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神雧 - KAMIATSUME -  作者: 神代 一文
第12章 記録の裂目

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第346話 呼ぶ潮

挿絵(By みてみん)


写本(しゃほん)が湿っていた。

 雨ではない。

 車内は乾いている。


 けれど、こよいの膝(ひざ)の上に置いた七枚の写本(しゃほん)の端が、じんわりと水気を帯びていた。

 墨(すみ)が滲(にじ)む。


 文字が泣いているように見えた。


 こよいは指先で紙の縁(ふち)に触れた。湿り方は、七枚で二通りに分かれていた。

 名前の残る四枚——捕獲された四柱の頁は、書かれた行だけが濃く水を含み、文字そのものが汗を掻いているようだった。流刑地に沈む本人と、頁の文字が、直に共鳴しているのだ。

 白紙に戻った三枚は、縁だけがじんわりと湿っている。名前はもう地面の根に移ったのに、紙は根との繋がりを微かに覚えていて、遠くから震えを拾っていた。

 四枚の湿りは激しく、紙の縁(ふち)が波打って、座席の木肌(きはだ)に薄い水の輪を作っていた。


 「汗だ」


 久遠(くおん)が写本(しゃほん)に義眼(ぎがん)を向けた。

 蒼光(そうこう)が紙面を舐めるように走る。光が文字の上を通過するたびに、湿った箇所が一瞬だけ金色に反射した。蒼と金。二つの光が紙面の上で交差し、名前の一画一画が浮き彫りになる。


 「名前が汗をかいている。この周囲の空間に、大量の溶解(ようかい)した名前が漂(ただよ)っているんだ。写本(しゃほん)に書かれた名前が、それに反応している」


 こよいは写本(しゃほん)を持ち上げた。

 紙の裏側にまで水気が浸透している。

 指で触れると、ぬるい。


 生温かい、体温に近い温度だった。

 こよいの指先に残るその温(ぬく)みは、まるで誰かの掌(てのひら)に触れたときの感覚に似ていた。写本(しゃほん)の文字が生きているのだと、理屈ではなく肌が告げている。持ち上げた拍子に、一滴の雫(しずく)が紙の端から膝(ひざ)に落ちた。落ちた瞬間、膝(ひざ)を覆う布地にじわりと金色の染みが広がり、すぐに消えた。


 窓の外を見た。

 液状化した記録(きろく)の海が、列車の下を流れている。

 銀色に光る流れの中に、時折、金色の筋が混じっていた。筋は細いものもあれば、腕ほどの太さで蛇行(だこう)するものもある。どれも等しく、自らの光を放ちながら銀色の流れに呑(の)まれまいとしていた。


 「あの金色は」


 「名前だ。溶かされた名前の残骸(ざんがい)だ」


 久遠(くおん)が目録(もくろく)を開いた。


 海図(かいず)の頁(ページ)。


 線が動いている。蒼光(そうこう)が頁(ページ)を照らすと、海図(かいず)の上に描かれた航路(こうろ)が微かに脈打つのが見えた。線と線が交差する場所で、光が溜まっている。久遠(くおん)の細い指が頁(ページ)の端を押さえたが、紙がすでに湿りを帯びていて、指の腹が滑った。この場所に近づくだけで、記録(きろく)の基盤そのものが溶解(ようかい)の影響を受け始めているのだ。


 星降町(ほしふりまち)で待っていた七柱のうち、三柱は受け皿に辿り着き、広場の根に定着した。

 だが残りの四柱の線は、途中で折れ曲がり、この液状の領域に向かって流れ込んでいた。


 「四柱は——ここに流されたのか」


 久遠(くおん)が線の終点を指で押さえた。

 座標(ざひょう)が記されている。


 宵波浜(よいなみはま)。


 「観測者(かんそくしゃ)が地下を移動中の名前を捕獲(ほかく)し、この流刑地(るけいち)に投棄(とうき)した。溶かして処分するためだ」


 久遠(くおん)の声は低く、淡々としていた。だがその淡々とした語調の奥に、こよいは刃物の冷たさに似たものを聞き取った。怒りではない。怒りよりもっと深い場所にある、静かな拒絶だった。義眼(ぎがん)の光が一瞬だけ強くなり、海図(かいず)の座標(ざひょう)を焼きつけるように照らした。


 あさひが窓の外を睨(にら)んだ。

 銀色の流れの中に浮かぶ金色の筋が、列車の動きに合わせて後方へ流れていく。一本、また一本と、目の前を過ぎ去っていく。あさひの目がそのひとつひとつを追い、奥歯を噛む音が微かに聞こえた。


 「溶かして。消すってことか」


 「完全には消えない。流刑地(るけいち)の名前は液体になるが、しばらくの間は形を保つ。だが時間が経てば、薄まって消える」


 あさひの顎(あご)の筋肉が強張(こわば)った。布越しに剣の柄(つか)へ置いた手が、一度だけ強く握られて、また緩んだ。窓硝子(まどがらす)に映り込んだあさひの横顔が、銀色の流れの反射を受けて硬く光っている。


 おたまが座席から降り、こよいの膝の下——写本(しゃほん)の真下の床に、ぴたりと寄り添って丸くなった。濡れた紙の下に、乾いた温もりが一枚挟まった形だった。猫なりの、支え方らしい。


 こよいは写本(しゃほん)を胸に抱いた。

 湿った紙が頬(ほお)に触れた。


 冷たくない。


 温かかった。


 名前が、仲間を探して泣いているのだ。

 写本(しゃほん)の湿りは涙のようでもあり、汗のようでもあった。紙を通して、溶かされた名前たちの気配がこよいの胸に押し寄せてくる。何百、何千という名前が、この銀色の流れの中でばらばらになりながら、それでもなお自分が何者であったかを覚えようとしている。その必死さが、写本(しゃほん)の温もりとなってこよいの頬(ほお)を温めていた。


 列車の窓の外で、金色の筋が一瞬、写本(しゃほん)の方に向かって揺れた。

 届かなかった。

 流れに呑(の)まれて、また沈んでいった。


 こよいは巾着(きんちゃく)の紐(ひも)に指を絡ませた。神々が微かに脈打っている。怯(おび)えているのではなかった。窓の外の名前たちに呼応(こおう)しているのだ。巾着(きんちゃく)の布越しに伝わる神々の温もりと、写本(しゃほん)の湿った温もりが、こよいの胸の前で重なった。二つの熱が混じり合い、心臓の鼓動(こどう)に合わせて微かに揺れる。


 こよいは写本(しゃほん)を抱いたまま、窓硝子(まどがらす)に額(ひたい)を押し当てた。

 硝子(ガラス)越しに、銀色の流れが絶え間なく続いている。

 硝子(ガラス)は冷たかった。額(ひたい)に触れる温度が、外の世界の冷たさをそのまま伝えてくる。写本(しゃほん)の温もりとの落差が、胸を締めつけた。


 その奥で、潮(しお)の音が聞こえた気がした。波の音ではない。名前を呼ぶ声が重なって、潮(しお)のうねりに似た響きになっているのだ。低く、遠く、途切れがちに。一つ一つは微かな声なのに、幾千と重なることで、海鳴りのような力を持っていた。


 呼んでいる。


 沈んだ名前たちが、まだ呼んでいる。巾着(きんちゃく)の中で神々が震え、写本(しゃほん)の湿りが一段深くなった。呼ぶ潮(しお)の底に、四つの金色がまだ光っていた。

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