第191話 砂の洗礼
霜里を出た列車は南へ走った。
方角を決めたのは、巾着だった。白銀の律動をひとつ覚えた神々は、次の拍を欲しがるように南を向き、南へ布を傾けるたびに脈が強くなった。久遠はそれを「記録の流れの下流」と呼んだ。凍った記録の対になるものが、乾いた土地のどこかにある。
窓硝子の霜が解け、滴が斜めに流れ始めたころ、車窓の景色は岩地から乾いた砂の平原に変わっていた。停車場で降り、砂の道を歩き始めて半日。
風が変わった瞬間、あさひが腕を横へ出した。
「伏せろ」
声より先に、砂が来た。
地平線の向こうから黄褐色の壁が押し寄せる。音は低く、地面を這うような唸りだった。大気そのものが固まりになって走ってくる。
三人は身を低くした。こよいは地面に膝をつき、巾着を腹の下に庇った。あさひは外套の裾を広げ、こよいの頭を覆う。久遠は目録を懐へ押し込み、背中を丸めた。
砂が叩きつけた。
肌を削るような痛みだった。腕の産毛が逆立ち、露出した首筋がざらりと焼ける。風の勢いで身体が横へずれる。こよいは地面にしがみつき、指の間から砂が流れ込むのを感じた。唇の隙間にも砂が入り、舌の上でじゃりと鳴った。歯の裏に貼りつく粒は乾いていて、唾液を吸い取るように口の中を渇かせた。
耳の穴にも砂が届く。外の音が遠くなり、代わりに頭蓋の内側で自分の血流がごうごうと響いた。瞼を閉じても砂の圧は変わらない。目の縁に溜まった粒が涙で転がり、こめかみを伝って落ちた。
砂粒の一つ一つが、妙に重い。
ただの砂ではないと分かったのは、耳の奥で細い音がしたからだ。声ではない。文字が擦れる音に似ている。紙を指でなぞるときの、あのかすかな摩擦。砂の中に、溶けた名前の粒が混じっている。
こよいの腕に砂が積もり、肌の表面を薄く覆った。不思議と、痛みが引いていく。砂は削りながら、同時に何かを洗い流しているようだった。霜里で身体にこびりついた冷気の残滓。氷の井戸で肌に染みた記録の重み。それらが砂に擦り取られ、風に運ばれていく。肘の内側、手首の脈の上、首の後ろ——皮膚の薄い場所ほど、洗われる感触がはっきりした。痛みと浄化が同じ粒から来ている。削るのと洗うのが、同じ一撫でだった。
洗礼だ、とこよいは思った。
砂が身体を剥いでいる。余分なものを。風がもう一度強く吹き、背中に積もった砂が滑り落ちた。落ちた分だけ身体が軽くなる。肩の芯に凝っていた鈍い疲労が、砂と一緒にこぼれたような気がした。
巾着が温かい。腹に押し当てた布越しに、神々が震えている。怯えではない。跳ねている。砂粒が布に当たるたび、中の神々が弾むように脈を打った。
嬉しいのだ、と気づいた。
神々にとって、この砂は敵ではない。かつて同じ場所に在ったものの欠片だ。名前を失い、粒になって風に乗る神々の痕跡。神々はそれを、古い友の匂いのように受け取っている。巾着の布越しに伝わる脈が速くなり、こよいの腹の底にまで振動が届いた。胃の裏がくすぐったい。神々の喜びが、こよいの内臓を直に揺らしている。
風が収まり始めた。
唸りが遠ざかり、砂の壁が薄くなる。最後にひと掴みの砂が頬を掠め、耳朶に引っかかって落ちた。こよいは顔を上げた。目に砂が入り、涙が滲む。瞬きを繰り返し、ようやく視界が戻った。鼻の奥にまだ砂の匂いがある。乾いた土と、どこか甘い、古い木の樹脂に似た香り。名前の粒が鼻腔の粘膜に触れているのだと思うと、息をするたびに誰かの欠片を吸い込んでいることになる。
景色が変わっていた。
さっきまであった道が消えている。代わりに、見覚えのない岩が目の前にあった。低い岩棚が左右に続き、その手前に浅い溝が走っている。来た道の痕跡は、砂に埋まって影も形もない。
おたまは、その岩棚の上にいた。
嵐の間じゅうどこにいたのか、誰にも分からない。三毛の毛並みには砂の一粒も付いていなかった。嵐のほうが、猫を避けて吹いたかのように。おたまは前脚を一度だけ舐め、それから岩棚の切れ目のほうへ、ゆっくり首を向けた。
「道が消えた」
こよいが言うと、あさひは砂を払いながら立ち上がった。
「ここの嵐は、地形ごと塗り替える。来るたびに道が変わる。地図は意味がない」
あさひは目を細めて周囲を見回した。何かを探している。地形の中に、砂が書き換えられない目印があるのだろう。
久遠が懐から目録を出した。革表紙に砂が食い込み、指で払っても取れない。頁を開くと、義眼の蒼光が走った。
「砂の粒子に記録の残滓が含まれている。濃度が高い。嵐が来るたびに、散った名前が粒ごと地表を叩きつける」
「だから肌が痛かったんだ。砂じゃなくて、名前が当たってた」
「そういうことだ。この土地には固定された記録がない。あるのは、風が運ぶ断片だけだ」
こよいは腕の砂を見た。肌に薄く残った砂の膜が、日差しの中でかすかに光っている。腕を傾けると光の筋が動いた。砂の下の皮膚は赤みが引いていて、嵐の前より滑らかに見えた。名前の粒。誰かだったもの。それが今、こよいの肌の上で薄い鱗のように並んでいる。
巾着を持ち上げ、布の表面を指で撫でた。砂が付着している。こよいがそれを払おうとすると、巾着が脈打った。払うな、と言うように。
こよいは手を止めた。
砂を纏ったまま、巾着は温もりを返している。神々が砂の中の名前に触れ、何かを読み取っているのかもしれない。
あさひが歩き出した。おたまが首で示していた岩棚の切れ目へ、迷わず向かう。
「嵐は何度も来る。次が来る前に、岩場まで行く」
こよいは立ち上がり、膝の砂を叩いた。膝小僧が痺れている。長く地面に押し付けていたせいで血の巡りが鈍く、立つと足先にじわりと熱が戻った。足元の地面は、さっきとは別の場所のようだった。砂の模様が違う。風紋が新しく刻まれ、古い足跡はどこにもない。靴の中にも砂が溜まっていて、踏み出すたびに足裏で粒が潰れた。
嵐が地図を書き直す土地。記録が固定されない場所。
久遠が目録を懐に戻し、歩き出した。
「記録を凍らせる霜里とは逆だな。ここでは記録が流れ続ける」
こよいは頷き、巾着を腰に戻した。砂を纏ったままの布が、腰骨に当たるたび温かく脈打つ。歩くたびに砂粒が布の繊維の中で擦れ、小さな音を立てた。さっき耳の奥で聞いた文字の擦過音と同じ音だった。神々が、砂の名前を読んでいるのかもしれない。
風が凪いだ。砂の匂いの中に、遠い花の気配がかすかに混じった。名前の中に、花を育てていた誰かがいたのかもしれない。
こよいはその匂いを一度だけ吸い込み、前を歩くあさひの背中を追った。




