第341話 影浦の路地
北の道を半日歩いた先に、路地の入口が見えた。石壁に囲まれた細い道が、霧の奥に続いている。
久遠が目録を確かめていた。頁の文字を蒼光で追いながら、奥歯を噛むように呟いた。
「記録が書き換えられている。さっき写し取った座標の三つが、もう別の数字になっている」
こよいは巾着を握った。神々の温もりが不安定に揺れている。
「消されるんじゃなくて、変えられるの」
「漂白と再定義の両方だ。漂白で消し、再定義で上書きする。二重にやられると、元の記録があったことすら分からなくなる」
あさひが壁に背を預け、腕を組んでいた。足の位置だけは微妙にずらしてある。いつでも動ける構え。
音が変わった。
足音の反響が、急に丸くなった。壁と壁の間隔が狭まったせいだ。路地の天井が低くなり、三人の呼吸が頭上で潰れて戻ってくる。鉄錆の匂いが退き、代わりに湿った砂利と干潮のあとの泥の匂いが足元から立ち昇った。宵波浜とは違う。あのときは鼻腔に塩と苔が絡んだが、ここの空気はもっと重く、古い。石そのものが水を飲んで膨れているような、鈍い湿気だった。
こよいは巾着の結び目に指を引っかけた。
影浦——気配だけがあって、形の見えないもの。その気配が布を透かして伝わってくる。神々の脈が一斉にテンポを落とした。宵波浜の路地で、まだ名も知らぬままこの気配に初めて竦んだときは、温もりが引いて怖かった。今は分かる。名前たちが呼吸を深くし、根を下ろす準備をしているのだ。構えではなく、集中だった。
足元の石畳が黒ずんでいた。水ではない。石そのものの色が暗い。踏むと靴底に細かな砂粒が噛み、乾いた擦過音が鳴った。こよいは歩幅を狭め、あさひは無言で半歩先に出た。宵波浜で覚えた歩き方が、もう身体に染みついている。
「影浦の路地の方から来てる。気づいてるふりはするな」
あさひの声は息に紛れていた。口を開かず、歯の隙間から言葉を押し出している。声を殺す技が、宵波浜のときよりも滑らかになっていた。
言い切らないまま進む。路地の壁は灰色の漆喰で塗り固められ、ところどころ剥がれた下から錆びた鉄骨が覗いている。漆喰の粉が空気中に漂い、吸い込むと舌の奥に石灰の味がした。壁には触れない。三人とも、もう言われなくても分かっていた。
「再定義が薄い。足元だけは固く踏め」
久遠が目録の革表紙に指を滑らせ、この場の理の深さを測っている。あさひは剣を布包みのまま前に出た。義眼の蒼光を最小に絞った久遠が、路地の奥を透かした。
「……影浦だ」
久遠の声に確信が乗った。義眼が捉えた情報を声に変換している。影浦の輪郭が、路地の奥に揺れている。形はまだない。だが、ないこと自体が影浦の特徴だった。
影浦の路地に近づくほど、思考より先に身体が反応する。肩が強張り、呼吸が浅くなり、足の指が靴の中で石畳を掴もうとする。身体が知っている。理屈より先に、皮膚が危険を読んでいる。
こよいは一行だけ目録に鉛筆を走らせた。
『影浦の路地』と書かず、形だけを写すための線。路地の幅、壁の高さ、曲がり角の角度。言葉にせず、図だけで記録する。名前を書けば、名前が反応する。この場所では、文字より線のほうが安全だった。
久遠が声を低くして言った。
「口にすると決まる。だから、目で見たものは胸にしまっておけ」
三人は視線を合わせず、足音の符丁だけで進んだ。
こよいが小さく声を落とした。
「怖い。けど、海図の響きみたいに黙って消えるのはもっと嫌だ」
声が路地の壁に吸われた。反響しなかった。壁の煉瓦が声を飲み込み、振動だけを奥へ運んでいく。
こよいは鉛筆を握ったまま、路地の奥を見た。
霧が路地の角に溜まっていた。宵波浜の霧は裾を引いて動いたが、ここの霧は動かない。角に詰まったまま固まり、白い壁のように立ちはだかっている。
影浦の気配は近い。けれど形はまだない。
形がないまま、三人の呼吸だけが路地に残った。吐く息の白さが、霧に混じって区別がつかなくなる。三人の息と路地の霧が一つになり、影浦の気配の中に溶けていく。
こよいは鉛筆の芯を紙に押し当てたまま、動かなかった。書くべき線の続きが、まだ見えない。見えるまで待つしかない。路地の奥で、形のない気配が、三人を測っていた。
おたまが、霧の壁の前に進み出た。猫は白い塊を見上げ、それから、興味を失ったように毛づくろいを始めた。測られていることに、猫だけが付き合わなかった。
どれほど経ったか。角に詰まっていた霧が、ふ、と緩んだ。気配が奥へ退いていく。測り終えたのだ。敵ではないと判じたのか、報告に戻ったのか、それは分からない。ただ、路地の空気が、呼吸できる重さに戻った。
「……行ったな」
あさひが息を吐いた。
「先を急ぐ。この路地を抜けた先に、水中の道標が言っていた『声の停車場』があるはずだ。忘却井の手前の合流点まで、徒歩なら三日。列車なら半日だ」
久遠が目録を閉じた。三人と一匹は、固まった霧の残り香の中を、足音を散らしながら進んだ。




