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神雧 - KAMIATSUME -  作者: 神代 一文
第12章 記録の裂目

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第371話 夕凪の背

挿絵(By みてみん)


宵波浜(よいなみはま)の外縁を離れた列車は、海沿いの堤(つつみ)のある小さな停車場で夜を待つことになった。南へ向かう本線が開くのは、明朝だという。


 風が止んだ。


 完全に。

 草も揺れず、砂も舞わず、波頭(なみがしら)さえも凍ったように静まった。夕凪(ゆうなぎ)だった。日暮れの間だけ訪れる、海岸特有の無風状態。


 だが今日の夕凪(ゆうなぎ)は、こよいが知っているものとは違った。空気の粒子が止まったことで、匂いさえも凍りついている。潮の匂いも、砂の匂いも、あさひの汗の匂いも。すべてが空間に固定されて、動かない。


 海面が透明になっていく。

 波の揺れが消えたことで、水が硝子(ガラス)のように澄み渡った。表面の反射(はんしゃ)がなくなり、海の中が丸見えになる。


 その下に、もう一つの海があった。


 「……見えるか」


 久遠(くおん)が堤(つつみ)の縁(ふち)に立っていた。

 義眼(ぎがん)を細め、水面の下を凝視(ぎょうし)している。


 こよいは久遠(くおん)の隣にしゃがんだ。

 水面から一尺ほど下に、もう一枚の水面がある。上の海と下の海の間に、薄い空気の層が挟まっていた。


 上の海は灰色。

 下の海は金色だった。


 「二層になってる」


 「記録(きろく)の表面と裏面だ」


 久遠(くおん)が義眼(ぎがん)の光を水中に落とした。

 蒼光(そうこう)が上の層を貫き、金色の層に届く。その瞬間、下の海が反応した。


 金色の水の中で、何かが泳いでいた。


 魚ではない。

 文字だった。


 一画ずつバラバラになった名前の断片(だんぺん)が、金色の水の中を漂(ただよ)っている。横画が鰻(うなぎ)のようにくねり、縦画が水草(みずくさ)のように揺れ、点が泡(あわ)のように浮き沈みしていた。


 「名前だ。名前が泳いでる」


 こよいの声が裏返った。胸の奥で何かが弾けたように、息が浅くなった。


 巾着(きんちゃく)が熱くなった。神々が、下の海に反応している。布を通して伝わる温もりが、右手から腕を伝い、胸の奥まで届いた。


 「見える。巾着(きんちゃく)の熱で、形が見える」


 こよいは巾着(きんちゃく)を水面の上にかざした。布が熱を帯び、紐(ひも)が微かに揺れる。

 神々の熱が金色の層に届くと、バラバラだった画が集まり始めた。横画と縦画が組み合わさり、偏(へん)と旁(つくり)が結合する。


 一つの名前が、水中で形を取った。

 金色に光る二文字が、水面のすぐ下でこちらを見上げている。文字の輪郭が揺らめき、金色の光を周囲の水に散らしていた。


 「呼んでいるのか。それとも、見つけてほしいだけなのか」


 「どっちでもいい」


 あさひが腕を組んだまま言った。


 「見つけたなら、拾え」


 こよいは右手を水に入れた。

 上の層は冷たかった。指が空気の隙間を抜けると、下の層に触れる。


 温かい。

 風呂の湯ほどの温度があった。名前の体温だった。上の層を抜けたときの冷たさが嘘のように、下の層は柔らかな熱を帯びている。指の関節まで浸(つ)かると、手のひら全体に名前たちの脈動が伝わってきた。


 指先が金色の文字に触れた瞬間、名前がこよいの手に巻きついた。二文字が指を掴(つか)み、手首を伝って腕を這(は)い上がってくる。


 「っ」


 こよいは手を引いた。

 水から上がった名前は、空気に触れた途端に光を失った。金色が褪(あ)せ、墨色(すみいろ)に変わる。だが形は保ったまま、こよいの前腕(ぜんわん)に張りついていた。


 「写本(しゃほん)に移せ」


 久遠(くおん)が紙を差し出した。


 こよいは名前に触れた。前腕(ぜんわん)から剥(は)がすように、指先で丁寧に掬(すく)い取る。名前は抵抗しなかった。写本(しゃほん)の紙に置かれると、墨(すみ)が繊維(せんい)に染み込んで定着した。


 「三十四柱(さんじゅうよんはしら)目だ。水脈を渡っていた十一の、その一つ。……ここの裏の海に、逃げ込んでいたのか」


 久遠(くおん)が記録(きろく)した。


 夕凪(ゆうなぎ)は続いている。風のない時間はあと少しだけ残っていた。


 おたまが堤の縁から、金色の層を見下ろしていた。猫の尻尾が、泳ぐ文字の動きを追って、ゆらり、ゆらりと揺れる。捕まえたいのを我慢している揺れ方だった。


 こよいは再び水面を覗(のぞ)いた。

 金色の海には、まだ無数の画が漂(ただよ)っている。名前の断片(だんぺん)が互いに近づいては離れ、形を作りかけてはほどける。


 全部を拾うことはできない。

 夕凪(ゆうなぎ)が終われば波が立ち、下の海は見えなくなる。

 それに、ここで泳いでいる断片の多くは、五十一柱の外の名前だ。この世界が失ってきた、数え切れない名前の裏面。いつか、五十一柱を還し終えたら——この下の海に、もう一度来なければならない。こよいは、胸の中の課題の棚に、その約束をそっと載せた。


 「もう一つだけ」


 こよいは手を水に入れた。

 今度は名前の方から近づいてきた。金色の文字が指先に集まり、三文字の名前を組み上げた。


 引き上げる。

 空気に触れて色が変わる。写本(しゃほん)に移す。


 「三十五」


 久遠(くおん)が短く数えた。


 風が戻り始めた。

 微かな風が砂を撫(な)で、海面に最初の波紋(はもん)が広がった。金色の層が揺れ、名前たちの姿がぼやけていく。


 あさひが空を見上げた。


 「日が沈む」


 夕凪という時間の窓は、日に一度、ほんの半刻しか開かない。それでも、窓は毎日開く。海が名前を覚えている限り。


 西の空が赤く燃えていた。夕凪(ゆうなぎ)の終わり。風が海面を叩き、透明だった水が再び不透明な灰色に戻っていく。


 下の海が消えた。


 こよいは濡れた手を拭(ぬぐ)い、写本(しゃほん)を胸に抱えた。二つの名前が、紙の上で乾いていく。


 金色の海は見えなくなった。水面が再び不透明な灰色に戻り、反射する光だけが夕空の残照(ざんしょう)を映している。だが、消えたわけではない。波の下に、まだ在る。風が止まるたびに、夕凪(ゆうなぎ)の裏側で名前たちは泳ぎ続けている。


 待っている。

 次に誰かが手を伸ばしてくれるのを。


 こよいは巾着(きんちゃく)を握った。濡れた右手に、布越しの温もりが沁(し)みる。

 神々の温もりが、まだ手のひらに残っていた。金色の海で触れた名前たちの脈動が、指先に微かな余韻(よいん)を残している。

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