第216話 設計者の影
灰色の停車場を抜けた先の側線に、また霧列車が待っていた。乗るべき者の前に現れる列車は、灰色の底でも律儀だった。
走り出してすぐに分かった。三度目の影の中心は、前の二回と違った。
灰色が均一ではなかった。
壁のように厚かった灰色の層に、裂け目が入っている。細い亀裂が何本も走り、そこから色が漏れていた。
赤でも青でもない。名前のつかない色だった。
こよいは窓に額を押しつけて、その裂け目を見つめた。裂け目の奥には別の色がある。一色ではない。何層にも折り重なり、互いを打ち消しながら同時に発光している。見つめていると目の奥に痛みが走った。色がひとつに定まらないまま、網膜を灼いている。
「ひびが入ってる」
「亀裂だ。影の中心の制御が限界に近い」
久遠が義眼で窓の外を走査した。蒼光が灰色の層を透かし、下の構造を探る。
「漂白と凍結を同時に維持するには、膨大な力がいる。その力が消耗し始めている。限界に達した箇所から、封じ込められていた記録が漏れ出している」
「壊れてるのか」
あさひが身を乗り出した。
「壊れているのではない。綻びだ」
列車が亀裂の近くを通過した瞬間、車体が大きく揺れた。窓の外で裂け目から噴き出す光が一瞬だけ強くなり、すぐに消える。光が触れた箇所の空気が震えて、こよいの肌に細かな粒子のように当たった。痛くはない。だが皮膚の下を何かが通り抜けていく感覚があった。記録が、身体を素通りしている。
久遠の手元で、目録の頁が変化していた。
文字が灰色に侵食されるのではなく、逆に鮮明になっている。
亀裂から漏れた記録が、目録の写しに流れ込んでいた。
「……これは」
久遠の声が変わった。
義眼を大きく見開き、頁に顔を近づけた。蒼光が激しく明滅しながら、新しく浮かんだ文字を一字ずつ読み取っていく。
「命令記録だ」
こよいとあさひが同時に久遠を見た。
「名前の凍結を命じた記録。日時、対象、方法。そして——命じた者」
「読めるのか」
あさひが訊いた。
「一部だけだ。亀裂が閉じれば消える」
久遠は義眼の出力を限界まで上げた。蒼光が頁を焼くほど強くなり、額から汗が顎を伝って落ちる。唇が動いた。一字ずつ、声にならない声で読んでいた。
「……経蔵の最深部。原初の……」
亀裂が閉じた。
灰色が裂け目を塞ぎ、車内が一段暗くなった。久遠の義眼の光も急激に弱まる。出力を上げすぎた反動で、蒼光が不安定に揺れていた。
こよいの耳の奥で、亀裂が閉じる音がまだ残響していた。物理的な音ではない。色が消えた瞬間に生じた空白が、音のかたちをして鳴っている。
「消えた」
久遠が舌打ちした。
「だが読めた。断片だけだが、方向は分かった」
列車が影の中心を抜けた。
灰色が剥がれ、色が戻る。だが今回は、色の戻り方がいつもと違った。以前は灰色が均等に剥がれていたのに、今は斑に残っている。亀裂の名残だった。灰色の薄い斑が窓の外を流れていく。列車の速度に追いつけず、やがて後方に消えた。だが消える寸前、斑のひとつが淡い光を放った。亀裂から漏れた記録の破片が、まだそこに引っかかっている。
久遠は目録を膝に置き、額の汗を手の甲で拭った。
「経蔵の最深部に、原初の記録がある。名前の凍結を最初に命じた者の記録。それを読めば、すべてが繋がる」
「最初に命じた者」
こよいが呟いた。
「体系を作った奴か」
「体系より古い。体系を必要とした理由そのものが、そこに書かれている」
久遠は目録の灰色に侵された頁をそっと撫でた。
亀裂が漏らした記録の残響が、まだ薄く文字の形を保っている。だがそれも時間の問題だった。
こよいは窓の外を見た。
灰色が薄い場所がある。亀裂が走った箇所の周囲だけ、色が少しだけ深く戻っている。
「久遠くん。ひびが入ったところ、灰色が薄くない?」
「ああ。漂白に最後まで抵抗した場所だ。元の色が一番強く残っていた箇所に、亀裂が生じた。抵抗が亀裂を呼んだのか、亀裂が抵抗を可能にしたのかは分からない」
あさひが鼻を鳴らした。
「どっちでもいい。この体系を設計した奴は、完璧には作れなかった。縫い目が甘い」
久遠が小さく笑った。声が出ないほど微かな、息だけの笑いだった。
「お前がその言葉を使うとは思わなかった」
「借りただけだ。返さん」
あさひは窓の外を見た。穴なら塞げばいい。だが縫い目は、塞いだ跡そのものだ。壊すことはできても、なかったことにはできない。
列車が減速を始めた。
窓の外に、見覚えのある蒼白い灯が浮かんでいる。
中陵の停車場だった。
こよいは巾着を胸に抱いた。神々の脈が、さっきより少しだけ強くなっていた。亀裂から漏れた記録に、神々も何かを感じ取ったのかもしれない。
掌の上で、神々の温度が揺れていた。冷たいと思った指先が、次の拍動で温かさに変わる。温度がひとつに定まらない。神々の内側で、何かが組み変わろうとしている。まだ形にはなっていない。だが前とは違う。三つの井戸で拾った記録が、ひとつの水滴の中で互いを探りあっている。
こよいは巾着の紐をそっと握った。指先に伝わる振動は、心臓の音に似ていて、心臓の音ではなかった。もっと複雑な律動。三つの拍が重なり、打ち消しあい、また重なる。聴こうとすると消え、意識を逸らすと鮮明になる。
巾着の布越しに、かすかな光が漏れた。金色ではなかった。白と琥珀と藍が混ざり合った、名前のない色。亀裂から漏れていた色に似ている。だがあれは封じ込められた記録の色で、これは神々自身の色だった。
光はすぐに消えた。まだ安定しない。だが巾着の中で、何かが確実に境界を越えようとしていた。
三人は窓の向こうに近づく灯を見つめた。
蒼白い光が、灰色の残滓を押しのけるように、遠くで広がり始めている。中陵の停車場の灯だ。まだ遠い。それでも、確かに近づいている。
答えがある場所が、そこにある。
振り返ると、おたまの三毛の背がすぐそばにあった。




