第337話 十三の帰還
宵波浜の生きた井戸は、路地の最奥にあった。あさひの言った「次の穴」は、結局、剣で開けるまでもなかった。封印の網の目に、最初から開いていた一つの口——生きた井戸が、それだった。久遠が帰還の台帳と照合し、こよいが写本の束を井戸の縁に翳すと、西や南へ帰る名前たちの糸が、次々と水面へ潜っていった。ここから先は、地下水脈が運ぶ。見送ったのは十七柱。
星野へ向かう残る名前たちの帰り先は、北だ。迎えるために、三人と一匹は列車で星野へ引き返した。
二度目の星野は、前とは違った。凍りついた広場の石畳に、亀裂が入っていた。
亀裂から、金色の光が漏れている。細い筋のような光が、石畳の隙間を縫って広場の端まで伸びていた。
前に戻した十三柱の名前が、地面の下で根を張っている。
十三の帰還は、あの夜の一度きりの出来事ではなかった。いまも地面の下で続いている。帰るとは、着地して終わりではなく、根を張って住み直すことなのだ。
根は互いに絡み合い、石畳の継ぎ目に沿って広がっていた。前に来たときは一本の光の筋だけだったものが、今は網のように広がっている。名前が名前を呼び、根が根を伸ばし、地面の下で静かに広がり続けていた。
こよいは石碑の前に座った。石の冷たさが膝を通して伝わる。だが、亀裂に近い場所だけは、金色の光の分だけ温かかった。その温度差が掌を通して分かる。冷たい石と温かい亀裂の境目で、空気がかすかに揺らいでいた。
写本を広げた。今度は、差し出さない。名前を読んだ。
声に出した。
けれど前とは違う呼び方だった。「おいで」ではなく、「ここにいるよ」と。自分がここにいること。生きた声がここにあること。それだけを、名前に伝えた。地面の光が揺れた。
前のように激しくはない。
穏やかに、呼吸するように。光が膨らみ、縮み、また膨らむ。こよいの声の間隔に合わせて、地面が息をしていた。
「薄くなってない」
久遠が義眼でこよいを確認した。蒼光がこよいの輪郭を丁寧になぞり、密度を測っている。
「存在の記録密度、変化なし。正しく呼んでいる」
あさひが隣に座った。石碑の根元に腰を下ろし、大きな膝をこよいの膝の横に並べる。あさひの体温が、冷えた石の上でこよいの左側だけを温めていた。
こよいが写本の名前を読み、あさひがそれを声に出す。
二人の声が重なるたびに、地面の光が広がった。空から金色の糸が降りてきた。
今度は一本ではない。
三本。
五本。
糸は霧の上から降り注ぎ、広場の空気を金色に染めた。一本一本が異なる太さで、異なる速さで降りてくる。急いでいる糸と、ゆっくり慎重に降りてくる糸。名前ごとに帰り方が違うのだ。
写本の名前に反応して、複数の名前が同時に帰ろうとしている。糸が地面に触れた。
光が弾ける。
石畳の表面に、文字が浮かぶ。金色の墨で書かれたように、石の中から文字が浮き上がってくる。
二柱。
三柱。
四柱。名前が戻ってくるたびに、石碑の横線が薄くなった。
間引きの印が消えていく。横線が一本消えるたびに、石碑の表面がわずかに明るくなった。消された名前が戻ることで、石そのものが色を取り戻している。
「十二柱、戻った」
久遠が数えていた。義眼の蒼光が忙しく動き、一柱ごとに目録の頁に記録を刻んでいく。筆先が紙に触れる音が、広場の静けさの中で妙にはっきりと聞こえた。
写本の名前を一つずつ照合している。こよいの声はかすれていたが、存在は薄くなっていない。
右手の透明も、少しずつ戻っている。指先に色が差し、爪の輪郭がくっきりと戻ってきた。
正しく呼べば、消耗しない。
最初の神が千年かけて学んだことを、こよいは一日で覚えた。だが、全ての名前が戻ったわけではなかった。糸が降りてこない名前がある。
写本に書かれているのに、空に糸がない。
経蔵から飛び出したはずの名前が、途中で行方不明になっている。
「七柱分、反応がない」
久遠が目録を確認した。頁の上で、七つの名前に対応する線だけが灰色のまま動かない。他の線は金色に脈打っているのに、その七本だけが死んだように静止していた。
海図の線を辿る。
「この七柱は——下だ。空ではなく、地下を通って移動している。まだ着いていない。あるいは——」
久遠が言い淀んだ。義眼の蒼光が一瞬揺れ、すぐに押し殺された。
「あるいは?」
「途中で捕まった。観測者に」
地面の亀裂が広がった。こよいの声に反応するように、金色の根が新たな方向へ伸びていく。
金色の光が強くなる。
戻った十二柱の名前が、地面の下で互いを照らし合っている。光の根が交差する場所で、光が一際強く輝いた。名前と名前が出会い直しているのだ。長い間離れていた者同士が、地面の下で再会している。
前に戻した十三柱と合わせて、二十五柱。
五十一のうちの二十五。
残りは二十六。うち一柱は干潮の道の、封じられた井戸の戸口に受け皿ごと届けた。一柱は砂の灯の浜で、写本の紙の中に根を下ろしたまま眠っている。十七柱は、宵波浜の井戸から水脈に乗り、西や南の——それぞれの土地の井戸へ向かっている。星野に来ない名前を、ここで待つ必要はもうない。
「まだ足りない」
こよいが立ち上がった。
膝に砂が付いていた。石碑の根元の砂が、金色の光を受けて微かに光っている。砂粒の一つ一つに、名前の光が染みていた。
「地下を通ってる名前を、迎えに行かなきゃ」
おたまは、石碑の天辺に座っていた。降りてくる糸の一本一本を、首を巡らせて目で追う。糸が着地するたび、猫の耳が小さく前を向いた。数えているのは久遠だけではなかった。
あさひが空を見上げた。
金色の糸はもう降りてこない。
空に残る名前は、全てこの場所に届いた。
残りは地下だ。石碑の列の向こうで、地面が微かに震えた。足の裏に伝わる振動は、上からではなく下から来ている。
名前たちが、下から何かを伝えようとしている。振動は北に向かっていた。
星降町の方角だった。
こよいは写本を懐に仕舞い、北を向いた。巾着の中の神々が、北への脈動を刻んでいる。地面の下の七柱と、こよいの掌の中の名前たちが、同じ方角を向いて呼び合っていた。
風が石碑の列を吹き抜け、金色の亀裂が揺れた。亀裂の光が風に煽られて瞬き、まるで地面そのものが呼吸しているように明滅した。




