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神雧 - KAMIATSUME -  作者: 神代 一文
第12章 記録の裂目

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第369話 水に還る名

挿絵(By みてみん)


審判の広場で二柱目の名を石に刻み終えた後、三人は浜辺の停車場へ戻り、夜を走る列車に乗った。次に降りたのは星野(ほしの)ではない。以前、七つの頁(ページ)を置いた星降町(ほしふりまち)だった。その白い広場に、何かが変わっていた。


 四度目の停車。列車が停まった衝撃で座席の上の写本が滑り、こよいが慌てて押さえた。車輪が最後の軋みを上げて静止し、蒸気が窓の外を白く覆った。蒸気が晴れると、広場の白い石畳が目に飛び込んできた。

 前に来たときと同じ白。だが、光が違う。石畳の表面に、淡い金色の斑点が散らばっている。


 降りたとき、広場の受け皿に、新しい光が増えていた。

 頁を置いたあの七つの場所——紙を持ち上げた後も、根の渦が紙の形を覚えたまま、地面そのものが受け皿になって残っている。その上の光が、三柱から五柱になっていた。


 「増えてる。……自分で、降りてきたんだ」


 こよいの声は、驚きよりも安堵に近い色を帯びていた。屈み込んで覗くと、五つの金色の光が石畳の根の中で穏やかに明滅していた。三つは、発つ夜に降りた名前。残りの二つは、こよいが知らない文字を宿している。水脈を渡っていた仲間のうち、帰り先を失って、行き先をここへ変えた名前たちだった。


 久遠が義眼で確認した。蒼光が受け皿の表面を丹念に走り、五つの名前それぞれの輪郭を読み取っていく。義眼の光が一つの名前に当たるたびに、その名前が微かに反応して輝きを増す。まるで読まれていることを喜んでいるかのようだった。


 受け皿が機能し続けている。

 こよいがいない間も、水脈を彷徨っていた名前が自力でここに降りてきたのだ。根の渦が名前を引き寄せ、定着させている。こよいが手を伸ばさなくても、置いた受け皿の写しが、名前の居場所として働き続けている。


 着地の確認、合計三十三柱。


 久遠(くおん)が目録(もくろく)に数字を書き足した。筆先が紙を擦(す)る音は淡々としていたが、書き終えたあとの久遠(くおん)の目元が、ほんの少しだけ緩んだのをこよいは見た。


 「まだ足りない」


 こよいが言った。声は静かだったが、足元の石畳(いしだたみ)に落ちた影(かげ)は真っ直ぐだった。背筋を伸ばし、受け皿を両手で持ち上げる。五つの名前の光が、こよいの顎(あご)の下を金色に照らした。

 宵波浜(よいなみはま)で失った一柱(ひとはしら)の紙を、胸の内ポケットに入れたまま。墨(すみ)だけが残った紙の感触(かんしょく)が、布越しに胸に当たっている。温もりのない紙。けれど重さだけは、他の三枚と変わらなかった。


 あさひが広場を見回した。白い石畳(いしだたみ)は端(はし)から端(はし)まで見通せるほど平坦(へいたん)で、建物の影(かげ)は広場の外縁(がいえん)にのみ落ちている。風がないせいで、空気が動かない。あさひの髪も揺れず、剣の布包みの紐(ひも)も垂れたままだった。


 「失ったのは一柱(ひとはしら)だ。残り、十七」


 あさひの声は硬かった。事実を述べているだけだが、その声の底に、宵波浜(よいなみはま)での出来事への怒りが沈んでいた。救えなかったことへの怒り。あさひは自分自身に向けて怒る。他者には刃(やいば)を、自身には拳(こぶし)を。広場に立つあさひの足元の影(かげ)は、剣の輪郭(りんかく)を含めて一つの塊(かたまり)のように濃かった。


 久遠(くおん)が目録(もくろく)を閉じた。


 「残り十七柱(じゅうななはしら)の行方は、把握(はあく)できた。水脈を渡っているのが十一。封じられた井戸の戸口に一。砂の灯の浜の紙に一。および——」


 久遠(くおん)が口をつぐんだ。義眼(ぎがん)の蒼光(そうこう)が、一瞬だけ収縮(しゅうしゅく)した。瞳の奥で何かが動いたように見えた。こよいは久遠(くおん)の顔を見つめた。この男が言葉を途中で止めるのは、言うべきかどうかを迷っているのではない。言葉にした瞬間に、それが現実の重さを持つことを、引き受ける覚悟を決めているのだ。


 「そして?」


 こよいが促(うなが)した。


 「四柱(よんはしら)が、観測者(かんそくしゃ)の本拠(ほんきょ)に運び込まれている。消去(しょうきょ)分類だ」


 空気が凍った。


 消去(しょうきょ)。

 完全な抹消(まっしょう)。


 宵波浜(よいなみはま)の「流出(りゅうしゅつ)」とは違う。流出は、名前が水に還(かえ)ること。希釈(きしゃく)され、薄まり、やがて個を失うこと。それでも水の中に痕跡(こんせき)は残る。だが消去(しょうきょ)は違う。痕跡(こんせき)ごと消す。名前があったという事実そのものを、世界から剥ぎ取る。取り返しのつかない消滅(しょうめつ)。


 あさひが布越しに剣の柄(つか)へ手をかけた。指が白くなるほど握り締めている。布包みの中で刀身(とうしん)が微かに鳴った。金属が怒りに共鳴(きょうめい)するように、高い振動を発している。


 「場所は」


 あさひの声は短く、低い。余分な音節を削(そ)ぎ落としたその声は、抜き身の刃(やいば)のようだった。


 「分からない。だが、海図(かいず)に一本だけ、太い線が残っている。その線の先だ」


 久遠(くおん)は目録(もくろく)を膝(ひざ)の上に置き、海図(かいず)の頁(ページ)を開いた。義眼(ぎがん)の蒼光(そうこう)が照らす紙面には、薄れかけた線が幾重にも走っている。その中に一本だけ、墨(すみ)の色を保った太い線があった。他の線が消えかけているのに、その線だけが紙の上に刻み込まれるように残っている。


 こよいは写本(しゃほん)の受け皿を見つめた。

 五柱(ごはしら)の名前が金色に光っている。星降町(ほしふりまち)の白い石畳(いしだたみ)の上で、小さく、けれど確かに。一つ一つの光が異なるリズムで明滅し、それぞれの名前が異なる鼓動(こどう)を持っていることを伝えていた。


 あさひが剣を抜いた。

 白い空気の中に、刃(やいば)の銀色が走った。あさひが布包みを一息に払った音が広場に反響し、石畳(いしだたみ)を叩いて戻ってくる。

 刃(やいば)を親指に当てた。


 血(ち)が一筋、滲(にじ)んだ。鮮(あざ)やかな赤が刃(やいば)の表面を伝い、切っ先(きっさき)から滴(したた)った。あさひの血(ち)は濃い。陽の光の下でも暗く見えるほどの赤で、石畳(いしだたみ)に落ちた瞬間に白い石を染めた。


 「俺が奴らを引きつける。お前たちは名前に集中しろ」


 血(ち)が白い石畳(いしだたみ)に落ちた。

 赤い点が、白い地面に残った。あさひは親指の傷口を見もせず、剣に布を掛け直した。布越しに柄(つか)を握る手に、まだ血(ち)が滲(にじ)んでいる。


 列車の汽笛(きてき)が鳴った。長く、低く、広場の白い空気を震わせた。出発の合図(あいず)だった。蒸気(じょうき)が車体の下から噴き出し、石畳(いしだたみ)の表面を舐(な)めるように広がる。


 おたまが、あさひの血の落ちた場所に鼻先を寄せ、それから、あさひの脛に頭を一度だけ打ちつけた。猫なりの、誓いの受理だったのかもしれない。


 白い広場の上の名前たちが、列車を見送るように揺れた。受け皿の中の五つの光が、汽笛(きてき)の音に反応して同時に明るくなる。音に感応しているのか、それとも別れを惜しんでいるのか。


 あさひの血(ち)が石畳(いしだたみ)に染みていく。白の中に赤が残る。血(ち)の跡は乾いても消えないだろう。この広場の白さの中に、あさひの覚悟が刻まれた。


 汽笛の余韻の中で、こよいは、水に還ったあの一柱のことを思った。

 水に還る名は、それでも水の中に在る。雨になり、潮になり、いつか誰かの井戸に汲まれるかもしれない。だが消去は——水に還ることさえ、許さない。在ったという事実ごと、剥ぎ取る。四柱を待ち受けているのは、還る先すらない消滅なのだ。

 だから、行く。還る場所ごと守るために。


 こよいは巾着(きんちゃく)を握った。神々の脈が、あさひの血(ち)の温度に呼応(こおう)するように速まった。巾着(きんちゃく)の布が熱を帯び、こよいの掌(てのひら)を温める。神々は知っている。血(ち)が流れた意味を。覚悟が固まった音を。

 四柱(よんはしら)を消そうとしている場所へ、いずれ行かなければならない。海図(かいず)の太い線を辿(たど)り、その先にあるものと向き合わなければならない。

 けれど今は、この広場の五柱(ごはしら)の光を見つめた。白い石畳(いしだたみ)の上で、金色の名前たちが静かに息をしている。その光の一つ一つが、こよいの旅の意味を確かめ直す灯(あか)りだった。

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