第433話 増える島影
二つ目の島が見えたとき、こよいは立ち上がった。
三つ目が見えたとき、座席に戻るのをやめた。
窓の外に、島が増えていく。
霧の裂け目から一つ、波間の白泡の向こうに一つ。
列車が走るたびに、新しい島影が海面に現れた。
だが奇妙なことに、島の数より影の数の方が多い。
一つの島が、二つの影を落としていた。
こよいは目を凝らした。
左舷に見える小さな岩礁は、海面に二つの黒い影を伸ばしている。
一つは北へ、もう一つは南西へ。
太陽は一つしかないのに、影が二方向に走っている。影の縁は鮮明で、ぼやけていない。一つの光源からは決して生まれない、二つの確かな影だった。
「久遠、影が」
「見えてる」
久遠は義眼を窓に向けたまま、目録を片手で開いた。蒼光が窓硝子を透過し、海面の影を一つずつ照射していく。
「あの島は三つ影がある。右奥のやつは四つだ」
あさひが指で数えた。
久遠が頁をめくる手を止めた。
「座標歪曲だ。観測者が経路を逸らすために座標軸を弄った副作用で、空間の位置関係が重複してる。一つの島が、複数の座標に同時に存在してるんだ」
「同時に存在する?」
「正確に言えば、島の位置が確定していない。座標Aにも座標Bにも座標Cにも、あの島が『ある』ことになってる。だからそれぞれの座標での影が、全部見えてる」
こよいは窓に張りついて、影を数え始めた。窓硝子に息がかかり、白い曇りが広がった。指先で曇りを拭いながら、一つずつ確認する。
一番近い島。影は二つ。
その奥の、煙を上げている島。影は三つ。
さらに奥の、崖に名前が刻まれていた島に似た形の島。影は五つ。
五つ。
こよいは巾着を握った。布越しに、名前たちの脈動が五つの影の方角に引かれるように揺れた。
「……五つ」
「どうした」
「あの島、影が五つある。さっきの崖の島と似てる。もし、あの島にも名前が刻まれてるなら」
こよいは窓硝子に指を当てた。
「影の数と名前の数が、同じなんじゃないかな」
久遠は義眼を細め、五つの影を持つ島に焦点を合わせた。
蒼光が霧を貫き、島の岩肌を走査する。蒼い光が岩の窪みを一つずつなぞり、刻まれた文字を浮かび上がらせた。
「……名前がある。五つ。崖の窪みに一つずつ、異なる書体で彫られてる」
久遠の声が低くなった。
「二つ影の島を見ろ」
義眼の蒼光が隣の島に移った。
「名前が二つ。影も二つ」
「三つの島は」
「名前が三つ。影も三つだ」
車内に沈黙が落ちた。列車の車輪が線路を叩く音だけが、等間隔で響いている。
こよいは座席の端に腰を下ろした。
膝の上に巾着を置き、神々の脈動に耳を澄ませた。巾着の中の名前たちも、海の向こうの名前たちの存在を感じ取っている。脈動が微かに揺れ、窓の外の島影と呼応するように震えた。
名前の数だけ、影が増える。
名前を多く持つ島ほど、多くの座標に存在する。
名前が島を複数の場所に繋ぎ止めているのだ。
「名前が錨なんだ」
こよいが呟いた。
「一つの名前が一つの座標に島を留める。名前が多ければ、それだけ多くの場所に根を張れる。だから観測者が座標を動かしても、島は消えない。影だけが増えて、島はどこかに残り続ける」
久遠は目録を閉じ、窓の外を見た。
霧の中に浮かぶ無数の島影が、それぞれ複数の影を海面に落としている。蒼光を消した義眼が、ただの目として海を見つめていた。
「名前を全部消せば、島は座標を失って消える。だが一つでも残っていれば、島はそこに在り続ける」
「名前って、そういうものだったんだ」
こよいは巾着を握り直した。
中の二十七の脈が、小さく揃った。
一つの名前が、一つの居場所を守っている。
あさひが窓から目を離さずに言った。
「影が多い島ほど、しぶとい。覚えとく」
列車は島影の海を走り続けた。
車窓を流れる霧が、島々の輪郭を柔らかく包んでいる。
影は増え続けている。
だがその一つひとつが、誰かの名前の痕跡なのだと思うと、海面の黒い影が少しだけ違って見えた。
おたまが窓硝子へ鼻をつけ、影が五つある島で小鈴を五度鳴らした。海面の影が一つずつ波立ち、同じ数だけ返る。影の数を目で数えるだけでなく、残る名の錨が音へ応じることも確かめられた。
久遠は島の位置ではなく、影の数と応答の拍を記録した。座標が分裂しても、名前の数は変わらない。次に地図から消えた島を探すとき、この拍が新しい索引になる。
海の影が、名簿の代わりになった。
海の影が、名簿の代わりになる。書かれた記録が消されても、水面に映る影の並びが、そこに在ったものを語り続ける。こよいは影の一つ一つに名前を重ね、読めない記録を心の中で読み上げた。その声に、あさひも久遠も静かに耳を傾けた。海は、忘れていなかった。
書かれなくても、在ったものは在った。海がそれを覚えているかぎり、名前は本当には消えない。こよいは水面から目を離さなかった。




