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神雧 - KAMIATSUME -  作者: 神代 一文
第10章 波の端

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292/407

第292話 設計者の残した空白

挿絵(By みてみん)


足が重かった。


 (まく)を抜けてから、歩みが鈍い。息を吸うたびに、空気の重さが肺の底に溜まる。忘却(ぼうきゃく)の海の中では軽かった体が、今は一歩ごとに地面に引かれている。重力が変わったのではない。身体が背負うものが増えたのだ。


 覚えている、ということの重さ。それが今、こよいの肩と膝にのしかかっている。忘れる場所では、忘れる分だけ軽かった。覚える側に渡った身体は、覚えた分だけ重くなる。


 こよいは両手を見た。(てのひら)(しわ)が、妙にくっきりと見える。忘却(ぼうきゃく)の海の中では、自分の手の形さえ曖昧(あいまい)だった。(きり)が記憶の輪郭(りんかく)を削り、見慣れたものが見慣れないものに変わっていく場所だった。


 ここは違う。すべてが鮮明だった。空気の匂い、足元の土の硬さ、遠くで風が岩肌(いわはだ)を叩く乾いた音。世界が輪郭(りんかく)を取り戻している。鮮明であることが、こんなにも重いとは知らなかった。


 空は低く、灰色の雲が大地すれすれに垂れ込めている。

 道の両脇に、石碑(せきひ)が立っている。低いものは(ひざ)ほど、高いものはこよいの背を超える。表面にはひらがなが刻まれ、文字の(みぞ)に金色の粉が残っていた。風化しかけているが、まだ読める。


 こよいは一つの石碑(せきひ)に近づき、文字をなぞった。


 「……名前だ」


 三文字。人の名前だった。こよいの知らない名前。いつ刻まれたのかも分からない。だが石の冷たさの奥に、かすかな脈動(みゃくどう)が残っている。指先に伝わるその拍は、巾着(きんちゃく)の神々の脈よりもずっと弱く、ずっと古い。長い眠りの底で、かろうじて鼓動(こどう)を続けている。


 「記録の堆積層(たいせきそう)だ」


 久遠(くおん)義眼(ぎがん)で周囲を走査(そうさ)した。蒼光(そうこう)石碑(せきひ)に当たるたびに、刻まれた文字が一瞬だけ明るくなる。


 「忘却(ぼうきゃく)の海の外側に、名前の記録が堆積(たいせき)している。海の中で消されたものがここに流れ着いたのか、あるいは最初からここに記録されていたのか。どちらにしても、膨大な量だ」


 石碑(せきひ)の列は果てがなかった。道の両側だけではなかった。少し離れた場所にも、さらにその向こうにも、灰色の空の下に無数の石碑(せきひ)が並んでいる。墓地に似ているが、ここに眠っているのは死者ではない。名前だ。


 あさひが石碑(せきひ)の一つを手のひらで叩いた。硬い音がした。


 「冷てえな。こよい、触ったとき何か感じたか」


 「脈がある。弱いけど。この石碑(せきひ)の中に、まだ名前が残ってる」


 あさひは手を引き、指先を(ころも)(すそ)(ぬぐ)ってから、剣の(つか)に戻した。


 「全部の石碑(せきひ)に名前が入ってるのか」


 「おそらく」


 久遠(くおん)目録(もくろく)を繰った。(ページ)に文字が戻っている。忘却(ぼうきゃく)の海の中では白紙だった(ページ)に、座標(ざひょう)と名前の断片が浮かび上がっていた。


 「目録(もくろく)の記録が復元されている。(まく)の外側では、忘却(ぼうきゃく)の力が届かない。消された記録が、元の場所に戻ろうとしている」


 こよいは巾着(きんちゃく)を胸に寄せた。神々の脈が強い。忘却(ぼうきゃく)の海の中では(かす)かだった鼓動(こどう)が、今は胸の骨に響くほどはっきりと打っている。名前を覚えていることの力が、ここでは身体ごと支えてくれる。


 三人は石碑(せきひ)の間を歩いた。石碑(せきひ)石碑(せきひ)の隙間から、乾いた風が吹き抜ける。風に乗って、かすかに甘い匂いがした。名前の残り香だろうか。忘却(ぼうきゃく)の海では()ぐことのできなかった、記憶の匂い。


 歩くほどに、こよいの頭の中に記憶が戻ってくる。忘却(ぼうきゃく)の海の中で薄れていたもの。しおりの手帳の触感。八重(やえ)処方箋(しょほうせん)の崩し字。星降町(ほしふりまち)の鐘の音。名前たちの声。


 全部が、一度に戻ってくる。


 こよいは足を止めた。(ひざ)が震えている。


 「……重い」


 「覚えていることは重い。だが、覚えていることだけが、この先で役に立つ」


 久遠(くおん)は歩みを緩めず、ただ声を落として言った。


 あさひがこよいの腕を取った。乱暴に。指の力が骨に食い込むほど強い。だがそのおかげで膝が伸びた。あさひの手は熱かった。記憶の重さに震えているこよいの腕に、その熱が染み込んでくる。


 「歩け。止まるな。重くても歩いてりゃ慣れる」


 石碑(せきひ)の列が、やがて途切れ始めた。密集(みっしゅう)していた石が間隔を広げ、まばらになり、最後の一本を過ぎると、何もない地面が広がっていた。


 こよいは振り返った。背後には石碑(せきひ)の森が灰色の空の下に沈んでいる。冷たい風が吹くと、石碑(せきひ)の隙間を抜ける空気が低い笛のような音を立てた。名前たちの息吹(いぶき)のように聞こえた。石碑(せきひ)の一本一本が、細い(のど)で歌っている。前方には、(なら)された地面だけがある。


 「……何もない」


 「ああ。ここから先は、何もない」


 久遠(くおん)義眼(ぎがん)を前方に向けた。蒼光(そうこう)が地面を走ったが、何も映さなかった。光が通り抜けていく。


 「だが、何もないことにも意味がある。記録が途切れた場所には、記録される前の世界がある」


 三人は石碑(せきひ)を背にして、空白の大地へ静かに踏み出した。


 踏み出して、こよいはすぐに気づいた。破壊の跡が、ひとつもない。石碑が倒れているのでも、削られたのでもない。ここには最初から、何も置かれていない。均質で、傷のない、まっさらな空白。


 「……壊れたんじゃ、ないんだね」


 「壊れていない」


 久遠(くおん)の声に、微かな緊張が混じった。


 「意図的に、空けてある。誰かが——ここを、残しておいた。設計者の残した空白だ」


 名づけられた瞬間、空白の大地が、ほんの少しだけ広く見えた。書かれなかった場所ではなく、まだ書かれていない場所。二つは、まるで違う。

 おたまが、空白の縁を鼻先で確かめてから、真っ先に中へ入っていった。まっさらな地面の上を、猫は遠慮なく歩いた。空白は、それを咎めなかった。

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