第1話 死にたい歌姫と異世界への扉
死にたかった私を、異世界は勝手に召喚した。
血に染まる竜の瞳が私を見つめる中、私はただ思った。なぜ私なんかが生き残ったのだろうと。
三十一歳、婚約破棄、仕事も失った日。私——佐伯鈴の人生は、最悪の形で終わるはずだった。この小さな演歌酒場には、年配の常連客が十数人、それに業界関係者が数名。彼らの視線に「時代遅れ」という言葉を読み取るのは、もう簡単になっていた。
「ありがとうございました」
自分でも空虚に感じる挨拶を終え、楽屋に戻る。鏡に映る自分は三十一歳。祖父の代から続く演歌一家に生まれ、幼い頃から「次代を担う歌姫」として育てられた私は、結局何も掴めなかった。
携帯が震える。事務所からだ。
「佐伯さん、正直に言うよ。今日のステージを見て、うちとしては契約の更新は考えられないという結論になった。十年やってこの集客じゃ、採算が取れない」
予想はしていた言葉だった。それでも胸の中で何かが千切れる音がした。
「わかりました。ありがとうございました」
電話を切り、私は機械的に化粧を落とし始めた。今夜、婚約者の陽一と会う約束をしている。彼だけは私の歌を認めてくれていた。演歌の道を諦めるという選択肢も、彼と一緒なら——。
***
待ち合わせの高級レストランは、私にはそぐわない場所だった。陽一の姿はない。三十分待っても現れず、メッセージを送るとすぐに返信が来た。
「実は話があった。今向かってる」
さらに十分後、彼は現れた。いつもの爽やかな笑顔はなく、硬い表情で席に着いた。
「契約更新、ダメだったよ」
私が切り出すと、陽一は一瞬だけ目を伏せた。
「そうか。でも、実はちょうど良かった。俺も話があるんだ」
彼の言葉に、不吉な予感が走る。
「俺、プロデューサーから新人のマネージャーに抜擢されたんだ。将来有望な子で...その子と、付き合うことになった」
世界が止まったような感覚。私の耳には、もう彼の言葉は届いていなかった。謝罪の言葉。これからも友達でいてほしいという建前。すべてが遠くで聞こえる雑音のようだった。
「おめでとう」
私は微笑んだ。演歌歌手として、悲しみを笑顔で歌う訓練は積んでいた。
***
夜の街を歩く。行き先もなく、ただ歩く。雨が降り始めた。傘を持っていなかったが、濡れるのも構わなかった。
人生の全てを失った今、死にたいという思いだけがやけに鮮明だった。
SNSを開くと、陽一と若い女性の写真がすでに投稿されていた。「新たな才能との出会い」というキャプションと共に。コメント欄には祝福の言葉が並ぶ。私たちの婚約は、まだ公表していなかった。
雨の中、信号を渡る。青信号。でも、渡るべきかどうか迷っていた時、後ろから押されるような感覚があった。
振り返る間もなく、目の前にヘッドライトが迫ってきた。
刹那、思った。
「ああ、これでよかった」
痛みはなかった。ただ眩しい光に包まれる感覚。意識が遠のく中、不思議と心が軽くなるのを感じた。
死ぬのが、こんなにも簡単だなんて。
***
目が覚めると、そこは見知らぬ場所だった。
灰色の荒野。焦げた大地。遠くには奇妙な形の山々。
「ここは...天国?それとも地獄?」
自分の声に驚く。喉が渇いていた。体を起こすと、全身が痛む。死んでいないらしい。
突然、地面が振動し始めた。何かが近づいてくる。大きな何かが。
振り向くと、そこには信じられないものがあった。
鱗に覆われた巨大な生き物。翼を持ち、金色の瞳を光らせている。まるで——
「竜...?」
その生き物は、私の前で息絶えるように倒れ込んだ。鱗の隙間から血が滲んでいる。傷ついているようだった。
そして、私の目の前で驚くべき光景が広がった。その生き物の姿が変わり始めたのだ。竜の姿が霧のように揺らぎ、代わりに人の形になっていく。
銀青色の長い髪。額と頬に鱗のような模様。そして、苦しげに開かれた黄金の瞳。
その美しさに言葉を失った瞬間、遠くから甲高い叫び声と、鎧の軋む音が聞こえてきた。戦士たちが近づいている。
「見つかれば、殺される」
彼が血を吐きながら呟いた言葉は、私には理解できなかった。ただ本能的に、私は彼の致命傷に手を伸ばした。
そのとき、私の喉から懐かしい演歌が零れ落ちた。彼の黄金の瞳が見開かれる中、私の手から青白い光が溢れ出し、彼の傷口を覆い始めた。
「お前は——」彼の驚愕の声が響く。「神の歌姫か」
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