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神雧 - KAMIATSUME -  作者: 神代 一文
第7章 灯の距離

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第191話 砂の洗礼

挿絵(By みてみん)


霜里(しもざと)を出た列車は南へ走った。

 方角を決めたのは、巾着(きんちゃく)だった。白銀の律動をひとつ覚えた神々は、次の拍を欲しがるように南を向き、南へ布を傾けるたびに脈が強くなった。久遠(くおん)はそれを「記録の流れの下流」と呼んだ。凍った記録の対になるものが、乾いた土地のどこかにある。

 窓硝子(まどがらす)(しも)が解け、(しずく)が斜めに流れ始めたころ、車窓の景色は岩地から乾いた(すな)の平原に変わっていた。停車場(ていしゃじょう)で降り、砂の道を歩き始めて半日。


 風が変わった瞬間、あさひが腕を横へ出した。


 「伏せろ」


 声より先に、(すな)が来た。


 地平線の向こうから黄褐色の壁が押し寄せる。音は低く、地面を()うような(うな)りだった。大気そのものが固まりになって走ってくる。


 三人は身を低くした。こよいは地面に膝をつき、巾着(きんちゃく)を腹の下に(かば)った。あさひは外套(がいとう)(すそ)を広げ、こよいの頭を覆う。久遠(くおん)目録(もくろく)を懐へ押し込み、背中を丸めた。


 (すな)が叩きつけた。


 肌を削るような痛みだった。腕の産毛が逆立ち、露出した首筋がざらりと焼ける。風の勢いで身体が横へずれる。こよいは地面にしがみつき、指の間から(すな)が流れ込むのを感じた。唇の隙間にも(すな)が入り、舌の上でじゃりと鳴った。歯の裏に貼りつく粒は乾いていて、唾液(だえき)を吸い取るように口の中を渇かせた。


 耳の穴にも(すな)が届く。外の音が遠くなり、代わりに頭蓋(ずがい)の内側で自分の血流がごうごうと響いた。(まぶた)を閉じても(すな)の圧は変わらない。目の(ふち)に溜まった粒が涙で転がり、こめかみを伝って落ちた。


 砂粒の一つ一つが、妙に重い。


 ただの(すな)ではないと分かったのは、耳の奥で細い音がしたからだ。声ではない。文字が擦れる音に似ている。紙を指でなぞるときの、あのかすかな摩擦(まさつ)(すな)の中に、溶けた名前の粒が混じっている。


 こよいの腕に(すな)が積もり、肌の表面を薄く覆った。不思議と、痛みが引いていく。(すな)は削りながら、同時に何かを洗い流しているようだった。霜里(しもざと)で身体にこびりついた冷気の残滓(ざんし)。氷の井戸(いど)で肌に染みた記録の重み。それらが(すな)に擦り取られ、風に運ばれていく。(ひじ)の内側、手首の脈の上、首の後ろ——皮膚の薄い場所ほど、洗われる感触がはっきりした。痛みと浄化が同じ粒から来ている。削るのと洗うのが、同じ一撫(ひとな)でだった。


 洗礼だ、とこよいは思った。


 (すな)が身体を()いでいる。余分なものを。風がもう一度強く吹き、背中に積もった(すな)が滑り落ちた。落ちた分だけ身体が軽くなる。肩の芯に凝っていた鈍い疲労が、(すな)と一緒にこぼれたような気がした。


 巾着(きんちゃく)が温かい。腹に押し当てた布越しに、神々が震えている。(おび)えではない。跳ねている。砂粒が布に当たるたび、中の神々が弾むように脈を打った。


 嬉しいのだ、と気づいた。


 神々にとって、この(すな)は敵ではない。かつて同じ場所に在ったものの欠片だ。名前を失い、粒になって風に乗る神々の痕跡(こんせき)。神々はそれを、古い友の匂いのように受け取っている。巾着(きんちゃく)の布越しに伝わる脈が速くなり、こよいの腹の底にまで振動が届いた。胃の裏がくすぐったい。神々の喜びが、こよいの内臓を直に揺らしている。


 風が収まり始めた。


 (うな)りが遠ざかり、(すな)の壁が薄くなる。最後にひと掴みの(すな)が頬を(かす)め、耳朶(じだ)に引っかかって落ちた。こよいは顔を上げた。目に(すな)が入り、涙が(にじ)む。瞬きを繰り返し、ようやく視界が戻った。鼻の奥にまだ(すな)の匂いがある。乾いた土と、どこか甘い、古い木の樹脂(じゅし)に似た香り。名前の粒が鼻腔(びこう)の粘膜に触れているのだと思うと、息をするたびに誰かの欠片を吸い込んでいることになる。


 景色が変わっていた。


 さっきまであった道が消えている。代わりに、見覚えのない岩が目の前にあった。低い岩棚が左右に続き、その手前に浅い溝が走っている。来た道の痕跡(こんせき)は、(すな)に埋まって影も形もない。


 おたまは、その岩棚の上にいた。

 嵐の間じゅうどこにいたのか、誰にも分からない。三毛の毛並みには(すな)の一粒も付いていなかった。嵐のほうが、猫を避けて吹いたかのように。おたまは前脚を一度だけ()め、それから岩棚の切れ目のほうへ、ゆっくり首を向けた。


 「道が消えた」


 こよいが言うと、あさひは(すな)を払いながら立ち上がった。


 「ここの嵐は、地形ごと塗り替える。来るたびに道が変わる。地図は意味がない」


 あさひは目を細めて周囲を見回した。何かを探している。地形の中に、(すな)が書き換えられない目印があるのだろう。


 久遠(くおん)が懐から目録(もくろく)を出した。革表紙に(すな)が食い込み、指で払っても取れない。(ページ)を開くと、義眼(ぎがん)蒼光(そうこう)が走った。


 「(すな)の粒子に記録の残滓(ざんし)が含まれている。濃度が高い。嵐が来るたびに、散った名前が粒ごと地表を叩きつける」


 「だから肌が痛かったんだ。(すな)じゃなくて、名前が当たってた」


 「そういうことだ。この土地には固定(こてい)された記録がない。あるのは、風が運ぶ断片だけだ」


 こよいは腕の(すな)を見た。肌に薄く残った(すな)(まく)が、日差しの中でかすかに光っている。腕を傾けると光の筋が動いた。(すな)の下の皮膚は赤みが引いていて、嵐の前より滑らかに見えた。名前の粒。誰かだったもの。それが今、こよいの肌の上で薄い(うろこ)のように並んでいる。


 巾着(きんちゃく)を持ち上げ、布の表面を指で撫でた。(すな)が付着している。こよいがそれを払おうとすると、巾着(きんちゃく)が脈打った。払うな、と言うように。


 こよいは手を止めた。


 (すな)(まと)ったまま、巾着(きんちゃく)は温もりを返している。神々が(すな)の中の名前に触れ、何かを読み取っているのかもしれない。


 あさひが歩き出した。おたまが首で示していた岩棚の切れ目へ、迷わず向かう。


 「嵐は何度も来る。次が来る前に、岩場まで行く」


 こよいは立ち上がり、膝の(すな)を叩いた。膝小僧(ひざこぞう)(しび)れている。長く地面に押し付けていたせいで血の巡りが鈍く、立つと足先にじわりと熱が戻った。足元の地面は、さっきとは別の場所のようだった。(すな)の模様が違う。風紋(ふうもん)が新しく刻まれ、古い足跡はどこにもない。靴の中にも(すな)が溜まっていて、踏み出すたびに足裏で粒が潰れた。


 嵐が地図を書き直す土地。記録が固定(こてい)されない場所。


 久遠(くおん)目録(もくろく)を懐に戻し、歩き出した。


 「記録を凍らせる霜里(しもざと)とは逆だな。ここでは記録が流れ続ける」


 こよいは(うなず)き、巾着(きんちゃく)を腰に戻した。(すな)(まと)ったままの布が、腰骨に当たるたび温かく脈打つ。歩くたびに砂粒が布の繊維の中で擦れ、小さな音を立てた。さっき耳の奥で聞いた文字の擦過音(さっかおん)と同じ音だった。神々が、(すな)の名前を読んでいるのかもしれない。


 風が()いだ。(すな)の匂いの中に、遠い花の気配がかすかに混じった。名前の中に、花を育てていた誰かがいたのかもしれない。


 こよいはその匂いを一度だけ吸い込み、前を歩くあさひの背中を追った。

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