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第16話 新しい時代

「歌う谷」へ向かう準備は、静かな緊張感の中で進められた。


私は自分の部屋で、セレナが持ってきた特別な衣装に着替えていた。白と銀を基調とした長いドレスで、袖と裾には青い炎のような模様が刺繍されている。セレナによれば、これは儀式のための神聖な衣装だという。


鏡に映る自分の姿に驚いた。銀色の筋が増えた髪と、紫がかった銀色の瞳。もはや完全に日本人の佐伯鈴とは言えない姿だ。それでも、私は私。その思いを強く抱きしめた。


ノックの音がして、エマが入ってきた。彼女は少し緊張した表情を浮かべていた。


「準備はいい?」


「ええ」私は頷いた。「少し怖いけど...決めたことだから」


エマはしばらく黙って私を見つめていた。


「姉に...似ているわ」彼女は静かに言った。「でも、あなたはあなた自身の光を持っている」


「あなたの姉...エレイナとの記憶が、少しずつ鮮明になってきたの」私は言った。「彼女は優しい人だった。音楽が好きで、誰にでも親切で...」


「ええ、そうだった」エマの目に涙が浮かんだ。「彼女はカイルバーンを助けた後、いつも『あの子は特別な存在』と言っていた」


「特別...」


「姉が見抜いていたのかもしれない」エマは言った。「彼がサリオンの血を引いていることを」


私たちはしばらく沈黙していた。過去と現在が交差する不思議な感覚。エレイナとして生きた日々の記憶が、佐伯鈴の記憶と並んで存在している。


「エマ...」私は勇気を出して尋ねた。「もし私がエレナリアになってしまったら...あなたは悲しむ?」


彼女は真剣な表情で答えた。


「あなたはあなたのままでいてほしい」彼女は言った。「歴史は繰り返すものではない。新しい道を切り開くものだと信じている」


彼女の言葉に励まされた。


「ありがとう」


扉が開き、カイルバーンが入ってきた。儀式用の正装をした彼は、いつも以上に凛々しく見えた。青と銀の装飾が施された衣装は、王子の威厳を感じさせる。


「もう時間だ」彼は言った。


エマは私に軽く頭を下げ、部屋を出ていった。


二人きりになると、カイルバーンがゆっくりと私に近づいた。


「美しい」彼は私の姿を見て言った。「まるで女神のよう」


「まだ佐伯鈴よ」私は小さく笑った。


「そう」彼も微笑んだ。「私の愛する佐伯鈴」


彼が私の手を取ると、心が落ち着いた。どんな結末が待っていても、彼がそばにいてくれる。それだけで勇気が湧いてくる。


「行きましょう」私は頷いた。


***


外には飛行用の竜が何頭か待っていた。ヴェインも準備を整え、私たちに合図した。


「リン様、無事を祈っています」彼は真剣な表情で言った。


「ありがとう、ヴェイン」


カイルバーンが竜の姿に変わり、私は彼の背に乗った。リューン、セレナ、エマも他の竜に乗り、私たちは飛び立った。


空からの景色は美しかった。夕暮れの空に染まる山々、遠くに広がる平原、そして私たちの向かう「歌う谷」。ここで全てが始まり、そして終わるのだろうか。


「怖くない?」カイルバーンの声が風の中に混ざって聞こえてきた。


「怖いわ」正直に答えた。「でも、あなたがいてくれるから、大丈夫」


彼は何も言わなかったが、彼の体から安心感が伝わってきた。


飛行の間、私は日本での生活を思い出していた。演歌歌手としての挫折、婚約者の裏切り、死のうとした瞬間...全てが遠い過去のように感じられる。でも、それは確かに私の人生だった。


そして、エレイナとして過ごした日々。小さな村での平和な暮らし。傷ついたカイルバーンとの出会い。彼に歌を教えた日々。そして、炎に包まれた最期...


さらに遡れば、エレナリアとしての記憶。サリオンとの出会い。二人で世界を創造した喜び。そして、引き裂かれた悲しみ...


三つの人生、三つの記憶。それらが一つになろうとしている。


「着いたわ」


歌う谷の入り口に降り立つと、以前とは違った雰囲気を感じた。谷全体が青白い光で満たされ、風が作り出す音楽はより強く、より美しく響いていた。


「谷が反応している」セレナが言った。「あなたの帰還を喜んでいるようだ」


私たちは谷の奥へと進んだ。前回訪れた場所よりもさらに奥へ。道なき道を歩き、ついに小さな祠のある場所に辿り着いた。


そこには古代の石で作られた円形の台座があり、その周りには奇妙な文字が刻まれていた。台座の中央には、青く輝く水晶が埋め込まれている。


「儀式の場だ」セレナが説明した。「千年前、エレナリアとサリオンがこの世界を創造した場所」


私は畏敬の念を抱きながらその場所を見つめた。心の奥底で何かが呼応するのを感じる。


「どうすればいいの?」


セレナが説明を始めた。


「台座の中央に立ち、歌ってください。谷の力があなたを助け、二つの魂の統合を進めます」


「その後は?」カイルバーンが尋ねた。


「力が完全に目覚めれば...呪いを解く手がかりが見えるでしょう」セレナは言った。


リューンが前に出た。


「時間がない。教皇は明日、炎翼城に到着する。父上の容態も刻一刻と悪化している」


私はカイルバーンの方を見た。彼は心配そうな表情をしていたが、強く頷いた。


「準備はいい?」彼は静かに尋ねた。


「ええ」


彼は私の額に軽くキスをした。


「覚えておいて」彼は囁いた。「あなたは佐伯鈴。何があっても」


その言葉を胸に刻み、私は台座に向かった。足が震えるのを感じながらも、一歩一歩進む。台座に登り、中央に立つと、足元の水晶が強く輝き始めた。


「歌いなさい」セレナの声が遠くから聞こえた。「心の底から」


深呼吸をして、私は歌い始めた。


何を歌えばいいのか考える必要はなかった。自然と口から旋律が溢れ出た。それは日本の演歌でもなければ、エレナリアの歌でもない。三つの魂が混ざり合った、新しい歌。


歌声が谷全体に広がると、私の体から青白い光が放たれ始めた。台座の水晶が共鳴し、谷の岩々も光を放ち始める。


歌い続けると、体が宙に浮かび上がった。光の渦に包まれ、世界が遠ざかっていく感覚。


そして、私の中で何かが変わり始めた。


エレナリアの記憶、エレイナの記憶、佐伯鈴の記憶。それらが混ざり合い、溶け合っていく。しかし、消えていくのではなく、調和していくように感じられた。


光の中で、三人の女性の姿が見えた。銀髪の威厳ある女性——エレナリア。若く優しい表情の女性——エレイナ。そして、演歌の舞台に立つ私自身——佐伯鈴。


三人は互いに手を取り合い、一つになっていく。


「私たちは一人」彼女たちの声が重なった。「過去も、現在も、未来も」


恐れていた「消失」の感覚はなく、むしろ「完成」の感覚があった。佐伯鈴という存在は失われるのではなく、より大きな自分の一部となる。


しかし、その瞬間、突然暗黒の力が私を包み込んだ。黒い霧のような存在が、光の中に侵入してきたのだ。


「竜族の王子よ、止めろ!」


見知らぬ声が響き渡る。その声は怒りと恐怖に満ちていた。


「彼女の力を完全に解放すれば、お前たちの種族は滅びる!」


カイルバーンの怒りの声が聞こえた。


「アルフォンス!なぜここに!」


「私の魔術師たちはあなた方の動きを見ていた」アルフォンス教皇の声が近づいてきた。「歌姫の力が目覚める前に止めなければ」


暗黒の力が私を引きずり下ろそうとする。光と闇の戦いが、私の体の中で繰り広げられていた。


「リン!」カイルバーンの叫びが聞こえる。


「歌え!」別の声——イグニスの声だ。「彼の力を超える歌を!」


残された力を振り絞り、私は再び歌い始めた。今度は全ての感情を込めて。三つの人生で感じた全ての愛と悲しみ、喜びと痛み、そして希望。


闇が少しずつ後退していく。


「リン!あなたは佐伯鈴だ!」カイルバーンの声が私を導く。「私の愛する人だ!」


彼の言葉が、私の心の核を強く照らした。そう、私は佐伯鈴。死にたかったけれど、ここで新しい生きる意味を見つけた私。


光が爆発的に広がり、闇を押し返した。アルフォンス教皇の怒りの叫びが遠のいていく。


そして、世界が一瞬静まり返った後、強力な波動が谷全体を包み込んだ。


私の体がゆっくりと台座に戻される。足が地面に触れた瞬間、膝が崩れそうになったが、カイルバーンが駆け寄り、私を支えてくれた。


「リン!大丈夫か?」


彼の顔を見上げると、涙に濡れた金色の瞳が見えた。彼は私の無事を確かめるように、しっかりと抱きしめた。


「カイル...バーン」口から出た声は、少し変わっていた。より澄んだ、より力強い声に。でも確かに私の声だった。


「わかる?私が誰だか?」彼は恐る恐る尋ねた。


私は微笑んだ。


「佐伯鈴よ」そして付け加えた。「でも、同時にエレナリアでもあり、エレイナでもある」


彼の表情が安堵に満ちた。


「消えなかったんだな」


「ええ、三つの魂が一つになった。でも、私は私のまま」


彼は私を強く抱きしめた。その温もりが、今の私が現実であることを確かめさせてくれた。


「アルフォンス教皇は?」私は周囲を見回した。


「逃げた」リューンが答えた。「だが、彼の目的を達したわけではない」


「力は...目覚めたのね」私は自分の手を見た。淡く青白い光が手のひらから漏れている。


「呪いを解く力も」セレナが言った。


「大王様...助けに行かなきゃ」私は立ち上がろうとした。


「無理はするな」カイルバーンが言った。「まだ体が...」


「大丈夫」私は彼を安心させるように微笑んだ。「今の私には力がある。それに...時間がないでしょう?」


リューンが同意し、私たちは急いで谷を後にした。私は再びカイルバーンの竜の姿に乗り、炎翼城へと向かった。


空を飛びながら、私は変わった自分の感覚を確かめていた。記憶が全て統合され、三つの人生が一つの流れとなっている。そして力...かつてないほどの力が体の中に満ちている。


「感じる?」カイルバーンの声が聞こえた。


「ええ」私は答えた。「でも怖くないわ。この力で、みんなを救えるから」


「私はただ...あなたが無事でよかった」彼の声には深い安堵があった。


遠くに炎翼城が見えてきた。しかし、その周りには暗い雲が渦巻いていた。不自然な、魔力に満ちた雲だ。


「アルフォンスが先に城に着いた」リューンが言った。「呪いを増強している」


「教皇の本当の目的は、父上を利用して呪いを永続化することだったのか」カイルバーンが言った。「二度と種族間の和解がないように」


城に近づくにつれ、黒い雲の正体がわかってきた。無数の暗黒の魔力が渦巻き、城全体を包み込もうとしている。


「間に合うかしら...」私は不安を感じた。


「必ず」カイルバーンは強く言った。


城のテラスに着陸すると、すぐに城内へと走った。廊下や広間は混乱に陥っており、竜族たちが恐怖に震えていた。


「何が起きている?」リューンが衛兵に尋ねた。


「大王の寝室から黒い霧が溢れ出し...アルフォンス教皇が儀式を始めたようです」


私たちは急いで大王の寝室へと向かった。扉の前には、教皇の護衛たちが立ちはだかっていた。


「通してもらうわ」私は前に出た。


「歌姫様!」衛兵たちは驚いた表情を見せた。「あなたは...変わられた」


確かに、私の外見は儀式の前よりさらに変化していた。髪は完全に銀色に変わり、瞳は紫色に輝いていた。


「どけ」カイルバーンが剣を抜いた。


護衛たちは一瞬躊躇した後、道を開けた。


寝室の扉を開けると、中は黒い霧で満たされていた。ベッドのそばには、アルフォンス教皇が立ち、古代の言葉で何かを詠唱している。ドラン大王は意識がなく、体から黒い霧が溢れ出していた。


「止めなさい!」私は声を上げた。


アルフォンスが振り返った。彼の目は暗い力に満ちていた。


「遅すぎる、歌姫よ」彼は冷笑した。「もうすぐ呪いは完成する。そして二度と種族間の和解はない」


「なぜそこまで...」


「秩序のためだ」彼は答えた。「種族が混ざれば、千年続いた秩序が崩れる。私の先祖が命がけで作り上げた世界が」


彼の言葉には執念があった。千年の間、彼の一族は秩序の守護者として呪いを維持してきたのだ。


「もう十分よ」私は前に進み出た。「千年の呪いを解く時が来たわ」


「させるものか!」


彼が魔法を放ったが、私の体を包む光の壁がそれを防いだ。


「カイルバーン、リューン」私は二人を見た。「大王様の側に」


二人が頷き、父親の両側に立った。


私は歌い始めた。歌う谷で覚えた新しい歌。世界を癒す歌。


歌声が部屋に満ちると、私の体から放たれる光が黒い霧と戦い始めた。アルフォンスは必死に抵抗した。


「無駄だ!千年の呪いは解けない!」


「いいえ」私は歌いながら言った。「愛は種族を超える。それが真実」


私の言葉に、カイルバーンの目が驚きで見開かれた。かつて彼の母が言った言葉だ。


「サリオンとエレナリアの力が一つになれば」私は続けた。「呪いは解ける」


私はカイルバーンに手を差し伸べた。彼が私の手を取ると、彼の体からも金色の光が放たれ始めた。


「そんな...」アルフォンスの顔が青ざめた。「彼に力が...」


二人の光が混ざり合い、部屋全体を包み込んだ。黒い霧が急速に消えていき、大王の体も浄化されていく。


アルフォンスは最後の抵抗を試みたが、光の前に彼の力は無力だった。最終的に彼は膝をつき、降伏した。


「勝ったつもりか...」彼は苦々しく言った。「しかし、二つの種族は千年の間、互いを憎んできた。その憎しみは簡単には消えない」


「ゆっくりでいいの」私は彼に言った。「でも、一歩ずつ前に進むわ」


光が完全に黒い霧を払った時、大王が目を開いた。彼の目には混乱と驚きがあった。


「息子たち...そして...」彼の目が私に止まった。「エレナリア...?」


「いいえ、佐伯鈴です」私は微笑んだ。「でも、彼女の魂を受け継いでいます」


彼はゆっくりと理解したように頷いた。


「夢の中で...彼女が話しかけてきた」彼は弱々しく言った。「『サリオンの血を引く者よ、再会の時が来た』と」


リューンとカイルバーンが父の両側に立ち、彼を支えた。


「父上、お体は?」


「霧が...消えた」大王は言った。「長い悪夢から覚めたようだ」


部屋に安堵が広がった。千年の呪いは解かれ、大王は救われた。


私はカイルバーンを見つめた。彼の目には愛と感謝が溢れていた。


「終わったの?」私は小さく尋ねた。


「いいえ」彼は微笑んだ。「始まったんだ。新しい時代が」


窓の外で、朝日が昇り始めていた。新しい一日の始まり。新しい時代の幕開けだった。

最後までお読みいただき、ありがとうございました!

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