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神雧 - KAMIATSUME -  作者: 神代 一文
第15章 潮の外縁

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第458話 選択の余白

挿絵(By みてみん)


余白(よはく)は、選ばれなかった言葉の形をしている。


 こよいは帳面(ちょうめん)を開き、書きかけの行を見つめた。そこだけ墨(すみ)が薄い。筆が止まった場所。墨(すみ)の先端が紙に触れたまま乾き始め、かすれた染(し)みだけが残っている。その染(し)みの形に、迷いがそのまま映っていた。


 「……書けない?」


 あさひが訊いた。膝(ひざ)の上に大剣の柄(つか)を立てかけ、こよいの手元を横目で見ている。


 「書ける。でも、書いたら決まっちゃう」


 こよいは答えた。帳面(ちょうめん)の紙が指先の湿気(しっけ)を吸い、触れている部分だけ色が変わっている。言葉を書く前から、紙はもうこよいの存在を記録(きろく)し始めていた。


 久遠(くおん)が目録(もくろく)を閉じたまま言う。


 「決めるために書く。だが、決めないために余白(よはく)を残すのは矛盾(むじゅん)じゃない」


 こよいは頷(うなず)いた。旅の中で、決めなければならないことが増えた。助ける。逃げない。守る。決めた言葉は強いほど、観測者(かんそくしゃ)に拾われやすい。だから余白(よはく)が必要だった。拾われても、刺さらない場所。書かれなかった言葉は、観測者(かんそくしゃ)の計器(けいき)には映らない。


 列車(れっしゃ)が微かに揺れた。車輪が線路の継ぎ目を越える振動(しんどう)が、帳面(ちょうめん)の頁(ページ)を震わせる。墨(すみ)の染(し)みが、一瞬だけ文字の形に見えた。


 こよいは帳面(ちょうめん)の端に、小さな印だけを書いた。丸と線。それだけ。その印の隣に、書きかけの言葉が残っていた。


 「戻る」


 こよいは、その二文字を指で隠した。戻る。戻りたい。戻れないと決める。どれも選択(せんたく)だ。選択(せんたく)を言葉にした瞬間、言葉が自分を縛り始める。巾着(きんちゃく)の中の名前たちが、言葉の重さを誰よりも知っている。名前とは、固定(こてい)された言葉そのものだから。


 「消すのか」


 あさひが訊いた。


 こよいは首を振った。


 「消さない。でも今は、書かない。書かないっていう選択(せんたく)をする」


 久遠(くおん)が小さく笑った。義眼(ぎがん)の蒼光(そうこう)が、笑みに合わせて和らいでいる。


 「それが余白(よはく)だ。決断(けつだん)を先送りする余白(よはく)じゃない。決断(けつだん)を守る余白(よはく)だ」


 「それが何になる」


 あさひが笑う。大剣の柄(つか)を指で弾(はじ)き、軽い金属の音(おと)が車内に響いた。


 久遠(くおん)が答えた。


 「何にもならない。だからいい。何にもならない場所があると、理(ことわり)は固定(こてい)しにくい」


 その瞬間、遠くで鈴(すず)が一つだけ鳴った。近くの音(おと)じゃない。壁の向こうの音(おと)みたいに薄い。列車(れっしゃ)の窓硝子(まどがらす)を通り抜けてきたのか、それとも線路の下の根が拾った残響(ざんきょう)なのか、判別がつかなかった。


 こよいは反射的に立ち上がりかけ、すぐ座り直した。反応した、という事実が拾われるのが怖かった。帳面(ちょうめん)を胸に引き寄せ、白い頁(ページ)で心臓を覆(おお)う。


 「……今の、聞こえた?」


 あさひが頷(うなず)く。


 「呼んでる音(おと)だ」


 久遠(くおん)が視線を落とす。目録(もくろく)の表紙に、微かな振動(しんどう)が伝わっている。


 「呼び声に反応すると、引っ張られる。だが無視すると、後悔(こうかい)が重くなる」


 こよいは帳面(ちょうめん)の余白(よはく)を見つめた。ここに「行く」と書けば、固定(こてい)される。ここに「行かない」と書けば、それも固定(こてい)される。だから、余白(よはく)のまま。白い紙が、窓から差す薄い光を受けて、ほんのわずかに金色に縁取られていた。


 こよいは丸印の隣に、もう一つだけ印を足した。小さな点(てん)。


 「……これでいい?」


 久遠(くおん)が小さく笑った。


 「点(てん)は座標(ざひょう)になる。言葉より遅い分、拾われにくい」


 あさひが立ち上がる。


 「じゃあ行こう。点(てん)の方へ」


 こよいは帳面(ちょうめん)を閉じた。


 「……選択(せんたく)って、いつも二つじゃないんだね」


 「三つ目が余白(よはく)だ」


 久遠(くおん)が短く言った。


 あさひは剣の柄(つか)を叩き、立ち上がる。窓の外に目をやり、霧(きり)の向こうを一瞥(いちべつ)してから前を向いた。


 「じゃあ行こう。余白(よはく)を残したまま、前へ」


 こよいは頷(うなず)き、巾着(きんちゃく)に触れた。神々が静かに脈打つ。帳面(ちょうめん)を閉じた拍子に、墨(すみ)の匂いがふわりと立ち上がった。書いた言葉と、書かなかった言葉の、両方の匂い。


 選択(せんたく)の余白(よはく)は、弱さじゃない。次に守るための、呼吸(こきゅう)だった。


 足元の地面が、微かに震えていた。振動(しんどう)は靴底を通して膝(ひざ)まで伝わり、身体の芯(しん)に届いている。根の振動(しんどう)が、三人の歩調に合わせるように揺れている。帳面(ちょうめん)に残した小さな点(てん)が、まだ温かいような気がした。


 言葉にしなかった分だけ、余白(よはく)は広がっていく。白い頁(ページ)の沈黙(ちんもく)が、書かれた文字よりも深く、三人の足取りを支えている。その広がりの中に、まだ名前のない選択肢(せんたくし)が息をしていた。


 先ほど遠くで鳴った一音に、おたまの小鈴(こすず)が遅れて応えた。音は線路の下へ沈み、根を伝って海側へ走る。久遠は帳面の点から細い線を引き、反響が返った方角に小さな印を置いた。鈴は帰還を命じたのではない。次に確かめる場所を、余白の中へ残したのだ。


 印には名前を書かなかった。まだ決めていないことを、決めた形にしないためだった。


 余白は、次の足場になった。


 三人は、その先へ歩いた。

 まだ拾うべき名前があり、まだ、たどり着いていない場所がある。こよいは巾着(きんちゃく)を握り直し、次の一歩を迷わず踏み出した。足を止める理由は、どこにもなかった。前で、名前たちが待っている。

 振り返れば、これまで越えてきた道が、いくつもの別れで区切られている。それでも、前にはまだ、迎えるべき出会いが残っていた。

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