと彼女に合わせてきたんでしょう。そろそろ自分のために生きてもいいんじゃないですか?」


「今夜は帰らないで。ね?」


 向こうでドアの閉まる音がした。私はそれ以上聞かず、通話を切った。


 一時間前、第一開発チームのシニアエンジニアである佐藤美和からメッセージが届いていた。引き継ぎが終わっていることを知りながら、それでも私の意思を確認したかったらしい。


「澪、本当に考え直さないの? みんな寂しがってる」


「もう決めたの。ソースコードも顧客資料もプロジェクト文書も、規定どおり引き継いだ。明日から残っている有給休暇を消化して、月末が退職日になる」


「それなら、しばらくゆっくり休んで。困ったことがあったら、いつでも連絡して」


 怜司は、私の退職届を見ていた。人事責任者が経営会議の資料へ入れたとき、彼は「冷静になれば撤回する」と言い、最終出社日さえ確かめなかった。その後、電子承認が端末へ届いても、管理本部長を兼務する取締役へ処理を任せている。知らなかったわけではない。ただ、私が本当に去るとは一度も信じなかったのだ。



 ターミナル駅から最終の特急列車に乗り、私は座席にもたれて少し眠った。目を覚ましたときには、列車はもう隣県へ入っていた。駅の外では橘悠人が車のそばに立っていた。記憶より背が高くなり、濃い色のコートが落ち着いた雰囲気によく似合っていた。


「おかえり、澪」


 悠人は荷物をトランクへ積み、両親が暮らす住宅街まで送ってくれた。父は地方の精密機械会社を経営し、母は以前その会社の経理を担当していたが、数年前に退いている。二人はすでに門の前で待っており、玄関灯が背後の庭を照らしていた。


「昔、お前がどうしても隣県へ行くと言ったときは止められなかった。帰ってきたんだ。今は何も考えなくていい」


「部屋はずっとそのままにしてあるから。疲れたでしょう。まず休みなさい」


 両親は、なぜ十年間も戻らなかったのかと責めなかった。ただ代わる代わる私を抱きしめ、無事に帰ってきたことを確かめるように背をさすった。


 母の腕から顔を上げると、悠人がそっとティッシュを差し出した。私たちは幼い頃からの知り合いで、家族同士の付き合いも続いていたが、私が故郷を離れてからはほとんど会っていない。礼を言おうとした瞬間、スマートフォンがまた震えた。莉奈が妊娠検査薬の写真と、眠っている怜司の横顔を社内の雑談チャンネルへ投稿していた。


「近いうちに、おめでたい知らせができそうです」


 数秒後、投稿は取り消された。しかし、すでにスクリーンショットを保存した社員がいて、人事部と法務・コンプライアンス室にもシステムの記録が残っていた。私は続きを見ず、怜司の電話番号と個人アカウントをすべてブロックした。悠人は、子どもの頃によく通った和菓子店の包みを差し出した。中には冷やし白玉ぜんざいが入っていた。


「途中で何も食べてないだろう。今も好きかわからないけど」


 一口食べると、懐かしい甘さがゆっくりと広がった。


「誰かさんには、本当におめでたい知らせがあるみたい」


 そう口にしたとき、胸がもう痛まないことに気づいた。



3.取り消された写真

 翌朝、怜司は莉奈のマンションで目を覚ました。枕元に置かれた彼女のスマートフォンには、人事部と法務・コンプライアンス室からの通知が次々と届いていた。代表取締役の半裸姿と私的関係を示す内容を、なぜ社内チャットへ投稿したのか説明を求めるものだった。怜司が履歴を開くと、取り消された写真が表示された。妊娠検査薬を持つ莉奈の写真と、上半身を裸にしたまま眠る自分の横顔。投稿を見た社員の中には、スクリーンショットを保存していた者もいた。


 そこでようやく、怜司は完全に目が覚めた。昨夜が初めてではない。数か月前、フィンランド案件の事前調査で莉奈をヘルシンキへ同行させたとき、二人はすでに一線を越えていた。帰国後も人目を避けて会い続け、莉奈から生理が遅れていると聞かされても、彼は深く考えなかった。


 最初に探したのは、私のアイコンだった。創業当初、二人で世話をした野良猫の写真で、私は何年も変えずに使っていた。


 トーク履歴を開いて、怜司はようやく気づいた。この半年、私からのメッセージは少しずつ減っている。以前は薬を飲む時間や帰宅予定を確認し、夕食の写真を送ることもあった。やがて返事は「わかった」「うん」だけになり、そのあとは長い沈黙が続いた。電話をかけても留守番電話へ転送され、LINE通話にも応答はない。何度メッセージを送っても、画面に「既読」はつかなかった。


「澪、昨日は酔っていた」


「一度、話をしよう」


「僕が愛しているのは、ずっと君だけだ」


 すべて未読のままだった。私が見ていないだけなのか、すでにブロックされているのか、彼には確かめようがない。莉奈が目を覚まして近づくと、怜司は勢いよく距離を取った。彼女は自分のスマートフォンに届いた調査通知を見て、みるみる顔色を失った。


「嬉しくて、投稿先を間違えただけです。もう取り消しました」


「澪も、あのチャンネルにいる」


「でも、絶対に離れないって言っていたじゃないですか。何をしても、澪さんはあなたを許すって」


 怜司はすべての責任を莉奈へ押しつけようとした。しかし、メッセージの履歴も、出張先で撮った写真も、数か月にわたる密会の予定も、この関係が一夜の過ちではなかったことを示している。


「しばらく会社には来るな。人事部と法務・コンプライアンス室から連絡がある」


「子どものことは?」


 怜司は答えず、コートをつかんで部屋を出た。前夜に酒を飲んでいたため、建物の前に止めてあった車には乗らず、タクシーで郊外の一戸建てへ戻った。週に一度来る家事代行スタッフが仕事を終えようとしており、突然帰宅した彼を見て驚いた。


「朝倉さんなら、昨日ご自分の荷物をすべて運び出しました。鍵は玄関の収納に置いていくとおっしゃっていました」


「どうして誰も僕に知らせなかった?」


「朝倉さんの予定やご意見は、今後ご報告しなくていいと、以前ご自身でおっしゃっていました」


 怜司は玄関に立ったまま、長いあいだリビングへ入れなかった。家具も家電も元の場所に残っている。なくなったのは私の本や服、パソコンと、私がそこで暮らしていたことを示す痕跡だけだった。庭は入居時に二人で考え、苗木も一緒に選んだが、水やりも剪定も害虫対策も、いつからか私一人の仕事になっていた。初冬の椿には蕾がつき、家も庭も静かに整っていて、私が少し外出しているだけのように見える。それでも彼には、私が二度と戻らないとわかっていた。



4.本当にいなくなった

 怜司が会社へ着くと、人事責任者が会議室で待っていた。テーブルの上には私の退職届、引き継ぎ一覧、電子承認の記録が並び、どの書類にも明確な日付が記されていた。


「朝倉さんは一か月前に退職届を提出しています。経営会議で社長も確認されています。引き継ぎはすべて完了しており、昨日が最終出社日、正式な退職日は今月末です」


「感情的になっているだけだと思っていた」


「必要な引き継ぎも、秘密保持義務の確認も完了しています。会社に、予定どおりの退職を妨げる理由はありません」


 さらに悪い知らせが続いた。第一開発チームでは、すでに三人のシニアエンジニアがそれぞれ退職届を提出していた。現経営陣の判断を信頼できないというのが理由だった。その後の一週間で、フィンランド案件の技術設計を担当していたサブリーダーを含む数人が、相次いで退職を申し出た。誰も、これ以上自分の職業人生を怜司に預けたくなかったのだ。


 取締役会は、フィンランド案件が破談になった経緯、直属の秘書との不適切な関係、社内チャットへ私的な画像が投稿された件について説明を求めた。複数の社外取締役は、不適切な人事運用、パワーハラスメント、会社経費の使用に問題がなかったか、外部弁護士による調査を行うべきだと主張した。


 しかし怜司は、そうした問題にほとんど反応しなかった。人事部に私の住所を何度も尋ね、佐藤にも行き先を教えるよう迫った。


「会社が社員の個人情報を、私的な目的で教えることはできません」


「佐藤、君なら知っているだろう。少し誤解があっただけだ。直接会って説明しなければならない」


「澪は連絡されたくないとはっきり伝えています。今さら会いに行っても、迷惑をかけるだけです」


 佐藤は、長年使ってきたキーボードと技術書を入れた段ボール箱を持ち上げた。彼女も退職届を提出し、引き継ぎを終えたあと会社を去ることを決めていた。


「創業当初、いちばん苦しかった時期に、澪はサーバートラブルも顧客対応も資金繰りの危機も一緒に乗り越えた。すぐに何かを返してほしいなんて、一度も言わなかった。ただ、尊重してほしかっただけです」


「いなくなってから弁解しても、もう遅いですよ」


 人の減った開発フロアに立ち、怜司は初めて、自分が失ったものは恋人だけではなかったと気づいた。彼が当然のように受け取っていた信頼も忠誠も能力も、法に従い、静かに一つずつ会社から去っていった。



5.暴走の代償

 調査中であるにもかかわらず、莉奈は会社へ来た。エレベーターホールで怜司を待ち伏せし、病院の診療資料を握りしめていた。いつも整えていた笑顔は消えている。


「妊娠七週だって診断された。あなたの子よ」


 怜司は資料を見ても、喜びを見せなかった。早く処理しなければならない厄介事を見るように、声を落とした。


「子どもができたからといって、僕が結婚すると思うな」


「ヘルシンキでは、そんなこと言わなかった。澪さんが口を出さなくなれば、私たちは隠さずに付き合えるって言ったでしょう」


「あのときは、そう言っただけだ」


 莉奈が腕をつかむと、怜司は乱暴に振り払った。言い争う声を聞きつけ、秘書室と人事部の社員が集まってくる。会議室から出てきた長谷川部長が二人の間に立ったが、怜司の声はさらに冷たくなった。


「子どもは諦めろ。それから会社も辞めてもらう」


「神谷社長、妊娠を理由に退職を迫ることはできません。まして、中絶を雇用の条件にするなど論外です」


 長谷川部長は内線で警備員と人事担当者を呼んだ。莉奈が社内チャットへ私的な画像を投稿した件は、人事部と法務・コンプライアンス室が就業規則と情報セキュリティ規程に基づいて調査する。しかし、妊娠そのものを解雇や退職強要の理由にはできない。怜司がなおも莉奈へ近づき、肩を強くつかむと、警備員がただちに二人を引き離した。防犯カメラの映像と目撃者の記録は、外部弁護士へ提出された。


 その日の夕方、取締役会は臨時会議を開いた。怜司を代表取締役および社長職から解き、管理本部長を兼務する取締役を社長代行に選任した。怜司は一時的に取締役としての地位を残したものの、今後も在任させるかどうかは、後日開かれる臨時株主総会で審議されることになった。会社は、内部統治上の問題により経営体制を変更したという短い発表だけを出した。


 会議室を出る前、怜司はもう一度、長谷川部長を呼び止めた。


「澪がどこにいるか、知っていますよね」


「知っていたとしても、あなたには教えません」


「頼みます。一度だけ会わせてください」


「澪さんは、もう意思をはっきり示しています。会いたくないという選択を尊重することが、あなたに残された唯一の行動です」


 怜司は住所も、誰かの同情も得られなかった。フィンランドの取引先は後続案件も正式に打ち切り、ほかの取引先も神谷テクノロジーズとの契約リスクを再評価し始めた。開発チームの人員不足で複数のプロジェクトが遅れ、古参社員たちに支えられてきた会社の問題が次々と表面化した。それは私が会社から持ち去ったものではない。私がいなくなり、問題が見えないよう支える人がいなくなっただけだった。



6.安心して立ち止まれる場所

 実家へ戻ってからの二か月、私はすぐに仕事を探さなかった。好きな時間まで眠り、母と近所のスーパーへ行き、ときどき父の会社のウェブサイト整理を手伝った。少しずつ体調が戻り、気持ちも落ち着いていった。悠人が経営する橘システムズ株式会社もソフトウェア開発会社だったが、彼は私に特別な席を用意しなかった。公開されている求人情報と職務内容を送り、正式な選考を受ける気があるかと尋ねただけだった。


 私は技術面接を受け、神谷テクノロジーズとの間に秘密保持義務があることも法務担当へ説明した。前職のソースコード、顧客名簿、未公開資料を一切持ち出していないことが確認されてから、通常の採用手続きを経てテックリードとして採用された。担当したのは、地方の製造業向けに設備保全と生産計画を管理するシステムで、神谷テクノロジーズの事業とは競合しない案件だった。


 半年後、システムは予定どおり稼働した。両親は自宅でささやかな祝いの夕食を用意し、父は得意料理の豚の角煮を作った。母は悠人も呼び、食卓では彼が自然に私の椀へ汁物をよそい、水を取ってくれた。しばらく見ていた母が、とうとう笑い出した。


「悠人、そんなに世話を焼いたら、この子はますます動かなくなるわよ」


「大丈夫です。澪は忙しくなると食事を忘れますから、家にいるときくらい誰かが見ていないと」


「お母さん、聞いた? 私が怠けてるわけじゃないって」


 母は指先で私の額を軽く押した。


「小さい頃、橘家へ一日遊びに行かせたら、迎えに行っても門にしがみついて帰ろうとしなかったでしょう。大きくなったら悠人のお嫁さんになるって言って」


「何歳の話よ。もうやめて」


 悠人は耳をわずかに赤くしたが、母と一緒になって笑うことはなかった。


「僕は、可愛いと思いますけど」


 夕食後、悠人は車から冷やし白玉ぜんざいを持ってきた。懐かしい甘さに、子どもの頃の夏がよみがえった。二人で河川敷を走り回り、転べば誰かが手を差し出してくれると信じていた。帰る場所があるとわかっていたからこそ、私は故郷を離れ、別の人と何もないところから会社を立ち上げる勇気を持てたのだろう。けれど、本当の支えとは相手の進む方向を決めることではない。立ち止まりたいときに、安心して息をつける場所を残しておくことなのだと、今になってわかった。


「悠人」


「どうした?」


「どうして、今まで結婚しなかったの?」


 彼はグラスの氷を見つめ、しばらく黙った。


「ずっと好きな人がいたから」


「その人が、二度と戻ってこなかったら?」


「そのときも、自分の生活を続けるよ。好きでいるのは僕の事情で、相手に戻ってくることを求める理由にはならないから」


 永遠に待つとは言わず、好意を負担にも変えない。その節度があったからこそ、私は初めて、悠人が長いあいだ保ってくれた距離の優しさに気づいた。秋の夜、彼を門まで見送ると、風が木々を抜けた。悠人は自分のコートを私の肩にかけ、布地から淡い木の香りがした。


「その人は、もう戻ってきたよ」


 悠人の足が止まった。


「あなたとの関係を、もう一度始めてみたい。でも、ゆっくりしか進めないと思う」


 彼はすぐに抱きしめず、こちらへ手を差し出した。私が自分で一歩進むのを待っている。私はその手に、自分の手を重ねた。


「ゆっくりでいいよ」



7.もう一度、始める

 私と悠人は普通の恋人のようにデートをし、仕事の予定をめぐって意見がぶつかることもあった。疲れている日は無理に一緒に過ごさず、それぞれの家へ帰った。過去の十年で、一人だけが譲り続ける関係は長く続かず、沈黙を理解と勘違いしてはいけないと学んだからだ。一年後、私が担当するシステムは第二段階の更新を終え、橘システムズも外部監査を無事に通過した。両親と数人の友人に見守られながら、私たちは結婚を決めた。婚姻で商取引を結びつける必要も、誰かに自分の価値を証明する必要もなかった。


 婚姻届は二人で記入し、父と悠人の母に成年の証人として署名してもらった。結婚式当日の朝、市役所の戸籍窓口へ提出し、正式に受理されたあと、婚姻届受理証明書も申請した。悠人は受け取った書類を大切そうにファイルへしまった。午後の式は市内の老舗ホテルで行い、双方の親族と親しい友人だけを招いた。佐藤美和や数人の元同僚も来てくれたが、彼らはそれぞれ別の会社へ移っており、誰も私を追って橘システムズへ入社したわけではなかった。


 式が終わり、衣装を着替えてホテルの脇口から出ようとすると、スタッフが声を潜めて知らせてきた。招待状を持たない男性が、車寄せのそばで長いあいだ待っているという。怜司は濃い色のフード付きコートを着て、ひげも整えておらず、記憶よりずっとやつれていた。ホテルのスタッフが数歩離れた場所で見守る中、私たちは短い時間だけ向き合った。


「澪、やっと見つけた」


「ここへ来るべきじゃなかった」


「莉奈はもう会社を辞めた。取締役会の調査も終わった。僕が間違っていた。もう誰にも僕たちの間へ入らせない」


「もう、私には関係ないことよ」


「まだ怒っているんだろう? 十年を簡単に捨てられるはずがない。僕と戻ってくれれば、何だって変える」


 この会話が実現したら、きっと苦しむと思っていた。だが実際に彼を前にすると、胸の中にあったのは静けさだけだった。


「もう許している」


 怜司の目が一瞬だけ明るくなった。


「それなら――」


「許すことと、やり直すことは別よ。私はもう、あなたを愛していない」


 差し出しかけた彼の手が、途中で止まった。


「怜司、誰も同じ場所に立ち続けるわけじゃない。今になって戻ろうとするのは、あなたの選択。私が前へ進むのも、私の選択よ」


 悠人が私のコートを持ってホテルから出てきた。私の前に立って怜司を遮ることも、代わりに会話を終わらせることもせず、ただ隣へ来た。


「こちらは?」


「神谷さんは、以前の職場の人よ」


 悠人は怜司へ軽く頭を下げた。


「橘悠人です。今朝、僕たちの婚姻届は正式に受理されました。僕は澪の夫です」


 怜司は、ホテルの玄関前に残された花の装飾へ目を向けた。少し離れた場所では招待客が記念写真を撮り、白い花枝に午後の光が落ちていた。それは彼がかつて思い描いていた式に、よく似ていたのかもしれない。ただ、私の隣に立っている人は、もう彼ではない。怜司は長いあいだ黙り、やがて背を向けて歩き去った。悠人は何を言われたのか尋ねず、コートを私の肩へかけ、手を握った。


 怜司のいない人生で、私は幸せだった。



8.誰も同じ場所にはいない

 結婚後、元同僚から神谷テクノロジーズの話を聞くことが、ときどきあった。外部調査が終わると、怜司は取締役を辞任し、経営の第一線から完全に退いた。会社は再編によって一部の事業を残した。莉奈については、本人の同意なく私的な画像を投稿し、社内情報システムの利用規程に違反した行為を理由に、会社が就業規則と情報セキュリティ規程に基づく懲戒処分を行った。妊娠そのものは処分理由に含まれていない。処分手続が終わったあと、彼女は自ら退職届を提出した。


 その結果は、もう私とは関係がない。誰がより不幸になったのか確かめようとも、喜ぼうとも思わなかった。会社を去るとき、私が負うべき責任はすべて引き継ぎ、あの関係も過去に置いてきた。翌年の冬の終わり、私は悠人とフィンランドのラップランドへ新婚旅行に出かけ、親しい人だけを招いた小さな誓いの式を行った。


 両親と佐藤美和、数人の友人が湖畔のコテージへ来てくれた。雪は少しずつ解け始めていたが、空気にはまだ鋭く澄んだ冷たさが残っている。母は式が始まってからずっと目を赤くし、父は泣くなと言いながら、自分も何度か顔をそむけた。私は一般的なウェディングドレスを着なかった。悠人が用意してくれたのは、襟元に柔らかなファーをあしらい、フードの縁に小さな青い花を刺繍した白いウールコートだった。


「これ、特別に仕立ててもらったの?」


「デザインは僕が描いた」


「いつ?」


「君を思い出したときに」


 悠人は本当に同じ場所で立ち止まり、私だけを待ち続けていたわけではない。会社を経営し、家族を大切にし、自分の人生もきちんと生きていた。ただ、たまに私を思い出したとき、部屋や庭や、着る人が現れないかもしれないコートの絵を描いていた。


 結婚後、悠人の書斎を整理した際、私は古い段ボール箱を見つけたことがある。中には、キッチンの収納、窓辺の机、庭で木を植える場所、このコートの最初のスケッチまで、長い年月に描かれた図面が静かに重ねられていた。それは私に返済を求めるための待ち時間ではなかった。彼がかつて、真剣に私を好きでいてくれた証だった。



9.オーロラが昇るとき

 夜が完全に降りると、私たちは凍った湖のほとりまで歩いた。遠くの森は黒い輪郭だけになり、空にはしばらく何の変化もなかった。私は悠人に、オーロラにまつわる言い伝えを話した。愛し合う二人が一緒にオーロラを見れば、いつまでも結ばれるという話だ。それは何度もの深夜残業を乗り越える支えになり、フィンランド案件が破談になったあとは、叶わない夢へ変わった。悠人は自分のコートで私を包み、顎をそっと頭に乗せた。


「そんな話を聞くと、神谷さんに感謝するべきか、恨むべきかわからなくなるな」


「どうして感謝するの?」


「君を傷つけたことは許せない。でも、君とオーロラを見る機会を大切にしなかったから、今の君と僕がここにいる」


 私は、寒さで赤くなった彼の鼻先に触れた。


「ばかね」


 その瞬間、空が明るくなった。初めは薄い緑の筋が一本現れ、やがて紫と青が夜の奥からゆっくりと広がった。果てのない帯のように森の上から湖へ流れ、悠人の瞳にも光が映った。呼吸に合わせて色がかすかに揺れ、厚い手袋越しにも、握られた手の温度がはっきりと伝わってきた。


 私たちはオーロラの下で口づけた。


 十年前の私は、愛とは何もないところから成功へ向かう人に寄り添い、約束が果たされるまで待ち、無視される自分を何度でも許すことだと思っていた。けれど本当の愛は、声を小さくすることも、存在を隠すことも、誰か一人の犠牲を当然のものとして受け取ることも求めない。時間は遠回りをして、私を幼い頃から知る人のもとへ連れ戻した。あの少年は穏やかで頼もしい大人になり、誰かを追いかけることしか知らなかった少女も、自分の進む方向を選べるようになっていた。


「悠人」


「うん?」


「これからも、ずっと隣にいてくれる?」


 彼は、二度と争わないとも、人生が完璧になるとも言わなかった。ただ私の手を強く握り、まっすぐに見つめた。


「うん。どれだけ遠くまで行くことになっても、二人で話し合って決めよう」


 オーロラは頭上で流れ続けていた。地上へ墜ちることも、誰かの愛を証明することもない。それでも私はもう、自分が大切にされるかどうかを、言い伝えに確かめてもらう必要はなかった。


――完――



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