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神雧 - KAMIATSUME -  作者: 神代 一文
第7章 灯の距離

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213/219

第213話 八重の処方箋

挿絵(By みてみん)


石段の(いただき)は、(きり)の底だった。

 登り切った三人を迎えたのは、空ではなく白い闇だった。上も下もない。(きり)が光を吸い、吐き出さない。手を伸ばせば指先が(きり)に溶け、自分の指がどこまであるのか分からなくなる。


 あさひが一歩前に出た。剣の(さや)石畳(いしだたみ)に触れ、硬い音が(きり)を裂いた。音は三歩分ほど先まで届き、その向こうで()まれた。


 「下りがある」


 あさひの声だけが頼りだった。階段は(いただき)を越え、反対側へ下っている。登りの石段とは違い、下りの段は幅が広く、傾斜が緩かった。手すりはない。だが段の両端に、低い石柱が等間隔で並んでいた。石柱の表面は磨かれ、(きり)の中でも微かに光を弾いている。


 こよいは足元を確かめながら降りた。石段の(ふち)(てのひら)で探り、一段ずつ身体を下ろす。海図の(かいずのまち)の泥が手の甲に乾いたまま残っていて、石に触れるたびに茶色い筋が(こす)れた。

 一段ごとに、空気の質が変わる。登りでは(きり)が湿っていた。水を含んだ、重い(きり)。だが下るにつれて(きり)が乾いていく。肌に触れる感触が変わった。湿った布から、乾いた紙へ。呼吸のたびに(のど)の奥がかすかに痛い。(つば)を飲んでも渇きが取れない。空気そのものが、水分を拒んでいた。


 久遠(くおん)義眼(ぎがん)蒼光(そうこう)を足元に落とした。光が石段を照らすと、段の表面に文字が浮かんだ。登り側と同じ名前の彫り込みだった。だがこちら側の文字は、漂白(ひょうはく)が進みすぎて石そのものと見分けがつかない。指で触れなければ、そこに(みぞ)があることさえ分からなかった。


 「登り側はまだ読めた。こちら側は、もう形だけだ」


 久遠(くおん)の声に苦さがあった。目録(もくろく)に写そうにも、(みぞ)が浅すぎて蒼光(そうこう)の影が生まれない。光を当てても、段の表面はのっぺりと白いままだった。


 百段ほど降りたところで、(きり)が薄れた。

 足元に砂利(じゃり)が見えた。石段が途切れ、平坦な地面に変わっている。(きり)の切れ間から、細い線路が一本、地面を()うように伸びていた。


 停車場(ていしゃじょう)だった。

 屋根もなく、標柱(ひょうちゅう)もない。ただ線路の脇に、枕木(まくらぎ)を三本重ねた台があるだけの場所。台の上に薄い(こけ)が生え、端が崩れかけていた。だが線路には(さび)がない。誰かが——あるいは何かが——この線路を使い続けている。


 巾着(きんちゃく)が脈を打った。弱く、短く。神々が線路の先を見ている。こよいにはそう感じた。布越しの温もりが、線路の延びる方角へわずかに傾いている。


 「列車が来る」


 久遠(くおん)目録(もくろく)を胸に押さえた。義眼(ぎがん)蒼光(そうこう)(きり)の奥を射抜いた。蒼い光が(きり)の粒に反射し、数十歩先に揺れるものを捉えた。行灯(あんどん)だった。蒼白い光が、(きり)の底を()うように近づいてくる。


 霧列車(きりれっしゃ)が音もなく滑り込んできた。これまで乗った列車とは違う。車体が短い。二両きりで、窓が小さく、木の壁が灰色に近い白に塗られている。塗料の下に木目(もくめ)()けて見えた。古い。だが車輪は滑らかに回り、線路の上を迷いなく進んでいた。


 扉が開いた。中は暗い。行灯(あんどん)が一つだけ天井に下がり、座席は向かい合わせの木の長椅子(ながいす)が二列。壁に窓が三つ。それだけの車内だった。


 おたまが、開いた扉から真っ先に滑り込んだ。この小さな古い列車も、猫にとっては顔馴染(かおなじ)みであるかのように。

 あさひが続いて乗り込んだ。床板(ゆかいた)を踏む音が鈍い。木が古くなりすぎて、反響しない。剣を(ひざ)に置き、窓の外を見る。久遠(くおん)が続き、目録(もくろく)(ひざ)の上に広げた。こよいが最後に乗った。長椅子(ながいす)の木が冷たく、座った瞬間に(もも)の裏が(しび)れた。扉が閉まる音はしなかった。振り返ると、扉はすでに消えていた。壁があるだけだった。こよいの背筋が冷えた。乗った以上、降りる場所は選べない。


 列車が動き出した。

 窓の外を(きり)が流れていく。速い。景色が変わる前に(きり)が視界を覆い、(きり)が薄れたときには別の場所にいる。岩肌が見え、消え、次に灰色の草原が現れ、それも消えた。


 こよいは自分の手を見た。右手の爪の下に(しも)の白、左手に水の(まく)、甲に泥の筋。三つの痕跡(こんせき)が薄暗い車内でそれぞれ異なる温度を放っている。(てのひら)を握ると、三つの温度が一つに重なる。冷たくも温かくもない、名前のない温度。


 『霜一匁(いちもんめ)、水一合、泥三寸。三味(さんみ)を合わせ、患者の手にすでに薬あり。服用のこと』

 八重(やえ)処方箋(しょほうせん)を、こよいは胸の中で読み返した。薬は手にある。それは分かった。分からないのは、最後の一行だ。


 「ねえ、久遠(くおん)くん。服用って、どうやるの。手は飲めないよ」


 「着いたときに分かる」


 久遠(くおん)目録(もくろく)から顔を上げずに言った。


 「処方箋(しょほうせん)とはそういうものだ。薬の名前と分量だけが書いてあって、飲む瞬間は患者に委ねられる。八重(やえ)は飲み方まで指図しない。……患者を信じるのが、あいつの処方だ」


 窓の外の色が、変わり始めた。


 最初は些細(ささい)な変化だった。遠くの山の緑が、わずかに薄い。近づいてくる岩の茶色が、どこか白っぽい。色が抜けているのではない。色の濃さが、一段ずつ引き下げられている。


 久遠(くおん)が窓に手を当てた。硝子(ガラス)が冷たい。触れた指先が白くなった。


 「漂白(ひょうはく)の外縁に入っている。ここから先、色の密度が下がっていく。記録の凍結が始まる地帯だ」


 行灯(あんどん)が揺れた。蒼白い光が一段暗くなり、天井の木目(もくめ)が影に沈んだ。


 あさひが剣の(つか)に手を添えた。


 「前にも通った場所か」


 「通った。だが今回は条件が違う。三つの井戸(いど)の鍵を持っている。漂白(ひょうはく)がどう反応するか、分からない」


 巾着(きんちゃく)の脈が速くなった。神々が身を寄せ合っている。温もりが強まり、布越しに小さな光が(こぼ)れた。山吹(やまぶき)色の微かな光。灰色に変わりゆく車内で、その光だけが色を保っていた。


 列車は減速せず、漂白(ひょうはく)の深みへ向かって走り続けた。窓の外の色が、一枚ずつ()がれていく。空の青が消え、土の茶が消え、最後に残った緑がゆっくりと灰に沈んでいく。車輪の音が変わった。金属の(きし)みが消え、綿(わた)()むような鈍い振動だけが床から伝わる。音すらも漂白(ひょうはく)()まれ始めていた。


 こよいは巾着(きんちゃく)を胸に抱いた。三つの温度を持つ両手で、名前の欠片(かけら)を抱いた布を包む。灰色の世界が近づいている。けれど(てのひら)の中には、まだ色がある。右手の(しも)が微かに冷たく光り、左手の水が指の腹でぬるく震え、甲の泥が乾いた線を描いている。三つの井戸(いど)の記憶が、灰色に(あらが)うように脈を打っていた。

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