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第8話 歌う谷の秘密

「歌う谷」


その名前は神秘的な響きを持っていた。翌朝、私はカイルバーンとセレナ、そしてどうしても付いてくると言い張ったヴェインと共に、城を出た。


私たちは竜の背に乗って空を飛んだ。カイルバーンの竜の姿に乗る私、セレナは小柄な紫の竜に、ヴェインは緑色の若い竜に乗っていた。


「ヴェインは自分で変身できないの?」私はカイルバーンの耳元で尋ねた。


「完全な変身は純血竜族だけができる」彼は飛びながら返した。「半竜人の彼には限界がある」


空からの景色は圧巻だった。東に向かって飛ぶにつれ、荒れた大地から豊かな緑の山々へと風景が変わっていく。峻厳な山々の間に、一際美しい渓谷が見えてきた。


「あれが歌う谷です」セレナが指さした。


降り立ったのは、深い渓谷の入り口だった。谷間を風が吹き抜け、奇妙な音楽のような響きを生み出している。まるで誰かが歌っているような、自然とは思えない美しい旋律。


「なぜ歌う谷と呼ばれているのか、わかるでしょう」セレナは微笑んだ。「風が岩の隙間を通り抜けて、このような音を奏でるのです」


「美しい...」私は思わず呟いた。


谷の中へと進むと、不思議なことに音は大きくなるのではなく、むしろ静かになっていった。谷の奥には小さな祠があり、その前には透き通った池が広がっていた。


セレナが祠の前に立ち、手を広げた。


「ここは竜族の聖地。千年以上前から、歌姫の力が最も発揮される場所だと言われています」


祠の中には、石で作られた竜と人間の像が向かい合って立っていた。その間に、ハープのような楽器が置かれている。


「これは何の像なの?」私は尋ねた。


「竜神サリオンと女神エレナリア」セレナは静かに答えた。「彼らは共にこの世界を創造したと言われています」


カイルバーンが補足した。


「だが、ある事件をきっかけに竜族と人間は分かれ、千年近く対立してきた」


池の水面が風もないのに揺れた。覗き込むと、自分の顔が映っているはずが、別の女性の顔のように見えた気がした。銀髪の、威厳のある美しい女性。瞬きすると消えていた。


「リン様」セレナが私の肩に手を置いた。「ここで歌ってみてください。歌う谷での歌は、あなたの力の本質を映し出すでしょう」


緊張しながらも、私は池の前に立った。歌う曲は特に指定されていない。心の赴くままに歌うべきなのだろう。


閉じた目の裏に、日本での最後の舞台が浮かんだ。誰にも聴かれることなく消えゆく歌。そんな私が、ここでは特別な存在として扱われている皮肉。


私は「望郷歌」を歌い始めた。故郷を遠く離れた者の、帰れない悲しみと新しい地での希望を描いた歌。


歌い始めると、すぐに体から青白い光が溢れ出した。今回は手や体だけでなく、声そのものが光を帯びているようだった。その光が池の水面に触れると、水面が鏡のように輝き始めた。


不思議なことに、谷の自然の音楽が私の歌に合わせるように和音を奏で始めた。まるでこの谷全体が共鳴しているよう。


歌い終えると、池の水面に映像が浮かび上がった。雲のような映像の中に、様々な風景が流れていく。竜と人間が共存する平和な世界。次に戦争の場面。そして最後に、光に包まれた一人の女性の姿。顔は見えないが、彼女の周りには竜と人間が集まり、手を取り合っている。


映像が消えると、セレナが静かに言った。


「見えましたか?あなたの歌が示す未来を」


「あれは...未来?」私は混乱していた。「でも、どうして私の歌がそんな力を...」


「ここは時間と空間が交差する特別な場所」セレナは説明した。「あなたの歌は、可能性の糸を紡ぐのです」


カイルバーンが驚いた表情で私を見つめていた。


「信じられない...それは平和の幻影だ。両種族が共存する姿」


「カイルバーン様」ヴェインが興奮した様子で言った。「これが預言の意味なんですね!リン様が両国を結びつける存在なんだ!」


私は圧倒されていた。それが本当だとして、私にそんな大役が務まるのだろうか。死にたかった無価値な私が、世界の運命を変えるなんて。


「でも、私には...」


「恐れることはありません」セレナは優しく言った。「あなたは一人ではない。この運命を共に歩む者たちがいます」


彼女は池に映る私の姿を指さした。私の目は、いつの間にか銀色の筋が混じっていた。


「あなたの体も、この世界に順応しているようですね」


「どういうこと...?」


セレナは答えなかったが、カイルバーンが私の側に来て、そっと手を取った。


「どんな変化があっても、あなたはあなたのままだ」彼の金色の瞳に温かさが宿っていた。「僕はそのままのあなたを...」


彼は言葉を切ったが、その目に浮かんだ感情は明らかだった。私の胸が高鳴る。


そのとき、突然谷の入り口から警報のような音が響いた。


「何事だ?」カイルバーンが身構えた。


ヴェインが谷の入り口へ走っていき、すぐに戻ってきた。


「リューン王子の使いです!城に戻るよう言っています。大王様の容態が急変したとのことです!」


セレナの表情が曇った。


「また悪化したのね...」


「戻らなければ」カイルバーンは私の方を見た。「リン、一緒に」


池を後にする時、私は一度だけ振り返った。水面に最後に映ったのは、あの銀髪の女性の姿だった。彼女は悲しげに微笑んでいた。それは私の幻だったのか、それとも...


***


炎翼城に戻ると、緊張した雰囲気が漂っていた。大王の寝室の前には多くの竜族が集まり、医術師や側近が忙しく出入りしている。


リューンが私たちを見つけると、すぐに近づいてきた。


「どこに行っていた」彼の声には怒りが含まれていた。「父上の容態が急変した。あなたの歌が必要だ」


私は驚いた。リューンがこれほど直接的に私の力を求めるなんて。


「すぐに行きます」


大王の寝室に入ると、彼は以前よりもさらに衰弱していた。肌は灰色から青みがかり、呼吸は浅く、時折苦しげに唸っていた。


「彼の中に闇が広がっている」セレナが低い声で言った。「単なる病ではありません」


「闇...?」


リューンが苛立たしげに言った。


「治せるのか治せないのか、それだけだ」


プレッシャーを感じながらも、私は大王のベッドサイドに近づいた。何を歌えばいいのだろう。前回は「故郷の空」だったが、今回はもっと強い力が必要なようだ。


私は深く息を吸い、「命の繋がり」を歌うことにした。祖父が教えてくれた、生と死の境にある者への鎮魂歌。


歌声が部屋に満ちると、青白い光が私から溢れ出し、大王の体を包み込んだ。しかし、今回は違和感があった。光が彼の体に吸い込まれるとすぐに、黒い靄のようなものが浮かび上がってくる。光と闇が争うように見えた。


私は必死に歌い続けた。歌に全身全霊を込める。自分の中の何かが引き出されていくような感覚があった。


歌い終えた時、大王の状態は少し安定したように見えた。黒い靄は後退し、彼の肌の色も少し戻っていた。しかし完全な回復ではなかった。


「一時的な効果しかないようだ」リューンが苦々しく言った。


「これは...通常の病ではない」セレナが大王を見つめながら言った。「より強力な儀式が必要かもしれません」


「どんな儀式だ?」カイルバーンが尋ねた。


セレナとリューンが視線を交わした。その眼差しに何か隠されたものを感じた。


「それは後で話し合おう」リューンは言い、私に向き直った。「取り急ぎ、歌姫には感謝する」


疲労が一気に押し寄せた。今回の歌は、以前よりもずっと体力を消耗したようだ。カイルバーンが私を支えてくれた。


「無理をしすぎた」彼は心配そうに言った。「休むべきだ」


部屋を出る時、リューンとセレナが小声で会話しているのが聞こえた。


「彼女の力では足りない。あの儀式が必要だ」

「まだ彼女は準備ができていません。もし失敗すれば...」

「他に選択肢はないだろう」


私たちが立ち去った後も、その言葉が頭から離れなかった。彼らは私に何をさせようとしているのだろう。


***


夜、私は部屋のバルコニーで星を見ていた。疲労感はまだ残っていたが、頭はさまざまな思いで一杯だった。歌う谷での映像、大王の病の正体、リューンとセレナの謎めいた会話。


ノックの音がして、振り返るとカイルバーンが立っていた。


「入っても?」


私は頷いた。彼はバルコニーに出て、隣に立った。


「調子はどう?」


「少し疲れているけど、大丈夫」私は空を見上げた。「星が美しいね」


「ああ」彼も見上げた。「特にあの星座、『歌姫の冠』が明るい」


私たちは沈黙の中、しばらく星を眺めていた。


「カイルバーン、あなたのお母さんの話を聞かせてもらえない?」私は思い切って尋ねた。「ヴェインが言ってたわ。あなたが半竜人に優しいのは理由があるって」


彼は少し黙った後、静かに語り始めた。


「母は人間の女性だった。父と出会い、恋に落ち、竜族になった。しかし、純血主義者たちからは常に蔑まれていた」彼の声に痛みが混じる。「彼女は強かった。だが...」


「でも、あなたは純血竜族よね?」


「体は純血だが、心は半分人間だと思っている」彼は微笑んだ。「母から人間の文化や歌、思いやりを教わった。それが僕を『異端』にした」


「それは恥ずべきことじゃない」私は彼の手に触れた。「それがあなたの強さよ」


彼の瞳が柔らかくなった。


「リン...あなたが来てから、この城が変わった気がする。長い間凍っていた何かが、溶け始めている」


「私はただ...自分のできることをしているだけ」


「いや、それ以上だ」彼は真剣に言った。「あなたは希望をもたらしている。僕にとっても」


彼の言葉に、胸が温かくなった。カイルバーンは少し躊躇った後、続けた。


「母が最後に言った言葉を覚えている。『愛は種族を超える』と」彼は私の目をまっすぐ見た。「今ならその意味がわかる気がする」


その瞬間、彼の表情に浮かんだ感情に、私の心臓が早鐘を打った。彼は少しずつ私に近づいてきていた。


この気持ちは何だろう。死にたかった私が、こんな風に誰かを大切に思うなんて。


「カイルバーン、私は...」


その時、突然激しいノックの音がして、ヴェインが慌てた様子で飛び込んできた。


「大変です!人間の軍勢が国境を越えました!」彼は息を切らしていた。「エマ・グレイスが率いています。彼らは...歌姫を救出すると宣言しています!」

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