第12話 目覚める記憶
制御不能な光が私の体から溢れ出た瞬間、中立地帯全体が揺れた。青白い光が波紋のように広がり、神殿の柱に触れると、古い石が共鳴するように輝き始めた。
「リン!」カイルバーンが私を抱きかかえようとするが、光の障壁が彼をはじく。
アルフォンス教皇の表情が一変した。恐怖と同時に、ある種の期待が浮かんでいるようだった。
「予言通りだ...」彼は低く呟いた。「彼女の中で女神が目覚めつつある」
私は自分の身体を制御できずにいた。まるで別の存在が私の中から現れようとしているかのよう。頭の中の声はもはや囁きではなく、怒りの叫びになっていた。
「裏切り者たち!千年前、あなた方は私を封印した!平和の道を閉ざしたのは人間たち!」
その声は私の口から発せられていた。しかし、それは私の意志ではなかった。
「これは...」セレナが驚いた声を上げた。「エレナリアの記憶が」
「エレナリア...?」カイルバーンが混乱した表情で尋ねる。
「女神の名だ」リューンが緊張した声で答えた。「歌姫は女神の転生者...」
光の中で私は自分の腕が勝手に上がるのを感じた。指を向けた先には、アルフォンス教皇。
「あなたは五百年前も、千年前も、常に同じ魂...常に私たちを引き離そうとした」
私ではない誰かが私の口を通して語っている。それでも不思議と、それが嘘だとは思えなかった。まるで封印されていた記憶が解放されたかのように、鮮明な映像が頭の中に流れ込んでくる。
教皇の顔が歪んだ。
「封印の儀式を始めよ!」彼は部下たちに命じた。「彼女が完全に目覚める前に!」
エマが躊躇していた。彼女の目には迷いがあった。
「しかし、教皇様、予言では...」
「命令だ!」
騎士たちが円陣を組み、魔法の詠唱を始めた。光の輪が私を囲み、締め付けるように狭まってくる。
「リン!」カイルバーンが叫ぶ。彼は竜の姿に変わろうとするが、神殿の結界に阻まれている。
苦しい。息ができない。私の中のもう一人の存在——エレナリアの魂が抵抗しているが、封印の力が強すぎる。
「カイル...バーン...」私は自分自身の声を絞り出した。「助けて...」
彼の金色の瞳に痛みと決意が浮かんだ。
「リューン、力を貸せ!」彼は兄に叫んだ。
リューンは一瞬躊躇ったが、何かを悟ったように頷いた。
「セレナ、竜族の結界を」
セレナが前に出て、古い言葉で詠唱を始めた。彼女の手から青い光が放たれ、神殿の結界と衝突する。
人間側の封印の詠唱と、竜族側の解放の詠唱が交差する中、私は意識が遠のくのを感じた。体の中で二つの魂が激しく揺れている。
「リン、聞こえるか?」カイルバーンの声が遠くから届く。「自分自身であれ。どんな力が宿ろうとも、あなたはあなただ」
彼の言葉が、混沌とした意識の中で一筋の光となった。そうだ、私は私。佐伯鈴。31歳の失敗した演歌歌手。でも同時に...記憶の中の女神。
「私は...私...」
その時、セレナの詠唱が最高潮に達し、結界に亀裂が入った。カイルバーンが亀裂に体当たりし、ついに内側に入ることができた。
「離せ!」彼は封印の円陣に飛び込み、私に手を伸ばした。
彼の手が私に触れた瞬間、強烈な閃光が走った。光の爆発とともに、封印の円陣が砕け散る。
私は力尽き、カイルバーンの腕の中に倒れ込んだ。
「リン!」
彼の顔が見える。そして周りの混乱も。閃光で一時的に視界を失った騎士たち。困惑するエマ。そして怒りに満ちたアルフォンス教皇の姿。
「逃げるぞ」カイルバーンが私を抱え上げた。
リューンが竜の姿に変わり、空へ飛び立つ合図をした。
「追うな!」アルフォンス教皇が叫ぶ。「彼女を取り戻せ!」
しかし時すでに遅し。カイルバーンは私を抱えたまま竜の背に飛び乗り、セレナも他の竜に乗って離陸した。
空高く舞い上がる中、私は微かに意識を取り戻した。目の前で優しく微笑むカイルバーンの顔。
「大丈夫だ、もう安全だ」
それが最後に聞いた言葉だった。
***
目を覚ますと、見知らぬ場所だった。天井には奇妙な結晶が埋め込まれ、柔らかな光を放っている。私は大きなベッドに横たわっていた。
「ここは...?」
「秘密の避難所だ」
声の方を向くと、カイルバーンが椅子に座っていた。疲れた表情だが、目には安堵の色が浮かんでいる。
「どれくらい...眠ってた?」
「一日と半日」彼は答えた。「心配したよ」
少しずつ記憶が戻ってくる。中立地帯での出来事。光の爆発。そして...
「私の中の...声...」
「エレナリア」カイルバーンが静かに言った。「伝説の女神の名前だ」
私はゆっくりと上体を起こした。体の違和感はなくなっていたが、何かが変わったように感じた。鏡を見たいという衝動に駆られる。
「鏡は?」
カイルバーンが壁に掛かった小さな鏡を持ってきた。そこに映る顔は私のものだが、違っていた。髪には銀色の筋がはっきりと混じり、瞳は紫がかった銀色に変わっていた。
「これが...私?」
「ああ」彼は頷いた。「変化は進んでいる。でも、あなたはあなただ」
「何が起きているの?教皇は私を...封印しようとした」
彼は深いため息をついた。
「セレナの説明によれば、あなたはエレナリアの転生者だという。千年前、竜神サリオンとともに世界を作った女神だ」
「でも、私は...ただの演歌歌手よ」
「そして今も変わらずそうだ」彼は私の手を取った。「あなたの中には過去の記憶があるかもしれない。でも、あなたは佐伯鈴だ」
彼の言葉は温かかった。しかし、疑問は消えない。
「教皇が言っていた『封印』は...」
「セレナによれば、歴史上何度も歌姫が現れるたびに、人間側の権力者たちはその力を恐れ、封印しようとしてきたらしい」カイルバーンの声には怒りが含まれていた。「なぜなら、歌姫の力は現状を変えるから」
「現状を...変える?」
「種族間の壁を壊す力だ」彼は説明した。「それは権力者たちにとって脅威となる」
私は混乱していた。しかし、もう一つの記憶——エレナリアの記憶が確かにそれを裏付けていた。
「あの人...アルフォンス教皇は、前にも私を...」
「転生の連鎖の中で、何度も対峙してきたのかもしれない」カイルバーンは言った。「セレナはそう考えている」
ドアが開き、セレナが入ってきた。彼女の表情は複雑だったが、穏やかだった。
「目覚めましたか」彼女は私のベッドサイドに座った。「お加減はいかがですか?」
「体は大丈夫...でも、頭の中が混乱してる」正直に答えた。「私の中には本当に...女神が?」
「あなたは女神の魂を持って生まれてきました」彼女は静かに言った。「しかし、あなたはあなた自身。佐伯鈴という一人の人間です」
「でも、私の中の声は...記憶は...」
「それはあなたのもの」セレナは確信を持って言った。「分裂した記憶が一つになろうとしているだけです」
「なぜ私が...なぜ今...」
「それは宿命かもしれません」彼女は窓の外を見た。「世界が再び転換点に立っているから」
「リューンとドラン大王は?」カイルバーンが尋ねた。
「城に戻りました」セレナは答えた。「リューン王子はアルフォンス教皇との全面対決を避けるため、交渉の余地を残しています」
「交渉など」カイルバーンは苦々しく言った。「あんな男と話し合いなど無駄だ」
「しかし時間を稼ぐことはできます」セレナは言った。「リン様の力が完全に目覚めるまでの」
私は震えた。このまま変化が進めば、私は私でなくなるのではないか。エレナリアになってしまうのではないか。その恐怖が胸を締め付けた。
「私は...私でいたい」
カイルバーンが私の手をしっかり握った。
「あなたはあなただ」彼は力強く言った。「どんな記憶が戻ろうとも、今、ここにいるあなたが真実だ」
彼の言葉に、少し安心した。
「この場所はどこ?」周囲を見回した。
「忘却の森の奥にある古い神殿」セレナが答えた。「かつてサリオンとエレナリアが会っていた聖域です」
その名前を聞いて、何かが心の奥底で震えた。サリオン...懐かしい名前。でも、それは私の記憶ではない。
「両軍は動いているの?」
「残念ながら」セレナは深刻な表情で言った。「アルフォンス教皇は全軍を動員し、竜族の領土に向かっています。リューンも防衛態勢を整えています」
「戦争が...」
「ああ」カイルバーンは暗い表情になった。「あなたをめぐる戦いだ」
責任の重さが私を押しつぶしそうになった。私がいなければ、戦争は起きなかったのではないか。死にたいと思っていた私が、多くの命を危険にさらしている。
「私がいなければ...」
「違う」カイルバーンが強く言った。「あなたがいるからこそ、本当の平和の可能性がある」
彼の金色の瞳には、深い信頼が宿っていた。
「休息を取ってください」セレナは立ち上がりながら言った。「明日、あなたの力について、そして歴史について話します」
彼女が去った後、私とカイルバーンは静寂の中にいた。
「怖くないの?」私は小さく尋ねた。「私が...別の誰かになるかもしれないのに」
彼は微笑んだ。
「リン、あなたは心の奥底まで知っている」彼は真剣な眼差しで私を見つめた。「あなたは信じられないほど強い人だ。演歌歌手として挫折しても、婚約者に裏切られても、死のうとしても...それでも今ここにいる」
彼の言葉が、温かく心に染みた。
「カイルバーン...あなたがいてくれなかったら...」
「僕もだ」彼は静かに言った。「あなたに出会って、僕の人生は変わった。だから...」
彼はためらいながらも、決意を固めたように続けた。
「あなたがどんな存在になろうとも、僕の気持ちは変わらない」
「どんな気持ち...?」心臓が早鐘を打った。
彼は私の顔を優しく両手で包み、まっすぐに目を見つめた。
「愛している」シンプルだが、揺るぎない言葉。「佐伯鈴という人間を」
その言葉に、涙があふれた。死にたかった私が、愛されている。生きる価値がある。
「私も...あなたを」
彼の顔がゆっくりと近づき、私たちの唇が優しく触れ合った。初めてのキスは、柔らかく、暖かかった。
窓の外から、かすかに戦いの音が聞こえた。世界は混乱に向かっているのに、この瞬間だけは静かな安らぎに包まれていた。
しかし、その幸せな時間は長くは続かなかった。
突然、地面が揺れ、遠くで爆発音が響いた。
「何が...」
カイルバーンが窓の外を見て、表情を強ばらせた。
「見つかった...人間の軍勢だ」
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