エピローグ「生きる理由」
**6ヶ月後**
「歌う谷」は季節の移り変わりと共に、以前とは違う表情を見せていた。冬の霜が溶け、春の息吹が谷全体に満ちている。かつては神秘的な力が渦巻くだけだった谷に、今は子供たちの笑い声が響いていた。
人間の子供と竜族の子供が一緒に遊ぶ姿。数ヶ月前までは想像もできなかった光景だ。
私は小高い丘の上から、その様子を穏やかな気持ちで見守っていた。銀色の髪が風に揺れる。カイルバーンが私の傍らに立ち、その手が優しく私の肩に触れた。
「まだ信じられないよ」彼は静かに言った。「これほど早く変わるとは」
「人々は変われるのよ」私は微笑んだ。「特に子供たちは」
千年の呪いが解かれてから、世界は急速に変化していた。もちろん、全てが一夜にして変わったわけではない。長年の敵対関係は簡単には消えない。しかし、一歩ずつ、確実に前進していた。
アルデミア王国とドラゴニス王国の間で和平交渉が始まったのは、呪いが解かれてから一週間後のことだった。アルフォンス教皇は権力を失い、代わりにエマが人間側の代表として交渉の席に着いた。
竜族側からはドラン大王自ら出席し、カイルバーンとリューンも同席した。そして私も「神の歌姫」として両国の架け橋となった。
「今日の会議はどうだった?」私はカイルバーンに尋ねた。
「順調だ」彼は微笑んだ。「国境の共同管理区域が拡大することになった。人間と竜族の共同集落も増える予定だ」
「素晴らしいわ」
私たちは丘を下り、谷の中央にある祠へと歩いた。かつて儀式が行われた場所だ。今では両種族の子供たちに歴史を教える学びの場になっていた。
セレナが子供たちを前に、古い伝説を語っている。彼女は私に気づくと微笑み、子供たちに私たちの方を指し示した。
「ほら、本物の神の歌姫とドラゴニスの王子様だよ」
子供たちが歓声を上げ、私たちの周りに集まってきた。人間の子も竜族の子も、区別なく。
「歌って!歌って!」
「竜の姿を見せて!」
私とカイルバーンは笑いながら、彼らの願いに応えた。カイルバーンが一部だけ竜化して翼を見せると、子供たちは目を輝かせた。私が短い歌を歌うと、空気が淡く光り、子供たちの周りに小さな光の粒が舞い始めた。
彼らの喜ぶ姿を見ていると、胸が温かくなる。これが私の見つけた「生きる理由」だ。この世界の未来のために。
***
炎翼城も変わっていた。かつては威厳と孤高さを感じさせた城が、今では開放的な雰囲気に包まれている。人間の使節団が常駐し、文化や技術の交流が盛んに行われていた。
私の部屋——今ではカイルバーンとの共同の部屋——のバルコニーからは、城下町の様子が一望できる。人間と竜族が行き交い、市場では両国の物産が取引されている。
「準備はいい?」
振り返ると、カイルバーンが正装姿で立っていた。彼は以前よりも落ち着いた雰囲気を纏っていた。王子としての責任を全うしながらも、温かさを失わない姿は、多くの人々から敬愛されていた。
「ええ」私は頷いた。「少し緊張するけど」
今日は特別な日だった。両国の代表が集まる「統合祭」の初回が行われる日。そして、私とカイルバーンの婚約が正式に発表される日でもあった。
「美しい」カイルバーンが私の姿を見つめた。
私は儀式用の衣装を纏っていた。白と青を基調としたドレスに、銀の装飾が施されている。髪には小さな宝石が編み込まれ、首には青い水晶のペンダントがかかっていた。
「あなたもとても素敵よ」私は微笑んだ。
彼は短い距離を詰め、私にキスをした。優しく、愛情に満ちたキス。
「信じられないよ」彼は私の額に自分の額をつけた。「あの日、灰色荒野であなたに出会って、こんな未来が待っているなんて」
「私も」私は彼の手を握った。「死のうとしていた私が、今は生きていることがこんなに嬉しいなんて」
扉がノックされ、ヴェインが顔を覗かせた。彼は半年で一回り大きくなったように見えた。今では正式にカイルバーンの近衛兵に任命され、誇らしげに任務に就いていた。
「時間です」彼は言った。「皆さんがお待ちです」
私たちは頷き、部屋を出た。
大広間は人々で溢れかえっていた。竜族の貴族たち、人間の使節団、両国の市民代表など。私たちが入ると、歓声が沸き起こった。
壇上にはドラン大王が立っていた。彼の隣にはリューンと、人間側の代表としてエマが立っている。
私たちが壇上に上がると、ドラン大王が声を上げた。
「今日、私たちは新しい始まりを祝うために集まった」彼の声は力強かった。「千年続いた対立を終わらせ、共に歩む未来のために」
彼の言葉に、会場から拍手が起こった。
「そして今日は、もう一つの特別な出来事を祝う日でもある」大王は私とカイルバーンを見た。「我が息子カイルバーンと、神の歌姫リンの婚約を正式に発表する」
歓声と拍手が響き渡った。
リューンが前に出て、小さな箱を開いた。中には二つの指輪が収められていた。青い光を帯びた銀の指輪だ。
「かつて、サリオンとエレナリアが交わした約束の証」彼は説明した。「今、再び二人の間で」
カイルバーンが一つの指輪を取り、私の左手に滑らせた。私も同じように、もう一つの指輪を彼の指に。
指輪が光を放ち、二人の間に淡い光の糸が浮かび上がった。それは次第に消えていったが、二人の心がより強く結ばれたことを感じた。
「未来に向かって」カイルバーンが言った。
「共に」私は答えた。
***
祝宴の後、私は静かな時間を求めて、城の裏庭に足を運んだ。日が傾き始め、空が橙色に染まっていた。
ふと、日本での最後の夕暮れを思い出す。婚約破棄をされ、仕事も失い、雨の中を歩いていた時。死を願っていた時。
「リン」
エマが近づいてきた。彼女は人間側の代表として、今では重要な地位に就いていた。彼女の態度は以前ほど厳しくなく、柔らかさが増していた。
「素晴らしい祝宴だったわ」彼は言った。「姉が見ていたら、きっと喜んでいるでしょうね」
「ええ」私は静かに頷いた。「エレイナの記憶の中で、あなたはいつも大切な存在だった」
「今でも時々、不思議な気分になるわ」彼女は空を見上げた。「あなたの中に姉がいるなんて」
「私は佐伯鈴よ」私は優しく言った。「でも、エレイナもエレナリアも私の一部。三人が一つになった存在なの」
彼女は理解したように頷いた。
「アルフォンス教皇はどうなったの?」私は尋ねた。
「修道院に隠居している」エマは答えた。「力は失ったが、まだ懺悔の道は長いでしょう」
私たちは少しの間、沈黙の中で夕日を眺めていた。
「これからどうするの?」エマが尋ねた。「あなたの力は...」
「人々を結びつけるために使うわ」私は答えた。「二つの種族が真の和解に至るまで、そして、その先も」
彼女は微笑んだ。
「姉も、きっと同じ選択をしたでしょうね」
***
夜、カイルバーンと私は城の塔の上から星空を眺めていた。「歌姫の冠」の星座が、いつもより明るく輝いているように見えた。
「王妃になる準備はできてる?」彼は優しく尋ねた。
「まだ実感がわかないわ」私は正直に答えた。「日本の演歌歌手から、竜族の王妃になるなんて」
彼は笑った。
「でも、どちらも歌い手だ」彼は私の髪に触れた。「心を動かす歌を歌う」
「そうね」私は彼の胸に頭を預けた。「異世界で見つけた、私の生きる場所」
「後悔はない?」彼が静かに尋ねた。「日本に戻れないことを」
「ないわ」私は迷わず答えた。「日本での私は...空っぽだった。誰にも届かない歌を歌い、誰にも愛されず」
「ここでは違う」
「ええ、ここでは私の歌に意味がある。あなたがいる。大切な人たちがいる」
彼の腕が私を優しく包み込む。
「あのとき、死のうとした私を、この世界は生かそうとした」私は星空を見上げた。「きっと、ここに来るべき運命だったのね」
「運命か」彼は微笑んだ。「それとも、二人の魂が再び引き合っただけかもしれない」
「どちらにしても、今ここにいるのは間違いじゃないわ」
私は深呼吸をして、星空に向かって歌い始めた。新しい歌。希望と未来の歌。私の声が夜空に響き渡り、星々が応えるように瞬いた。
かつて「死にたがり」だった私は、今は「生きる喜び」を感じていた。カイルバーンとの愛、この世界での役割、そして明日への希望。
これが私の見つけた「生きる理由」。
カイルバーンが私の手を取り、私は彼をまっすぐ見つめた。
「愛しているわ」
「僕も」彼は微笑んだ。「永遠に」
星空の下、私たちは新しい時代の証人として、そして創造者として、静かに寄り添っていた。
死にたがりの歌姫は、こうして竜族の王子から溺愛されて、生きる理由を見つけたのだった。
—— 終 ——
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