第474話 灯の消え際
窪地を抜けると、灯籠が並んでいた。
石の台座に据えられた古い灯籠が、等間隔で通路の両脇に立っている。数えると十二基。そのすべてに灯が入っていた。灯は揺れず、風もないのに炎の形を保っている。ただし、色が薄い。橙ではなく、白に近い黄色。燃え尽きる寸前の蝋燭のような、消えかけの色だった。
久遠が足を止めた。
義眼の焦点が灯籠の一基に固定される。蒼光が灯の表面を舐め、炎の奥に隠れた文字列を照らし出した。
「記録が灯に封じられている」
久遠の声は低く、急いでいた。いつもの冷えた声ではない。焦りが混じっている。
「灯が消えれば、記録も消える。一基ずつ消えていっている。最初は十二基あったはずだが、手前の二基はすでに芯が焼き切れている」
こよいは入口側の灯籠を振り返った。確かに、最も手前の二基は台座だけが残り、灯は消えていた。台座の上には黒い煤の痕があり、つい先ほどまで灯っていたことを示していた。
残る十基は、手前から順に灯が細くなっていた。
あさひが呟いた。
「時間がない」
久遠は目録を開いた。頁を繰る手が速い。義眼の蒼光が頁と灯籠の間を往復し、灯に封じられた記録と目録の記述を照合している。
「何が書いてあるんだ」
あさひが横から覗き込んだ。
「名前だ。消された名前の原本記録。石板に書かれていた手続き〈てつづき〉の結果がここに保存されている。どの名前が、いつ、どのような手順で消されたか。その全記録が灯の中に封印されている」
こよいは息を呑んだ。
「読めるの」
「読める。だが時間がかかる。一基につき三十秒は必要だ。十基で五分。だが消えるまでの猶予は——」
久遠が言いかけた瞬間、手前から三番目の灯が揺らいだ。炎が一度大きく膨らみ、ぱちりと音を立てて縮んだ。芯が半分まで焼け落ちている。
「もたない」
久遠が歯を食いしばった。目録を膝に挟み、灯籠に駆け寄った。義眼の蒼光を最大に絞り、三番目の灯に向ける。炎の奥に、文字が浮かぶ。
名前。数字。日付のような記号。消された順番。消した者の識別子。
久遠の唇が高速で動いた。声には出さず、読み取った内容を唇の形だけで反芻している。右手が目録の余白を走り、鉛筆の先が紙を引っ掻く音だけが通路に響いた。
三番目の灯が消えた。
「こよい、写本を出せ」
久遠が短く言った。
こよいは写本を広げた。久遠が読み上げる代わりに、目録の走り書きを指で示す。こよいはそれを写本に書き写した。二人の連携は無駄がなかった。久遠が読み、こよいが写す。あさひは二人の背後に立ち、通路の両端を見張った。
四番目、五番目。読む。写す。灯が痩せ、久遠の呼吸が荒くなる。義眼の蒼光も震え始めた。
「久遠くん」
こよいが手を伸ばしかけた。
「止めるな」
久遠が払いのけた。声に怒りはない。ただ、止まる余裕がないだけだ。
六番目、七番目。灯が消えるたび通路は暗くなり、蒼い義眼だけが闇で燃えた。
八番目の灯が消えた。久遠の鉛筆が折れた。芯が飛び、石の床を転がる。こよいが自分の鉛筆を差し出した。久遠は受け取り、九番目に向かった。
残り二基。
九番目の灯は、もう炎とは呼べない状態だった。芯の先端に、青白い光の粒が一つだけ留まっている。風が吹けば消える。風がなくても、時間が来れば消える。
久遠は灯籠の前に膝をつき、義眼を灯の高さに合わせた。蒼光が震えながら、最後の文字列を照らす。
名前が浮かんだ。
一つだけ。他の灯籠には複数の記録が封じられていたが、この灯には名前が一つしかない。古い名前だった。文字の形が今の書体とは違う。千年以上前のものかもしれない。
久遠が写本に書き写そうとした瞬間、灯が消えた。
煤の匂いが広がった。久遠の手が止まった。鉛筆の先が紙に触れたまま動かない。
「間に合わなかったか」
あさひが低く聞いた。
久遠は黙っていた。数秒の沈黙の後、鉛筆を動かし始めた。
「名前は読めた。書き写す前に消えただけだ。頭には入っている」
こよいはほっと息を吐いた。
残り一基。
最後の灯籠は通路の最奥に立ち、台座には名の知れない花が彫られていた。
最後の灯は、まだ色を持っていた。
薄い橙色。他の灯が白に近かったのに対し、この灯だけは温かい色を保っている。芯もまだ半分以上残っていた。
久遠が灯に義眼を向けた。
文字が浮かぶ。大量の文字だった。他の灯籠の何倍もの情報が、この一基に詰め込まれている。
「これは名前じゃない」
久遠の声が変わった。硬い声ではなく、揺れている。
「記録の索引だ。消された全ての名前の一覧。何百、何千という名前が、この灯の中に目録として保存されている」
こよいの手が震えた。
写本の紙面では足りない。何百もの名前を書き写すには、時間も紙も足りない。
「全部写し取るのは、とても間に合わない」
久遠が言った。苦い声だった。
「だが、構造は読める。索引の仕組みを理解すれば、名前そのものを写さなくても、後から復元できる可能性がある」
久遠は灯に顔を近づけた。蒼光が最後の灯を包み込む。炎が揺れた。蒼い光と橙の灯が混ざり合い、久遠の顔を不思議な色に染めた。
こよいは黙って見守った。
久遠の唇が動いている。読んでいる。目録に書き込んでいる。鉛筆の先が紙を走る音だけが、暗くなった通路に残っている。
最後の灯が、わずかに揺れた。
まだ消えない。
こよいは巾着を握りしめ、神々の温もりを灯に向けた。届くはずがない。だが、祈らずにはいられなかった。もう少しだけ保ってほしい。久遠が読み終えるまで。
灯は揺れながらも、消えなかった。
久遠が鉛筆を置いた。
「読めた」
その一言に、疲労と安堵と怒りが混ざっていた。久遠は灯籠から顔を離し、目録を閉じた。義眼の蒼光が弱まり、通路は最後の灯だけに照らされた。
あさひが久遠の腕を掴み、立ち上がらせた。
「行くぞ。読んだなら、ここにいる理由はない」
三人は最後の灯を背にして歩き出した。
通路の先に、冷たい風の匂いがした。潮の気配。海が近い。
背後で、最後の灯がひとつ、小さく瞬いた。




