第7話 人間王国からの使者
「神の歌姫を返せ」
その言葉が私の頭の中で反響した。「返せ」とはどういうことだろう。私は元から人間王国にいたわけではない。
「カイルバーン様がいらっしゃいました」衛兵が告げた。
扉が開き、カイルバーンが入ってきた。彼の表情は硬く、明らかに緊張していた。
「リン、人間の使者が来た。彼女はあなたに会いたがっている」
「私に?でも、どうして...」
「人間たちは、あなたが我々に捕らえられていると思っているようだ」彼は苦々しく言った。「警告するが、彼女は簡単な相手ではない」
「エマ・グレイスって人は、何者なの?」
「アルデミア王国の女騎士団長。冷酷な戦略家で、十五年前の戦争でも多くの竜族を倒した」カイルバーンの目に一瞬、痛みの色が浮かんだ。「彼女には個人的な恨みもある。家族を竜族に殺されたと信じているからだ」
ヴェインが唇を噛んだ。
「彼女は危険です。リン様を連れ去ろうとするかもしれません」
「大丈夫」カイルバーンは私を見た。「僕があなたを守る。でも、彼女に会うかどうかはあなたが決めることだ」
私は躊躇した。この状況に巻き込まれたくない気持ちもあった。でも、逃げるわけにもいかない。
「会います」私は決意を固めた。「でも、どう話せばいいの?」
「ありのままでいい」カイルバーンは言った。「あなたは捕虜ではない。自分の意思でここにいることを伝えるだけだ」
***
大広間は厳しい緊張感に包まれていた。窓際にはリューンと側近たち、入口付近には衛兵が何人も立ち並ぶ。
そして中央に、彼女がいた。
エマ・グレイスは想像していたよりも若く、三十代半ばといったところだろうか。黒髪を短く切り、銀の鎧を纏っていた。彼女の姿には威厳があり、背筋の伸びた立ち姿からは鍛え抜かれた戦士の気配が感じられた。
私は礼儀正しく一礼した。
「お初にお目にかかります。私は佐伯鈴と申します」
エマの表情は一瞬、動いた。まるで何かを思い出したような...それとも驚いたような表情。しかしすぐに元の冷静さを取り戻した。
「歌姫様」彼女は静かに言った。「無事で何よりです。あなたを救出しに参りました」
「救出...?」私は困惑した。「でも、私は誰かに捕らえられているわけでは...」
「罠にかかってはいけません」エマは声を低めた。「竜族は残虐な種族です。彼らはあなたの力を利用しようとしている」
カイルバーンが一歩前に出た。
「グレイス団長、いつもの偏見はやめてもらえんか。リンは自分の意思でここにいる」
エマはカイルバーンを冷ややかに見た。
「カイルバーン王子。あなたのような"異端"が歌姫を操っているとは」彼女の目に憎しみが宿った。「十五年前の約束を忘れたわけではないでしょう」
「忘れていない」カイルバーンの声は低く響いた。「だが、私は復讐の連鎖を断ち切りたいのだ」
二人の間に流れる火花に、私は息を飲んだ。明らかに何か過去があるようだ。
「歌姫様」エマは再び私に向き直った。「あなたは人間王国アルデミアの救世主です。古くからの預言にある『光をもたらす者』。どうか我々と共に来てください」
リューンが冷笑した。
「面白い。人間どもも神の歌姫の伝説を持っているとはな」
エマは無視して続けた。
「アルフォンス教皇様があなたをお待ちです。竜族の暴虐から世界を救うため、あなたの力が必要なのです」
「暴虐...?」私は困惑した。「でも、カイルバーンは私に親切にしてくれて...」
「騙されているのです」エマは熱心に言った。「彼らはあなたの力を戦争に利用しようとしている」
「それは違う」カイルバーンが反論した。「我々は平和を望んでいる。リンの力で、両国の対立を終わらせたいのだ」
エマはカイルバーンを睨みつけた。
「あなたが平和を望むなら、なぜ歌姫を返さない?」
「彼女は物ではない」カイルバーンは怒りを抑えた声で言った。「リンには自分で選ぶ権利がある」
二人の視線が私に向けられた。選択を迫られている。
「私は...」言葉を選びながら言った。「まだここにいたいです。カイルバーンを信じています」
エマの表情が曇った。
「歌姫様、考え直してください。彼らは—」
「お願いです」私は彼女の言葉を遮った。「私は強制されてここにいるわけではありません。もっとこの世界のことを知り、自分の力を理解したいんです」
彼女は深く溜息をついた。
「わかりました。しかし、これで終わりではありません」彼女はリューンに向き直った。「三日後、再び訪れます。それまでに歌姫様の意思が変わらないか確認させていただきます」
「好きにするがいい」リューンは冷たく返した。「だが、次は軍勢を連れてくれば、宣戦布告とみなす」
エマは静かに頭を下げ、去り際に私に最後の言葉を残した。
「どうか覚えておいてください。あなたは人間です。そして、あなたの真の場所は人間の国にあるのです」
彼女が退出した後、広間は再び静寂に包まれた。
リューンが私に近づいた。
「人間を選ばなかったことには驚いた」彼は眉を上げた。「だが、彼らは諦めないだろう。次は武力で奪いに来るかもしれん」
「そうはさせない」カイルバーンが断固として言った。
リューンは肩をすくめ、立ち去った。他の竜族たちも次第に広間を後にし、最終的に私とカイルバーン、そしてヴェインだけが残った。
「あなたは...このまま竜族の側にいたいと?」カイルバーンが静かに尋ねた。
「ええ」私は頷いた。「あなたを信じたいの」
彼の目に感謝の色が浮かんだ。
「私を信じてくれて嬉しい。だが、リンを巡る争いは始まったばかりだ」
「あの人...エマの言葉が気になるわ。彼女も歌姫の預言を知っているみたい」
「両国にはそれぞれの伝説がある」カイルバーンは説明した。「竜族は歌姫を調和の象徴と見るが、人間は征服の道具と見ている」
「私は...道具になんてなりたくない」
「ならない」彼は私の手を取った。「あなたはあなた自身であり続けるべきだ」
彼の温かな手に、心が落ち着いた。でも、エマの訪問で新たな不安も生まれた。二つの国の間で引き裂かれる存在。私はどちらの側につくべきなのか。
「ねえ、カイルバーン」私は思い切って尋ねた。「エマさんとあなたの間に何があったの?彼女は、あなたのことを『異端』と呼んで...」
カイルバーンの表情が暗くなった。
「それは...長い話だ」
ヴェインが急に前に出た。
「カイルバーン様は半竜人に優しい数少ない王族だったんです」彼は熱心に言った。「だから保守派から異端視されているんです」
「ヴェイン」カイルバーンが諭すように言った。「それだけではない」
彼は窓の外を見つめ、遠い目をした。
「十五年前、私はエマの村を救おうとした。だが...間に合わなかった」
その言葉に込められた痛みを感じ、私は何も聞き返せなかった。
「リン様、心配しないでください」ヴェインが私の肩に手を置いた。「私たちがついています。人間たちに連れ去られることはありません」
その時、セレナが静かに広間に入ってきた。
「歌姫様」彼女は微笑んだ。「明日、あなたをある場所へお連れしたいのですが」
「どこへ?」カイルバーンが尋ねた。
「歌う谷へ」セレナの目が神秘的に輝いた。「彼女が自分の力の本質を知るべき時が来たのです」
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