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神雧 - KAMIATSUME -  作者: 神代 一文
第6章 影の計量

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第174話 風の囁き、ふたたび

挿絵(By みてみん)


砂丘(さきゅう)尾根(おね)を越えた時、風が(ささや)いた。


 はっきりした言葉ではない。風の切れ目に、声の残骸(ざんがい)のようなものが混じっている。母音だけの断片。意味を持たない音の連なり。

 けれど、以前どこかで聞いた調子だ。(つき)(きょう)で迷った夜、耳元をかすめたあの風。あの時は恐ろしかった。何を言っているか分からず、ただ風に追われているような気がした。闇の中で風だけが声を持ち、こよいたちを追い立てていた。

 今は違う。風は追っていない。横に並んで、同じ方向を向いている。追い風ではなく、伴走する風だ。


 「……風の(ささや)き、ふたたびか」


 久遠(くおん)(つぶや)く。義眼(ぎがん)蒼光(そうこう)を灯そうとして、やめた。指が義眼(ぎがん)(ふち)に触れかけて、離れる。蒼光(そうこう)では風の言葉は読めない。文字ではないものを、文字の道具で捉えようとしても空転するだけだ。久遠(くおん)はそれを経験的に知っている。


 あさひは剣に手を置いたまま、耳を()ませた。風が右耳のほうから来ている。砂を含んだ風は低く(うな)り、その下に薄い旋律(せんりつ)がある。旋律(せんりつ)は一定ではなく、風の強弱に合わせて途切れたり(つな)がったりする。


 「今回は(おど)しじゃない。案内に近い」


 あさひの判断は身体の勘だ。理屈ではない。脅しの風は筋肉を硬くする。身体が防御の姿勢を取り、肩が上がり、呼吸が浅くなる。案内の風は足を向かせる。身体が進みたがり、膝が緩み、歩幅が自然に広がる。今の風は、足のほうに来ている。身体が前へ行きたがっている。


 こよいは立ち止まり、目を閉じた。

 (ささや)きは断片的だ。風の切れ間に、言葉の欠片(かけら)が混じっている。全部を聞き取ることはできない。風が強い時は声が埋もれ、風が弱い時だけ欠片(かけら)が浮かび上がる。聞き取れた部分だけを(つな)ぐ。


 右へ。

 低い方へ。

 灯を隠せ。


 全部を聞き取れたわけではない。間に何かあったかもしれない。だが聞き取れた部分だけを(つな)ぐと、この三つになった。方向の指示と、一つの注意。


 しおりの帳面にも似た注記がある。砂の道の(ページ)の端に、小さな字で。

 『(ささや)きは半分だけ信じる。残りは地形で確かめる』。


 半分だけ。しおりらしい慎重さだった。全部信じれば風への依存になり、全部疑えば貴重な情報を捨てることになる。半分だけ信じて、残りは自分の足と目で確かめる。信じることと疑うことを、同時にやる。


 三人は尾根(おね)の右斜面へ降りた。

 斜面は急で、砂が崩れやすい。一歩踏み込むと足首まで沈み、次の一歩で膝下まで砂が崩れる。砂の下に石段があった。砂をかき分けると、石段の端がむき出しになる。古い石だ。表面に幾何学(きかがく)的な模様が彫られているが、何の模様かは風化して分からなかった。石段は浅く、一段ずつ慎重に降りる。風の(あつ)が弱い。斜面の角度が風を上へ逃がしているのだ。


 途中で古い見張り台跡(あと)を見つけた。

 石を積み上げた低い壁に囲まれた、四畳ほどの空間だ。壁は胸の高さまであり、四方を見渡せる。見張り台として最適な構造。中には乾いた(まき)が束ねて置かれ、使える油壺(あぶらつぼ)が二つあった。壺の口に(ろう)が塗られ、密封されている。(ろう)は古いが割れていない。誰かが備蓄したまま、取りに来なかったのだろう。あるいは、次に来る人のために残したのかもしれない。


 あさひが(うなず)く。


 「(ささや)きは本物だったな。右へ降りて、ここに辿(たど)り着いた」


 久遠(くおん)はすぐ否定した。


 「本物と断定するな。今回は当たった、が正しい。次も当たる保証はない」


 記録者として、久遠(くおん)は事実と解釈を分ける。風が案内したことと、風を信じてよいことは別の話だ。結果が良かったからといって、原因が正しかったとは限らない。


 夜になると、遠くで追手の灯が揺れた。

 観測者(かんそくしゃ)の巡回班だ。砂丘(さきゅう)稜線(りょうせん)に沿って、等間隔の灯が動いている。三つか四つ。灯の間隔が均一なのは、訓練された集団の証だ。声は聞こえないが、灯の動きから規律正しい集団だと分かった。


 こよいは帳面の指示通り、灯を布で半分覆った。

 明かりを消さず、漏らしすぎない。完全に消せば闇の中で動けなくなる。漏らしすぎれば巡回に見つかる。半分だけが正解だ。布の端を調整し、光が下にだけ漏れるようにする。足元は見えるが、遠くからは見えない。

 巾着(きんちゃく)の中で、風の神の震えが(かす)かに(しず)まった。灯を抑えるこよいの判断を、承認するような静かな収まりだった。


 (ささや)きがまた来る。今度は短い。


 止まれ。

 息を浅く。


 三人は見張り台の影へ伏せた。石壁に背中をつけ、呼吸を抑える。砂の冷たさが腹に伝わる。夜の砂は急速に冷える。昼の熱を全部放出し、石のように冷たくなる。

 巡回の灯が尾根(おね)を横切った。灯は見張り台の真上を通り、こちらに気づかず過ぎていく。石壁の高さがちょうど体を隠す高さで、灯の角度からは見えない。灯が遠ざかるまでの時間が、ひどく長く感じた。呼吸を止めたまま数えた拍が、五十を超えていた。


 灯が消えた。遠ざかったのではなく、砂丘(さきゅう)の向こうへ降りたのだ。


 あさひが小声で言った。


 「助かったな」


 こよいは首を振る。


 「助かった。でも、(ささや)き任せにはしない。今回は当たった。次は自分の判断で動く」


 翌朝、風向きが変わった。

 (ささや)きは聞こえなくなった。昨夜の風とは別の風が、乾いた砂の上を渡っていく。声のない風。ただの空気の流れだ。


 代わりに、足元の石段が北東へ続いているのが見えた。朝の光が斜めに差し込み、石段の影が一段ずつ浮かび上がっている。

 地形が答えを渡してきたのだ。風がなくても、石と砂が道を教えてくれる。風は一つの手がかりに過ぎない。複数の手がかりを重ねて、初めて道になる。


 久遠(くおん)目録(もくろく)へ記す。


 『(ささや)き:補助情報として有効。単独採用禁止。地形情報と照合のこと』


 こよいは見張り台の柱に短く刻んだ。


 『半分信じる』


 風は気まぐれだ。でも、もう恐れるだけの相手ではない。恐れも信頼もせず、半分だけ受け取る。それが砂の道での、風との付き合い方だった。


 原初(げんしょ)術式(じゅつしき)の最後の条件だけが、まだ風の向こうにある。

 三人は石段を下り、次の区画へ向かった。


 おたまは尾を立て、次の一歩を静かに待っていた。

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