第9話 人間王国との対立
「人間の軍勢が国境を越えた」
その言葉が、バルコニーでの甘い空気を一瞬で凍らせた。
「エマが...」カイルバーンの表情が険しくなる。「約束を破ったか」
「すぐに議会室へ」彼は私の手を強く握った。「リン、君はここにいて。衛兵を配置させる」
「でも...」
「お願いだ」彼の目には強い決意があった。「君を守る」
彼とヴェインが急ぎ足で出ていく姿を見送り、私は部屋に一人残された。窓の外では、炎翼城の空を竜たちが飛び交い、警戒態勢を敷いているのが見えた。
不安と罪悪感が私を襲う。私のせいで戦争が始まるのか。誰かがまた傷つくのか。
「こんなはずじゃなかった...」
私は部屋の中を落ち着かなく歩き回った。死にたかった私が生かされたのは、何かの意味があるはずだ。でも、争いの火種になるためではない。
突然、決意が湧いた。戦いを止めなければ。神の歌姫の力があるなら、それを使うべき時だ。
私は扉を開け、廊下に出た。確かに衛兵が二人、私の部屋の前に立っていた。
「リン様、部屋にお戻りください」衛兵が言った。「カイルバーン様の命令です」
「すみません」私は頭を下げた。「でも、私には行くべき場所があります」
衛兵たちが困惑した表情を交わす中、私は真剣な眼差しで言った。
「私は神の歌姫です。そして戦いを止めるため、行かなければならないのです」
***
城の緊張は最高潮に達していた。議会室から聞こえる怒号、廊下を走る兵士たち。誰も私に気づかないよう、城の裏口へと向かった。
侍女から借りた外套を羽織り、顔を隠す。頭の中には「歌う谷」での映像が浮かんでいた。両種族が手を取り合う未来。それを実現するのは私の使命なのかもしれない。
城の外に出ると、北の空が赤く染まっていた。国境での戦闘の証だろう。迷わず、その方向へ向かう。
「リン様!」
背後から声がした。振り返ると、ヴェインが駆けてきた。
「どこへ行くつもりですか?危険です!」
「戦いを止めに行くの」
「でも、それは...」彼は混乱している。「カイルバーン様が怒ります」
「だから言わないで」私は彼の手を取った。「でも、一人じゃ行けないわ。手伝ってくれる?」
ヴェインは葛藤した表情で、しばらく黙っていた。
「わかりました」彼は決意を固めたように言った。「竜を呼びます。でも、危なくなったらすぐ戻りますよ?」
ヴェインの助けで、若い竜に乗って空へ舞い上がる。都とは違う緊張感が空気を満たしていた。
国境の戦場に近づくと、その光景に息を飲んだ。無数の松明が地上で揺れ、人間軍と竜族の兵が対峙している。既に小競り合いが始まっているようだった。
「あれは...」ヴェインが指さした。
前線には銀の鎧をまとったエマの姿。そして竜族側の指揮官はリューンだった。二つの軍勢の間で、緊張が頂点に達している。
「降りて」私は決意を固めた。
「危険です!」
「大丈夫」私の声には自信があった。「歌う谷で見た未来を信じる」
竜は両軍の中間地点へと降下した。地上に降り立つと、一瞬、戦場が静まり返った。
人間側からエマが、竜族側からリューンが同時に叫んだ。
「歌姫様!」
「何をしている!」
私は深呼吸をして、両方の軍勢に向かって声を上げた。
「戦わないで!私は誰にも捕らわれていません。自分の意思でここにいるのです」
エマが前に進み出た。
「歌姫様、彼らはあなたを騙しています。本当の力を知らないまま、利用されているだけです」
「違います!」私は強く言い返した。「私はカイルバーンを信じています。彼は平和を望んでいる」
リューンが冷笑した。
「人間どもに、信用など置けぬ。奴らは何度も裏切ってきた」
緊張が再び高まり、両軍がじりじりと動き始めた。このままでは戦いになる。
その時、私は決意した。歌う。全ての力を込めて。
「神秘の調べ」。祖父が最後に教えてくれた、最も難しい演歌。日本では一度も人前で歌ったことのない曲だ。
私の声が夜空に響き渡ると、体から放たれる青い光が戦場全体を包み込み始めた。今までと違う、より強い光。両軍の兵士たちが驚いて立ち止まる。
竜族兵士の体からも微かな光が発し、人間兵士たちの武器も青く輝き始めた。まるで光が互いを認め合うかのように。
歌の最中、不思議な感覚に襲われた。自分の声が体の外から聞こえ、別の声と重なっているような。まるで誰かが私と一緒に歌っているかのよう。
その時、頭上に大きな影が現れた。カイルバーンの竜の姿だった。
歌い終えると、戦場は完全な静寂に包まれていた。敵対していた兵士たちが、混乱した表情で互いを見つめ合っている。
カイルバーンが着地し、人の姿に戻ると、すぐに私の元へ駆け寄った。
「無謀な...」彼の声は怒りと安堵が入り混じっていた。「何かあったら...」
私は彼の目をまっすぐ見た。
「何もせずにいられなかった。私の力で、戦いを止められるかもしれないと思ったから」
彼の表情が和らぎ、静かに頷いた。
エマが私たちに近づいてきた。彼女の目には驚きと複雑な感情が宿っていた。
「あの光...」彼女は小さく呟いた。「まさに預言通り」
「エマ団長」私は彼女に向き合った。「どうか戦いを止めてください。私は自分の意思でここにいます。誰にも強制されていません」
「本当にそれが...あなたの意思ですか?」彼女は疑わしげに尋ねた。
「はい」
エマは深く考え込んだ後、決断したように言った。
「三日間の休戦を提案します。その間に、アルフォンス教皇様と直接お会いください。あなたの力の本当の目的を知るために」
リューンが反対しようとしたが、カイルバーンが一歩前に出た。
「受け入れよう。休戦と、リンの意思を尊重することを条件に」
リューンは不満そうだったが、結局同意した。
「三日後、中立地帯で会おう」エマは言い、人間軍を引き上げる命令を出した。
***
城への帰路、カイルバーンの竜の背に乗りながら、私は彼の怒りを感じていた。
「すまなかった」私は小さく言った。「でも、何もせずにはいられなかった」
「わかっている」彼の声は意外なほど優しかった。「あなたは正しいことをした。僕が守れなかった...それが悔しい」
炎翼城に着くと、リューンはすぐに議会を招集した。カイルバーンは私を自分の側に立たせ、守るように背後に立った。
議会では多くの貴族や長老たちが集まり、騒然としていた。
「無謀な行動だ!」
「人間に利用されるだけだ!」
「歌姫を会わせるべきではない!」
リューンが静寂を要求し、状況を説明した。
「休戦は認めたが、歌姫を人間側に渡すつもりはない」彼は冷たく言った。
「渡すのではなく、リン自身が選ぶべきだ」カイルバーンが反論した。
議論が紛糾する中、私は前に進み出た。
「私は自分で決めます」私の声は意外なほど落ち着いていた。「アルフォンス教皇に会い、人間側の言い分も聞きます。でも、必ず戻ってきます」
リューンは疑わしげだったが、カイルバーンは私を信頼するように頷いた。
「僕が同行する」彼は宣言した。「リンの安全は私が保証する」
議会が終わった後、カイルバーンは私を部屋まで送った。
「怖くなかった?」彼は静かに尋ねた。
「怖かった」私は正直に答えた。「でも、あの歌の最中...不思議な力を感じたの。まるで誰かが私を導いているような」
「セレナが言っていた『二つの魂』のことかもしれない」彼は真剣な表情で言った。「いずれにせよ、あなたの力は確かだ。今夜、両軍を止めたのだから」
部屋の前で、彼は私の頬に優しく触れた。
「もう一度言わせてほしい。愛は種族を超える」彼の金色の瞳が真剣さに満ちていた。「そして僕は...あなたを守るために何でもする」
その言葉に、胸が熱くなった。死にたかった私が、今は生きたいと強く願っている。カイルバーンのために。この世界のために。
「カイルバーン...」
彼は微笑み、去り際にこう言った。
「おやすみ、リン。明日の夜明けも、一緒に見よう」
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