第213話 八重の処方箋
石段の頂は、霧の底だった。
登り切った三人を迎えたのは、空ではなく白い闇だった。上も下もない。霧が光を吸い、吐き出さない。手を伸ばせば指先が霧に溶け、自分の指がどこまであるのか分からなくなる。
あさひが一歩前に出た。剣の鞘が石畳に触れ、硬い音が霧を裂いた。音は三歩分ほど先まで届き、その向こうで呑まれた。
「下りがある」
あさひの声だけが頼りだった。階段は頂を越え、反対側へ下っている。登りの石段とは違い、下りの段は幅が広く、傾斜が緩かった。手すりはない。だが段の両端に、低い石柱が等間隔で並んでいた。石柱の表面は磨かれ、霧の中でも微かに光を弾いている。
こよいは足元を確かめながら降りた。石段の縁を掌で探り、一段ずつ身体を下ろす。海図の町の泥が手の甲に乾いたまま残っていて、石に触れるたびに茶色い筋が擦れた。
一段ごとに、空気の質が変わる。登りでは霧が湿っていた。水を含んだ、重い霧。だが下るにつれて霧が乾いていく。肌に触れる感触が変わった。湿った布から、乾いた紙へ。呼吸のたびに喉の奥がかすかに痛い。唾を飲んでも渇きが取れない。空気そのものが、水分を拒んでいた。
久遠が義眼の蒼光を足元に落とした。光が石段を照らすと、段の表面に文字が浮かんだ。登り側と同じ名前の彫り込みだった。だがこちら側の文字は、漂白が進みすぎて石そのものと見分けがつかない。指で触れなければ、そこに溝があることさえ分からなかった。
「登り側はまだ読めた。こちら側は、もう形だけだ」
久遠の声に苦さがあった。目録に写そうにも、溝が浅すぎて蒼光の影が生まれない。光を当てても、段の表面はのっぺりと白いままだった。
百段ほど降りたところで、霧が薄れた。
足元に砂利が見えた。石段が途切れ、平坦な地面に変わっている。霧の切れ間から、細い線路が一本、地面を這うように伸びていた。
停車場だった。
屋根もなく、標柱もない。ただ線路の脇に、枕木を三本重ねた台があるだけの場所。台の上に薄い苔が生え、端が崩れかけていた。だが線路には錆がない。誰かが——あるいは何かが——この線路を使い続けている。
巾着が脈を打った。弱く、短く。神々が線路の先を見ている。こよいにはそう感じた。布越しの温もりが、線路の延びる方角へわずかに傾いている。
「列車が来る」
久遠が目録を胸に押さえた。義眼の蒼光が霧の奥を射抜いた。蒼い光が霧の粒に反射し、数十歩先に揺れるものを捉えた。行灯だった。蒼白い光が、霧の底を這うように近づいてくる。
霧列車が音もなく滑り込んできた。これまで乗った列車とは違う。車体が短い。二両きりで、窓が小さく、木の壁が灰色に近い白に塗られている。塗料の下に木目が透けて見えた。古い。だが車輪は滑らかに回り、線路の上を迷いなく進んでいた。
扉が開いた。中は暗い。行灯が一つだけ天井に下がり、座席は向かい合わせの木の長椅子が二列。壁に窓が三つ。それだけの車内だった。
おたまが、開いた扉から真っ先に滑り込んだ。この小さな古い列車も、猫にとっては顔馴染みであるかのように。
あさひが続いて乗り込んだ。床板を踏む音が鈍い。木が古くなりすぎて、反響しない。剣を膝に置き、窓の外を見る。久遠が続き、目録を膝の上に広げた。こよいが最後に乗った。長椅子の木が冷たく、座った瞬間に腿の裏が痺れた。扉が閉まる音はしなかった。振り返ると、扉はすでに消えていた。壁があるだけだった。こよいの背筋が冷えた。乗った以上、降りる場所は選べない。
列車が動き出した。
窓の外を霧が流れていく。速い。景色が変わる前に霧が視界を覆い、霧が薄れたときには別の場所にいる。岩肌が見え、消え、次に灰色の草原が現れ、それも消えた。
こよいは自分の手を見た。右手の爪の下に霜の白、左手に水の膜、甲に泥の筋。三つの痕跡が薄暗い車内でそれぞれ異なる温度を放っている。掌を握ると、三つの温度が一つに重なる。冷たくも温かくもない、名前のない温度。
『霜一匁、水一合、泥三寸。三味を合わせ、患者の手にすでに薬あり。服用のこと』
八重の処方箋を、こよいは胸の中で読み返した。薬は手にある。それは分かった。分からないのは、最後の一行だ。
「ねえ、久遠くん。服用って、どうやるの。手は飲めないよ」
「着いたときに分かる」
久遠は目録から顔を上げずに言った。
「処方箋とはそういうものだ。薬の名前と分量だけが書いてあって、飲む瞬間は患者に委ねられる。八重は飲み方まで指図しない。……患者を信じるのが、あいつの処方だ」
窓の外の色が、変わり始めた。
最初は些細な変化だった。遠くの山の緑が、わずかに薄い。近づいてくる岩の茶色が、どこか白っぽい。色が抜けているのではない。色の濃さが、一段ずつ引き下げられている。
久遠が窓に手を当てた。硝子が冷たい。触れた指先が白くなった。
「漂白の外縁に入っている。ここから先、色の密度が下がっていく。記録の凍結が始まる地帯だ」
行灯が揺れた。蒼白い光が一段暗くなり、天井の木目が影に沈んだ。
あさひが剣の柄に手を添えた。
「前にも通った場所か」
「通った。だが今回は条件が違う。三つの井戸の鍵を持っている。漂白がどう反応するか、分からない」
巾着の脈が速くなった。神々が身を寄せ合っている。温もりが強まり、布越しに小さな光が零れた。山吹色の微かな光。灰色に変わりゆく車内で、その光だけが色を保っていた。
列車は減速せず、漂白の深みへ向かって走り続けた。窓の外の色が、一枚ずつ剥がれていく。空の青が消え、土の茶が消え、最後に残った緑がゆっくりと灰に沈んでいく。車輪の音が変わった。金属の軋みが消え、綿を噛むような鈍い振動だけが床から伝わる。音すらも漂白に呑まれ始めていた。
こよいは巾着を胸に抱いた。三つの温度を持つ両手で、名前の欠片を抱いた布を包む。灰色の世界が近づいている。けれど掌の中には、まだ色がある。右手の霜が微かに冷たく光り、左手の水が指の腹でぬるく震え、甲の泥が乾いた線を描いている。三つの井戸の記憶が、灰色に抗うように脈を打っていた。




