恋心は綺麗さっぱり消え去りました
パチン。
頭の中で、何かが弾ける音がした。
目の前のジェームズが、知らない人のように見える。
あんなに好きだったのに。すべてを投げ出してもいいとまで思っていたはずなのに――
今では、すべてがどうでもよかった。
***
私はクレア。ここ、ウィンザー町の騎士団で働いている。
といっても騎士ではなく、事務仕事や雑用を任されている。
騎士団の半数以上は男性で、体を動かすことが好きな人ばかり。
書類整理やスケジュール調整、物資の確認といった細かな作業は苦手な者が多い。
だからこそ、彼らを支える事務員の存在が必要とされている。
騎士団で働けるだけに、事務員は人気のある職だ。
けれど、文字の読み書きができて、細かな業務をこなせる人は意外と少ない。
毎年試験さえ受かれば事務員になれるのに、その試験を受ける人自体がほとんどいない。
そのせいで、ここ数年ずっと欠員のままだった。
自慢ではないが、私はそこそこ頭が良かった。
その代わり、他の子たちのように愛想よく人と話すのは苦手だ。
淡々と書類を整理したり数字を扱ったりする方が、ずっと性に合っている。
だから必死に勉強して、騎士団に入ることを目標にしていた。
ジェームズと出会ったのは、ちょうどそんな時だった。
毎日、朝から晩まで勉強漬けの日々。気分転換をしようと外へ出た。
町の中央には大きな川が流れていて、その川沿いには散歩道が整備されている。
ここはちょっとした息抜きにぴったりの場所だ。
川の流れを眺めながら歩いていると、手すりに腰掛け、熱心に絵を描く男性の姿があった。
芸術に疎い私ですら、ひと目で素晴らしいと分かるほどの絵だった。
それから私は、毎日のように散歩へ出かけ、彼の姿を探すようになった。
最初は声をかけるのが恥ずかしくて、ただ後ろを通り過ぎるだけ。
けれど、何日か経つと彼の方が私に気づき、声をかけてくれた。
そこから少しずつ言葉を交わし合い、やがて日が暮れるまで語り合うようになった。
楽しかった。
人と話すのが苦手な私でも、彼は優しく耳を傾け、言葉が出るのを待ってくれた。
だから、恋人同士になるまでにそう時間はかからなかった。
彼は画家で、自分の絵を世に広めたいと語っていた。
一般的な画家は、貴族や裕福な商人から依頼を受けて絵を描くことが多い。
そのためには知名度が不可欠で、年に二度開かれるコンテストで優勝するのが一番の近道だった。
「いつか絶対、すごい画家になるんだ!あの巨匠フェルールを超えるような……!僕の絵を、みんなに見てほしい!」
「ええ……!あなたなら、絶対できるわ!」
「うん……。コンテストで優勝できたら、その時は……。クレア、君に伝えたいことがある。だから、待っていてくれないか?」
「ええ、もちろん。一緒に頑張りましょう!」
それは淡い約束だった。すぐに訪れる未来だと信じていた。
互いに成功して、この人と家庭を築く。疑うことなく、そう思っていた。
この頃の私は、まだ現実を知らなかったのだ。
翌年、私は無事に騎士団の試験に合格した。
だが、その翌月のコンテストで、ジェームズは惜しくも準優勝に終わった。
ジェームズは落ち込んではいたものの、次こそはと強い意気込みを見せていた。
しかも、優勝は逃したとはいえ、何人かの貴族の目に留まり、単発ながら絵の依頼も受けられたのだ。
その勢いのまま、次のコンテストに挑んだ。
しかし、またも優勝には届かなかった。
さらにその後も挑戦を続けたものの、順位は少しずつ下がっていき、ジェームズは深く落ち込んでいった。
新聞配達の仕事にも身が入らず、意気消沈する彼を見ているのはつらかった。
仕事を辞めて絵に集中した方がいいのではないか――最初にそう提案したのは私だった。
幸い、細々とではあるが絵の依頼もあったし、これまでの蓄えもある。
しばらくなら何とかやっていけると思えた。
やがて節約のために、ジェームズは家を引き払い、私の家で暮らすことになった。
環境が変わったことで、彼のやる気も回復したように見えた。
一日の始まりと終わりをジェームズと共に過ごせることに、私自身も幸せを感じていた。
二人で力を合わせ、次のコンテストを目指して頑張っていた。
――しかし、その矢先。
ジェームズはまったく絵が描けなくなってしまった。
いわゆるスランプだ。
筆を取っても思うように進まず、完成する前にキャンバスを破り捨てる日々が続いた。
いつかまた描けるようになる――そう信じて、私はジェームズを支え続けた。
我ながら献身的だったと思う。
放っておけば食事も忘れる彼のために、朝食と昼食を用意して仕事に出かけ、帰宅してからは夕食を作った。
もともと彼は家のことに無頓着で、料理はできず、食べた食器は机の上に放置。
掃除も洗濯も、家のことは一切してくれなかった。
それでも、一日中絵と向き合い、苦しんでいる彼を責める気にはなれなかった。
むしろ自分が支えれば、いつか必ず優勝させてあげられると思っていた。
その時までは。
数ヶ月前、近くの森で魔物が出現し、騎士団の業務が急に忙しくなった。
この町への出兵要請こそなかったものの、警備体制の強化や中央への報告など、細々とした作業は山積みだった。
事務員である私もその対応に追われ、夜遅くに帰る日が増えていった。
それでもジェームズが心配で、できるだけ早く帰ろうと努力していた。
だが、帰りが遅い私を、ジェームズは疑いの目で見た。
「どうしてこんなに帰りが遅いんだ?まさか別の男でもできたのか?……そうだよな、こんな碌な絵も描けない僕より、他の男の方がいいだろう」
「そんなことないわ!本当に仕事が忙しいのよ!」
「別れた方がいいんじゃないかな、僕たち。こんな穀潰し、君の負担にしかならない……」
「ジェームズ、落ち着いて。私はあなたの才能を信じてるの。だから大丈夫。スランプなんてすぐ吹き飛ばせるわ。……ほら、あなたの好きなパンを買ってきたの。一緒に食べましょう?」
「……ああ」
ジェームズは、ずっと絵を描けない苦しみと戦い、神経をすり減らしていた。
今は仕方ない。いつか必ず良くなる。
そう信じていた。いや、信じようとしていたのだ。
こんな彼を一人にするのは嫌だった。
自分が耐えれば、いつかきっと――そう思っていた。
***
今日も急な業務で帰りが遅くなってしまった。
またジェームズに怒られるかもしれない。そう思うと不安で、足取りは自然と速くなる。
ここ数日は激務続きで、体はもうクタクタだ。
家に着いたら、すぐにでもベッドに倒れ込みたい。
ようやく辿り着いた家の中。
そこではジェームズがランプもつけず、薄暗がりの中で描きかけの絵をじっと見つめていた。
「どうしたの?こんな真っ暗で……。遅くなってごめんなさい」
「クレア、帰ってきたんだね」
「ええ。大丈夫?体調でも悪いの?」
「いや。……ねえクレア、お腹が空いたよ。ご飯は?」
そう言うジェームズは、まるで子供のような目でこちらを見つめていた。
その姿を見た瞬間、パチンと頭の中で何かが弾けた。
目の前のジェームズが、まるで他人のように見える。
あんなに好きだったのに。すべてを投げ出してもいいと思っていたのに……。
今では、すべてがどうでもよかった。
自分でも不思議だった。
こんな言葉を彼にかけられるのは、これが初めてではないのに。
ただ、本当に疲れていたのだと思う。
仕事と家事に追われ、さらにジェームズの精神状態に気を遣う毎日。
それでも、いくら疲れても彼に弱音を吐くことはできなかった。
一度だけ、仕事の愚痴をこぼしたことがある。
そのとき彼はこう言ったのだ。
「君は仕事があるからいいじゃないか!僕よりよっぽどマシさ!それとも、それは僕への当てつけなのか!?」
ちょっとした愚痴すら、絵が描けずコンテストでも結果を出せない彼には嫌味に聞こえるらしい。
そう言われてしまえば、もう何も言えなくなった。
どれほど仕事が大変でも、しんどくても。
私は何も言わず、ただ彼の心に寄り添い続けてきた。
でも、正直もう限界だった。
何度もコンテストで優勝を逃し、次第に卑屈になっていく彼を慰めるのは、私の神経をすり減らしていった。
そこに仕事の疲れも重なり、ついに許容量を超えてしまったのだと思う。
冷めた目を向ける私を見て、さすがに異変を感じたのか――ジェームズが声をかけてきた。
「どうしたんだい……。さすがのクレアも呆れたかな?やっぱり、こんな僕は嫌かい?……別れようか?」
いつもなら――
「そんなこと言わないで」「あなたが好きなの」「お願い、別れないで」「あなたならできるわ」
そんな言葉を必死に投げかけていたはずだ。
けれど今日は、そんな気持ちは一ミリも湧かなかった。
むしろ、気持ち悪いとさえ思った。
そもそも、なぜ私が別れたくないと縋りつかなければならないのだ。
仕事をしてお金を稼いでいるのは私。
家事をして、ご飯を作っているのも私。
縋りつくべきは、私ではなく、彼の方ではないか。
「そうね……別れましょう」
「え……!?い、今なんて言ったんだい?」
「だから、別れましょうって言ったの。ごめんね、ジェームズ。もう限界だわ」
「ぼ、僕を捨てるのか!?今ここで僕を捨てたら、一文なしだ……。どこかで野垂れ死んでもいいのかい!?」
同情を引こうとするその姿に、胸の奥から吐き気がこみ上げた。
私は彼に背を向け、リビングの棚の一番下を開ける。
そこには、これまでジェームズが絵で稼いだ金と、一か月分の生活費がしまってあった。
私はそれを取り出し、無言でジェームズに差し出した。
「これだけあれば、しばらくは大丈夫でしょ。あとは自分で何とかして。この家も引き払うから、一週間以内に出て行ってちょうだい」
「ほ、本当にどうしたんだい?お、怒ったのか?悪かったよ……。でも仕方ないだろう?僕だって描きたいのに、描けないんだから……」
「そうね……分かってるわ。でも、もうずっと描いてないじゃない」
「か、描けないんだから仕方ないだろう!?あと少し、あと少しなんだよ!だから……」
「そう言って、もう一年近く経ったわ。……次のコンテストにも、応募していないんでしょう?」
「そ、それは……」
「私は、いつまで待てばいいの?もう十分待ったわ。これ以上、あなたのために生きられないの」
「クレア、そんなこと言わないでくれ!僕のこと、好きだろう?」
「ええ。……好きだったわ。でも今は、何も思わない。もう、一緒にいたくないの。……最後まで支えられなくてごめんなさい。さようなら」
「クレア!待て、待ってくれよ!!」
後ろで喚くジェームズを振り切り、私は夜道を駆け出した。
街の中央にある広場で立ち止まり、後ろを振り返った。
けれど、ジェームズの姿はどこにもなかった。
やっぱり、追いかけてくるような男でもなかった。
最後に残っていた未練のようなものも、ぷつりと切れた気がした。
清々したはずなのに、胸は締めつけられ、涙が止まらなかった。
これは、なんの涙なのだろう。
これまでジェームズの前で堪えてきたものが、一気にあふれ出すようで――
その苦しさを吐き出すように、私は声をあげて泣いた。
***
こんなにも泣いたのは、いったいいつぶりだろう。
彼を不安にさせまいと、自分がしっかりしなければと張り詰めていた心の糸を、ようやく緩められた気がした。
散々泣き尽くして、少しだけ気持ちが軽くなった。
最初の彼は、あんな人ではなかったはずだ。
失敗を重ねるうちに、いつの間にか変わってしまった。
その姿を生んでしまったのは自分のせいかもしれない。
そう思えばこそ、「優勝すれば、きっと元の彼に戻ってくれる」と信じて、支え続けてきた。
けれど今は――不思議なくらい、その気持ちは微塵も残っていない。
まるで生まれ変わったように、今朝までの自分と今の自分が別人のように思えるほどだった。
さて、これからどうしようか。
家には帰れない――いや、帰りたくもない。
確か騎士団には宿直用の寝泊まり場所があったはずだ。
とりあえず今夜はそこを借りよう。
そう決めて立ち上がったとき、目の前から恰幅の良い男性が歩いてきた。
こんな夜中に近づいてくるなんて、怪しい人かもしれない。
思わず逃げ出そうとしたその瞬間、その男性が私の名前を呼んだ。
「クレア?クレアじゃないか!」
「え……!」
驚いて顔を上げると、見慣れた騎士団の制服が目に入った。
そしてその顔は、さっきまで一緒に仕事をしていた、団長だった。
「だ、団長!?どうしたんですか?」
「どうしたはこっちのセリフだ。広場で泣いている女性がいると通報があってね。……クレア、何かあったのか?」
あれだけ大声で泣き喚いたのだ、不審に思われても仕方ない。
だがまさか上司にその姿を見られるなんて……恥ずかしさで顔が熱くなった。
「な、何でもありません。大丈夫です。すみません、ご迷惑をおかけしました」
「何もないなんてことはないだろう。若い女性が、こんな夜遅くに出歩くのも感心しないな」
「はい……。すみません……」
正論すぎて、返す言葉もない。
でも、彼氏と別れて家を飛び出してきました、なんて言えるわけがなかった。
私が何も話そうとしないので、団長も諦めたのか、ふうっと深く息を吐いた。
「とりあえず家まで送るよ。この近くだったね?」
「いえ、あの……家には帰りません。今日は、騎士団に泊まろうかと思って……」
「騎士団に?まあ、寝泊まりできる場所はあるが……」
「一晩だけでいいんです。どうか貸していただけませんか?」
「……分かった。夜は冷える、ひとまず行こうか」
そう言うと、団長はそっと上着を脱ぎ、私の肩にかけた。
「だ、団長!?これは……?」
「寒くないか?これがあるだけでも、少しは楽だろう」
「で、でも……!」
「いいから使ってくれ。これは譲れない」
真剣な目でそう言われたら、もう断れなかった。
夜風は冷たく、正直ありがたかったので、大人しくお借りすることにした。
「……ありがとうございます」
「よし。じゃあ行こうか」
少し前を歩く団長の背中を追いながら、私は騎士団へと向かった。
団長に会えたのは、きっと幸運だったのだろう。
これから新たな人生を歩み出す私にとって、それは何よりの祝福だった。
私は、自分だけの道を歩いていく。
そう信じて、静かに一歩を踏み出した。