第3話 竜族の王子との出会い
「竜族の王子...?」
私の声が震えた。カイルバーンの言葉は現実離れしていたが、今日起きた全てを考えれば、それも不思議ではないのかもしれない。
「ドラグナリア世界では、人間の王国アルデミアと竜族の王国ドラゴニスが千年近く対立している」彼は静かに説明を始めた。「私はドラゴニスの第三王子だ」
上空を飛び去った黒竜の姿が脳裏に浮かぶ。あの巨大な生き物と同族だというのか。
「でも、あなたは人間の姿をしている」
「竜族は人の姿と竜の姿を切り替えられる」彼は首飾りを軽く指で触れながら言った。「この魔法の品も竜族の技術だ」
頬に浮かぶ鱗のような模様。黄金の瞳。今となっては、彼が人間ではないと信じるのは難しくなかった。
「では、なぜ裏切り者に?」
「私は平和主義者だ」カイルバーンの声は固く、確信に満ちていた。「人間との和平交渉を試みたことが、保守派の長老たちの怒りを買った」
彼は立ち上がり、周囲を警戒しながら続けた。
「今日も人間の代表と密会していたところを襲われた。なんとか逃げ出したが...」彼は自分の胸に触れ、「あなたの歌がなければ、命はなかった」
彼の瞳が真摯な感謝の色を帯びる。私は視線を逸らした。自分の歌が人を救ったなんて、信じられない。現実世界では誰の心にも届かなかったのに。
「でも、どうして私の歌が...」
「神の歌姫」カイルバーンの声が重々しく響く。「伝説によれば、世界が危機に瀕した時、特別な歌の力を持つ者が現れるという。その歌は傷を癒し、心を一つにし、やがて世界に平和をもたらすと...」
彼は私の顔をじっと見つめた。
「まさか本当に現れるとは思わなかった」
私は苦笑した。
「違うわ。私は単なる失敗した演歌歌手。神なんかじゃない」
「演歌...?」
「日本の伝統的な歌のスタイル。悲しみや情熱を歌うの」
カイルバーンは興味深そうに頷いた。
「どんな歌であれ、あなたの中には特別な力がある。今回だけの偶然ではない」
彼の確信に満ちた様子に、反論する気力が湧かなかった。しかし、神の歌姫なんて荒唐無稽な話だ。私のような価値のない人間が、神の使いだなんて...
ふと、不思議な感覚に襲われた。死のうとしていた自分が、異世界で竜族の王子に救い主扱いされている。あまりにも状況が非現実的で、笑いがこみ上げてきた。
「何がおかしい?」
「ごめん、ただ...」私は笑いを抑えながら言った。「私、死ぬつもりだったのに。なのにここにいて、竜の王子と話してて...」
カイルバーンの表情が曇った。
「死ぬつもりだった?」
「すべてを失ったから...仕事も、恋人も」私は空を見上げた。「この世界でも、結局何の役にも立たないと思う」
沈黙が流れた。カイルバーンは何も言わず、ただ私を見つめていた。
「時間がない」彼は突然立ち上がった。「この場所は安全ではない。私とともに炎翼城に来てほしい」
「炎翼城?」
「竜族の王宮だ」彼は私に手を差し伸べた。「あなたの力は、この戦争を終わらせるかもしれない」
私は躊躇した。見知らぬ異世界の王宮になど行きたくない。だが、この荒野に一人取り残されるよりはマシだろう。
カイルバーンの手を取ると、彼は安堵の表情を浮かべた。
「ちょっと待って」私は困惑して尋ねた。「どうやって行くの?歩いて?」
彼は意外そうな顔をした後、微笑んだ。
「もちろん、飛んでいく」
次の瞬間、彼の体が光に包まれ、変形し始めた。人の姿が消え、先ほど見た銀青色の竜の姿になっていく。私は驚きのあまり後ずさった。
完全に竜の姿になったカイルバーンは、私の前でかがみ、背中を向けた。頭を僅かに傾げて、私を促している。
「乗れということ...?」
竜は小さく頷いた。
いや、冗談でしょ。竜に乗って空を飛ぶだなんて...
ためらいながらも、私は彼の背に近づいた。鱗は思ったより温かく、滑らかだ。恐る恐る背中に乗り、首の付け根にある鱗の突起を掴んだ。
「これでいいの...?」
答える代わりに、カイルバーンは羽ばたきの準備を始めた。
「ちょっと、まっ—」
言葉が終わる前に、強烈な上昇感。地面が遠ざかっていく。体が浮く感覚に、思わず悲鳴を上げた。
高度が上がるにつれ、このドラグナリア世界の壮大な姿が目の前に広がった。遥か東には緑豊かな森と湖、その向こうには白い尖塔が立ち並ぶ都市。西には灰色の山脈と荒れた大地。二つの国の境界線がくっきりと見えた。
風が髪を激しく揺らす中、私はカイルバーンの背にしがみついた。死にたかったはずなのに、今は不思議と落ちるのが怖かった。
頭上に広がる雲海と、眼下の壮大な景色。現実味のない美しさに心を奪われていると、カイルバーンが大きく向きを変えた。
遠くに、山の頂に建つ巨大な城が見えてきた。塔の上には炎のような紅蓮の旗がはためいている。
「あれが炎翼城?」
私の声は風にかき消されたが、カイルバーンは聞こえたのか、頷くような動きをした。
近づくにつれ、城の周りを飛び交う竜の姿が見えた。小さな竜から、カイルバーンと同じくらいの大きさのものまで、様々だ。
カイルバーンが高らかに咆哮を上げた。警備の竜たちがこちらを向く。
心臓が激しく脈打つ。リューンという王子が竜族を率いて、カイルバーンを追っているのだ。この城に入れば、どうなるのだろう。
城の中央にある広大な円形広場へと、カイルバーンは降下していく。その周囲には既に何頭もの竜が集まり始めていた。私たちの到着を待ち構えているようだ。
「大丈夫なの...?」私は震える声で尋ねた。
竜の姿のカイルバーンからは返事がなかったが、彼の体からは確かな自信が伝わってきた。地上が近づくにつれ、集まった竜たちの姿が人間の形に変わっていく。豪華な衣装を身にまとった男女が、厳しい表情で私たちを見上げていた。
カイルバーンが広場に着地した瞬間、緊張した空気が満ちた。
私は震える足で竜の背から降り、その場に立ちすくんだ。何十もの鋭い視線が、私に向けられている。
カイルバーンが光に包まれ、人の姿に戻った。彼は毅然とした態度で前に進み出て、私を後ろに庇うように立った。
その時、群衆から一人の男が歩み出た。カイルバーンより少し年上に見える彼は、長い赤銅色の髪を背中で結び、威厳のある表情で私たちを見下ろしていた。彼の瞳は血のように赤く、鋭い敵意を隠していなかった。
「弟よ」彼の声は冷たく響いた。「裏切り者が、よくぞ戻ってきた。しかも、人間の女を連れて」