第19話:光の差す場所へ
雨はしばらく降り続いていた。
温室のガラスを叩く雨音は、まるで二人の鼓動を重ねるように規則的で、優しかった。
ぽつ、ぽつ、と始まった雨は、やがてしとしとと静かに降り続き、温室全体を柔らかい音で包み込んでいた。
その音は、不思議と心を落ち着かせ、胸の奥に溜まっていた不安を少しずつ溶かしていくようだった。
ひよりは私の手を握ったまま、しばらく黙っていた。
その沈黙は、気まずさではなく、言葉にできない想いが満ちている証のようだった。
ひよりの手の温度が、じんわりと私の手に伝わり、二人の間に静かなぬくもりが広がっていく。
温室の中は薄暗く、雨粒がガラスを伝うたびに光が揺れ、まるで水の中にいるような静けさがあった。
植物たちの葉が雨音に合わせて微かに揺れ、その影が床に柔らかく映っている。
その景色の中で、ひよりの横顔だけがはっきりと見えて、胸がきゅっと締めつけられた。
「真白」
ひよりが小さく呼ぶ。
その声は、雨音に溶けてしまいそうなほど静かだった。
でも、確かに私の胸の奥に届いた。
「私ね、陸上をやめるのが怖かったんじゃない。“走れない自分”を真白に見られるのが怖かったんだと思う」
「…」
胸が痛んだ。
ひよりが抱えていた本当の恐怖が、ようやく言葉になって現れた瞬間だった。
ひよりはずっと強くあろうとしていた。
弱いところを見せたくなくて、必死に笑っていた。
その姿を思い出すと、胸が締めつけられる。
「ひより……そんなの……」
言いかけた言葉は、ひよりの静かな声に遮られた。
「わかってる。真白はそんなことで私を嫌いにならないって。でも、怖かったんだよ。ずっと走ってきた自分が壊れるのが」
ひよりは自分の胸に手を当てた。
その指先は少し震えていて、ひよりの心の揺れがそのまま伝わってくるようだった。
「でもね、真白がいてくれたから……壊れてもいいって思えた。壊れたら、また一緒に作り直せばいいって」
その言葉に、涙がこぼれた。
ひよりがこんなにも私を信じてくれていることが、胸の奥に温かく広がっていく。
ひよりの未来に、私が必要だと言ってくれることが、嬉しくて、苦しくて、涙が止まらなかった。
「ひより……私も、ひよりがいないとダメだよ。ひよりが笑ってくれるだけで、私……すごく嬉しいんだよ」
声が震えてしまう。
ひよりはそっと私の涙を拭った。
その指先は優しくて、温かくて、触れられただけで胸が熱くなる。
「真白。これからも、私の隣にいてくれる?」
「……うん。ずっと」
その言葉を口にした瞬間、ひよりは微笑んだ。
その笑顔は、雨の中に差し込む光のように柔らかくて、優しかった。
ひよりは私の額にそっと触れた。
その仕草は、言葉よりも深く、優しく胸に響いた。
ひよりの指先が触れた場所がじんわりと温かくなり、胸の奥までその温度が広がっていく。
雨音が少し弱まり、温室の中に柔らかな光が差し込む。
ガラス越しの空はまだ灰色だけれど、その向こうに確かに光があることがわかった。
「雨、上がるかな」
「うん。きっと」
ひよりは立ち上がり、ガラス越しに空を見上げた。
その横顔は、もう迷っていなかった。
昨日までの不安も、恐怖も、涙も――全部乗り越えた人の顔だった。
雨の庭で、ひよりは光の差す方へ歩き出そうとしていた。
その隣に、私は必ずいる。




