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神雧 - KAMIATSUME -  作者: 神代 一文
第3章 印の輪郭

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第080話 嵐の中を行く

挿絵(By みてみん)


夜明けは、雨の匂いを薄く伸ばしたまま来た。

 肩が重い。

 それでも、まだ歩ける。

 洞の出口に立つと、空は鉛色(なまりいろ)で、雲の底が低い。


 昨夜ほどの叩きつけではない。

 けれど止む気配もない。

 (きり)が足首へまとわりつき、濡れた草の冷えが草鞋(わらじ)の裏から上ってくる。

 吐く息は短く白くなり、(かさ)の内側に湿って戻って頬を冷やした。


 雨粒が唇に当たり、舌に触れると少しだけ土の味がする。

 こよいは濡れた前髪を掻き上げ、襟元(えりもと)の湿りを指で絞った。

 布が指に張りつき、冷たさだけが残る。

 指先の(しわ)に泥が入り、爪の端が鈍く痛む。


 火の匂いが背中にまだ薄くついていて、洞の中の小さな温もりが遠い気がした。

 あさひは草鞋(わらじ)(ひも)を締め、久遠(くおん)は荷の重心を確かめる。

 誰も余計な言葉を足さない。

 息の出入りと、雨の音だけで、もう十分だった。


 「……準備はいいか。ここから先は迷うな」


 あさひが低く言う。

 こよいは頷き、巾着(きんちゃく)の口が固いことを指で確かめた。

 濡れた(ひも)は滑るのに、結び目だけは石みたいに硬い。

 段差が爪に当たり、痛いほど現実が戻る。


 巾着(きんちゃく)の中で、風が短く鳴いた。

 月は冷え、硝子(びいどろ)は小さく息をした。

 三つの気配が重なったまま、じっと静かだ。

 静かすぎて、逆に怖い。


 こよいは喉の奥で唾を飲み、胸の(ともしび)を一度だけ押さえた。

 洞を出ると、川の音がすぐ近かった。

 昨夜までは雨に隠れていたはずの音が、いまは怒号(どごう)みたいに響く。

 濁り水が岩へ当たって砕け、泡が潰れる音が混じる。


 こよいはその音の太さに、胸の奥がすこし縮むのを感じた。

 水が流れる音じゃない。

 引きちぎる音だ。

 吐いた息が白くほどけ、すぐ雨へ溶ける。


 (きり)の向こうに白い服の影はない。

 けれど、見えない目が(ことわり)の隙間でこちらを数えている気がして、背中の汗が冷える。

 久遠(くおん)の盤が胸元で小さく鳴り、針の震えが布越しに伝わってきた気がした。

 (そで)の内側を伝う水が肘へ()まり、曲げるたび冷たさが骨へ刺さった。


 道は泥に沈み、足が思うように上がらない。

 草鞋(わらじ)が吸われ、抜くとき「ずぶ」と嫌な音がする。

 泥が指の間へ入り、爪の根が冷えで(しび)れてくる。

 頬を撫でる風は刃物みたいに冷たく、濡れた枝の青い匂いが鼻を刺した。


 こよいが足を滑らせかけたとき、あさひの腕が迷わず支えた。

 握られた腕の上からでも分かる硬さと熱が、一瞬だけ戻る。

 すぐ冷えに負けて消える。

 それでも、その一瞬で息が戻った。


 「無理すんな。足だけ見ろ」


 あさひは前を向いたまま言った。

 こよいは「うん」と喉だけで返し、頷きのかわりに呼吸を整えた。

 視線を落とすと、泥の上を流れる薄い水が、まるで道を消そうとしているみたいに走っていた。

 川辺へ出ると、流れはもう沢じゃなかった。


 黒い水が腹を膨らませ、白い泡を牙みたいに並べて下へ走る。

 枯れ葉と枝が(うず)を描き、ところどころに白い(よど)みが()まっている。

 泡の間から、石が転がる影がちらりと見えた。

 音だけが先に来て、目が追いつかない。


 こよいは水の匂いの中に、鉄の苦さを()いだ。

 湿った空気が肺に重く、舌の上に渋い味が残る。

 喉を動かすと、骨の奥まで冷えが鳴った。

 巾着(きんちゃく)の底で硝子(びいどろ)の神が震えた。


 あの流れが同じ水の気配を持っているせいで、胸の中へ悲鳴みたいに届く。


 『……いたい。くるしい……』


 こよいは喉の奥で息を整え、指先で巾着(きんちゃく)を押さえた。

 布の湿りと、結び目の硬さが、神を留める(いかり)になる。

 押さえるたび、月の冷えが(てのひら)へ回り、風が背へ触れ、硝子(びいどろ)が喉の奥で小さく鳴く。

 怖さは消えない。


 けれど、怖さのまま握り続けられる。


 「雨の神様は……この奥にいるんだね」


 「神気が濃すぎる。近づくほど、(ことわり)が噛んでくるぞ」


 あさひは上流の(きり)を睨み、地図を指で押さえた。

 濡れた紙が指に貼りつき、()がすとき小さな音がする。


 「この先に古い橋がある。渡れなきゃ迂回(うかい)だ。……迂回(うかい)は網に触る」


 三人は川の(ふち)を慎重に進んだ。

 石に当たる音が鋭くなり、空気がさらに冷える。

 風が止まる瞬間がある。

 その沈黙の一拍が、耳の奥へ貼りついて離れない。


 川沿いには(ほこら)残骸(ざんがい)が転がり、注連縄(しめなわ)の切れ端が泥に貼りついていた。

 こよいは一度だけ手を合わせる。

 (てのひら)の泥は乾きかけてざらつき、祈りの短さが申し訳ない気がした。

 けれど、立ち止まる時間はない。


 遠くで雷が鳴り、音の遅れが山の大きさを思い出させる。

 (きり)の向こうに、細い線が見えた。

 橋だ。

 木の板と縄だけの吊り橋(つりばし)が、暴れる流れの上に細くかかっている。


 風が吹くたび「ぎ、ぎ」と鳴り、縄が湿って黒い。

 近づくほど、縄の繊維のけば立ちが見えて、雨水がそこへ染み込んでいるのが分かる。

 手で触れれば、たぶん皮が削れる。

 腐った木の匂いが混じり、喉が嫌に渇いた。


 板の隙間から奈落(ならく)みたいな水が(のぞ)き、そこへ雨が叩き込まれて白く弾ける。

 飛沫(しぶき)が上がるたび、冷たい粒が頬を打ち、目の端が痛む。

 橋の向こう側は(きり)で消えているのに、(きり)の奥から時々、重い音が遅れて響く。

 遠くで何かが動くたび、縄がわずかに震え、その震えが手すりから足元へ伝わってくる気がした。


 こよいは自分の呼吸を数え、数が乱れないように鼻から吸って口から吐く。

 吐く息は白く、すぐ消える。

 消えるから、もう一度吐く。

 こよいは橋の手前で息を止めかけ、すぐ吐き直した。


 止めれば、冷えが勝つ。

 胸の奥がきゅっと鳴り、指先が一度だけ震える。

 巾着(きんちゃく)に指を添えると、月の冷えが(てのひら)へ流れ、風が背中を軽く押す。

 押されるのは怖い。


 けれど、押されないのも怖い。

 こよいは足の裏へ意識を落とし、まだ地面が地面であるうちに、重心の置き方を思い出した。


 「ここを渡れば……近づける。みんな、力を貸して」


 月が小さく応え、硝子(びいどろ)が微かに鳴いた。

 こよいは橋を見つめたまま、足の裏の感覚だけを拾う。

 いま自分が立っている地面は、まだ地面だ。

 けれど一歩先は、揺れるものだ。


 揺れは、心まで持っていく。


 「行くしかねえな」


 あさひが先に板へ足をかけ、揺れを確かめる。

 板が沈むたび、縄が「ぎり」と短く鳴って、音の端が(きり)に吸われた。

 あさひは一歩目だけ強く踏み、二歩目は軽く置く。

 橋の癖を読む歩き方だ。


 久遠(くおん)は最後尾に回り、こよいの肩を守る位置を取った。

 濡れた縄へ指を添え、滑りを確かめてから離す。

 触れた指先に、繊維のけばと冷えが残った。


 「一歩ずつだ。自分の重心を信じるな。……揺らぎは俺が抑える」


 こよいは冷たい空気を肺の奥まで吸い、片足を上げた。

 濡れた板が「みし」と沈む。

 足裏に木の繊維の柔らかさと、腐りかけた硬さが同時に当たる。

 川の咆哮(ほうこう)がすぐ耳元まで近づき、(きり)が足首へ絡む。


 橋がわずかに揺れた拍子に、内臓が遅れて動く感じがして、こよいは腹を固くした。

 手すりの縄へ指をかけると、冷たい水が指の腹に()まり、滑って力が入らない。

 こよいは爪で縄のけばを噛むように捉え、ほんの少しだけ握る。


 「……分かった。置く、だけ。踏み込まない」


 声は雨に削られる。

 けれど自分の口で言うと、足が聞く。

 あさひの背が少しだけ低くなる。

 久遠(くおん)の気配が、背中の斜め後ろで動く。


 こよいは歯を噛み、次の足場だけを見る。

 二歩目を置くと、板の隙間から冷たい飛沫(しぶき)が上がって頬を打ち、目の端が痛んだ。

 (まばた)きを一度だけして、また前を見る。

 橋の向こうは見えない。


 見えないまま、渡る。

 渡りながら、雨の神の泣き声を、もう一度だけ聞き取るつもりで。

 落ちれば、声も一緒に濁って消える。

 だから落ちない。

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