第10話 揺れる二つの国
翌朝、城全体に静かな緊張が漂っていた。昨夜の出来事は、すでに城中に広まっていた。「神の歌姫が戦いを止めた」と。
朝食を取りに大広間へ向かうと、竜族たちが私を見る目が変わっていた。敵意や疑いの目は少なくなり、代わりに敬意や好奇心、そして期待の視線が増えていた。
「リン様、おはようございます」
ヴェインが明るく挨拶し、私の隣に座った。
「昨日は危険な行動でしたが、すごかった!城中の誰もが話しています」彼は興奮した様子で言った。「あなたの歌で両軍が止まったことを」
「ヴェイン、ありがとう。あなたが手伝ってくれなかったら、行けなかったわ」
彼は照れくさそうに微笑んだ。
「リン様なら信じられます。半竜人の私でさえ、歌を聴いて心が震えたんですから」
朝食の途中、セレナが現れた。彼女は私の隣に静かに座った。
「昨夜のことを聞きました」彼女は穏やかに言った。「歌う谷での映像が、あなたを導いたのですね」
「はい...あの未来を信じました」
彼女は深いところで満足しているように見えた。
「あなたの目に、銀の筋がさらに増えていますね」セレナは私の顔をじっと見つめた。「変化は加速しています」
私は不安になった。
「どんな変化なの?私に何が起きているの?」
セレナは静かに答えた。
「二つの魂が一つになろうとしています。あなたの中に眠る古い記憶が、少しずつ目覚めているのです」
彼女の謎めいた言葉に、さらに混乱した。しかし、それ以上の説明はなかった。
「三日後の会談に向けて、準備をなさい」彼女は言って立ち上がった。「アルフォンス教皇は、普通の相手ではありません」
***
午後、私はカイルバーンと城の庭を歩いていた。彼は昨夜の緊張から解放されたように見えた。
「人間軍は確かに撤退した」彼は言った。「三日間の休戦は守られている」
「良かった...」私はほっとした。「でも、その後はどうなるの?」
彼は立ち止まり、空を見上げた。
「それはアルフォンス教皇との会談次第だろう」彼の声は少し暗くなった。「彼は野心家だ。神の歌姫の力を自分のものにしようとするかもしれない」
「私はそんなつもりはないわ」私はきっぱりと言った。「私の力は...どちらの側のものでもない」
カイルバーンは微笑んだ。
「それがあなたの素晴らしいところだ」彼はそっと私の手を取った。「どちらにも偏らず、両方を見ている」
庭の奥から、不意に声が聞こえた。
「いい雰囲気ですね」
振り向くと、華やかな衣装をまとった美しい女性が立っていた。私が前に見かけた、敵意のこもった視線を向けてきた女性——ヴェロニカだ。
「ヴェロニカ」カイルバーンが挨拶した。「どうした?」
「リューン王子が歌姫様をお呼びです」彼女は私を冷ややかに見た。「緊急だそうです」
彼女の視線に不快感を覚えたが、リューンの呼び出しは無視できない。
「行きましょう」カイルバーンが言った。
リューンの私室に案内されると、彼は窓際に佇んでいた。振り返った彼の表情は、いつもより暗く見えた。
「父上の容態が再び悪化した」彼はいきなり切り出した。「医術師たちも匙を投げている」
「それで私に...」
「ああ、もう一度歌ってほしい」彼は頷いた。「昨夜の戦場での歌は...驚異的だった。その力があれば、父上も...」
私はカイルバーンを見た。彼も心配そうな表情をしていた。
「もちろん、力になれるなら」
大王の寝室に向かうと、彼の状態は確かに悪化していた。顔は青ざめ、呼吸は浅く、時々痙攣しているように見えた。
「例の黒い霧がさらに濃くなっています」セレナが大王のベッドサイドから言った。
私は深呼吸をして、大王の傍らに立った。今回は何を歌えばいいのだろう。前回と同じ「命の繋がり」を歌うべきか、それとも...
直感に従って、私は「神秘の調べ」——昨夜戦場で歌った曲を選んだ。
歌い始めると、すぐに青白い光が私の体から溢れ出した。光はドラン大王の体を包み込み、黒い霧と戦うように見えた。
歌っている間、再び不思議な感覚があった。私の声が他の誰かの声と重なり、力強さを増している。そして、部屋全体が共鳴を始めた。
歌い終えると、ドラン大王の容態は明らかに改善していた。黒い霧は後退し、彼の顔色も良くなっていた。彼はゆっくりと目を開いた。
「あの声...」彼は弱々しく言った。「どこかで聞いたような...」
セレナが驚いた表情を見せた。
「大王様、何を覚えていらっしゃるのですか?」
ドラン大王は混乱したような表情を浮かべ、再び目を閉じた。しかし、今度は安らかな眠りに落ちたようだった。
リューンは明らかに安堵していた。
「驚くべき力だ」彼は認めるように言った。「歌姫、感謝する」
私は疲労感を感じながらも、嬉しさがあった。少しずつだが、リューンの態度も変わってきているようだ。
***
夕食後、リューンに呼ばれて彼の執務室へ向かった。カイルバーンは別の用事で出られないとのことだった。
執務室には、リューンとセレナがいた。二人とも真剣な表情をしていた。
「歌姫、座りなさい」リューンが言った。「話があるのだ」
彼の口調はいつもより柔らかかったが、どこか警戒感があった。
「父上の病は普通ではない」彼は静かに言った。「呪いのようなものだ」
「呪い...?」
セレナが説明を引き継いだ。
「大王様の中に潜む闇は、千年前からの遺恨です。それを完全に取り除くには...特別な儀式が必要になります」
「どんな儀式ですか?」私は不安になった。
リューンとセレナが視線を交わし、リューンが言った。
「神の歌姫の全ての力を一時的に大王に捧げる儀式だ」
私は息を飲んだ。
「全ての力を...?それはどういう意味ですか?」
「一時的に力を大王に移すのです」セレナが説明した。「しかし...リスクもあります」
「どんなリスク?」
「力を全て使い果たせば、あなた自身が...消えるかもしれない」彼女の声は沈んでいた。
私は動揺した。消える?死ぬということ?
「カイルバーンは...この話を知っているの?」
「いいえ」リューンはきっぱりと言った。「彼は反対するだろう。だからこそ、今日彼を呼ばなかった」
「そんな...」私は立ち上がりかけた。「彼に相談せずには...」
「まだ決断を迫っているわけではない」リューンは私を止めた。「ただ、選択肢があることを知ってほしかっただけだ」
私は混乱していた。大王を救うために自分の命を捧げる?つい数日前まで死にたいと思っていた私だが...今は違う。カイルバーンがいる。生きる理由がある。
「考えさせてください」私はようやく口にした。
「もちろんだ」リューンは頷いた。「だが、時間はないことを覚えておいてほしい」
部屋を出ると、足がふらついた。頭の中は混乱で一杯だった。廊下を歩いていると、ヴェロニカとばったり会った。
「歌姫様」彼女は皮肉めいた口調で言った。「リューン王子との会談はいかがでしたか?」
「あなたは...知っているの?」
「儀式のことですか?」彼女は冷笑した。「王宮の秘密は長くは保たれません」
私は黙っていた。彼女は一歩近づいた。
「カイルバーン様に伝えるつもりですか?彼は...あなたのためなら何でもするでしょうね」
彼女の声には明らかな嫉妬が含まれていた。
「私は...」
「あなたは本当に素晴らしい」彼女は突然言った。「来てわずか数日で、王族も兵士も、そして...カイルバーン様の心まで掴んだ」
「そんなつもりは...」
「でも、それも一時的なことかもしれませんね」彼女は去り際に言った。「政略結婚の話は、まだ取り下げられていないのですから」
彼女の言葉は、心に刺さるトゲのようだった。政略結婚?カイルバーンはそんな話をしていなかった。
***
部屋に戻り、窓際に立って星空を見上げた。あまりにも多くのことが一度に押し寄せてきた。儀式の話、自分の命の危険、ヴェロニカの言葉...
「やっぱり、私なんかが歌姫だなんておかしいわ」
突然、ノックの音がした。ドアを開けると、カイルバーンが立っていた。彼の表情には心配が浮かんでいた。
「リューンからの呼び出し、何があったんだ?」彼は部屋に入った。
私は躊躇した。嘘をつく気はなかったが、彼を心配させたくない。だが、もう隠し事はできない。
「儀式の話をされたわ」私は静かに言った。「大王様を治すための...」
カイルバーンの表情が硬くなった。
「あの儀式?セレナが言っていたものか?」
私は頷いた。
「リューンは何と?」
「自分の力を全て大王様に捧げれば治るかもしれないって」私は続けた。「でも、リスクもあるって...私が消えるかもしれないって」
「なんてことを!」カイルバーンの怒りが爆発した。「彼は何を考えている!」
「大王様を救いたいだけだと思う...」
「それでもだ」彼は私の肩を掴んだ。「リン、約束してくれ。絶対にその儀式はしないと」
彼の目には切迫した感情が溢れていた。私は涙が出そうになった。
「でも...あなたのお父様が...」
「父よりも、あなたが大切だ」彼の言葉は真摯だった。
その言葉に、心が震えた。ヴェロニカの言った政略結婚のことが気になって仕方なかった。
「カイルバーン...あなたとヴェロニカの...婚約の話は本当?」
彼は驚いた表情を見せた後、深く溜息をついた。
「噂を聞いたのか...」彼は窓際に歩み寄った。「政略結婚の話はあった。しかし、それは僕の意思ではない」
「でも、まだ取り下げられてないんでしょう?」
「形式上は...」彼は振り返って私の目をまっすぐ見た。「だが、もう心は決めている」
彼は一歩ずつ私に近づいた。
「リン、僕はあなたを...」
その時、緊急の鐘が鳴り響いた。
「何事だ?」カイルバーンが顔色を変えた。
すぐに、扉が開き、ヴェインが飛び込んできた。
「大変です!アルデミアから緊急の使者が!」彼は息を切らせていた。「もし48時間以内に歌姫様が人間の国に来なければ、全面戦争を始めると...」
カイルバーンの表情が暗くなった。
「奴らの言うことを信じる必要はない」
「でも、大使は書簡を持っています」ヴェインは言った。「アルフォンス教皇自ら署名したものです。彼は...」
「なんだ?」
「『神の歌姫は人間の救世主であり、その力を封印するために歌姫を取り戻す』と言っています...」
私は震えた。封印?
カイルバーンは私の手を強く握った。
「恐れることはない。僕がついている」彼の目には決意が満ちていた。「何があってもあなたを守る」
窓の外で、警戒の炎が夜空を照らし始めた。私の運命をめぐり、二つの国が再び争おうとしている。そして私の体の中では、もう一つの魂が目覚めつつあるのを感じていた。
誰かが囁くような声が聞こえる。
「時が来た...」
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