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【4】

そしていよいよ、儀式の日がやってきました。

お嬢様のお側にはべりたかったわたくしですが、転化したての元人間の吸血種は暴走しがちで、周囲に人間がいればその存在をそのまま餌と見なしてしまうと言われてしまっては、涙を呑んで諦めるより他はございませぬ。


お嬢様とフィレンツェ様がお籠りになられた儀式の間の扉の前で、わたくしは祈りを捧げておりました。


どうか、どうか、お嬢様をお守りください。

神であっても魔であっても構いやしない、わたくしのすべてを差し出したって構わない。

どうかお嬢様を、ご無事に、わたくしのもとにお連れくださいと。


扉の向こうから聞こえる絶叫と呻き声は、お嬢様のことをこれ以上ない苦痛が襲っているのだと察するまでもなく、ただ祈ることしかできない自分の無力があまりにも悔しく、情けなく、みじめで、いっそこの身を差し出してお嬢様の餌になれたならばとすら思ったものにございます。


お嬢様の転化には、ちょうど七日間かかりましたね。

飲まず食わず、眠ることすらせずにただ扉を前にして祈り続けるわたくしを、あなた様ときたら、いちいち嫌味を言ったり無理矢理食事を摂らせたり、催眠術で無理矢理眠らせてくださったり。


あのときは幾度となく「余計な真似をするな」と怒鳴ったものですが、申し訳ありませ……はい、過ぎたこと、にございますね。

あなた様がそんな風だから、わたくしはこの五十年、あなた様に素直にお礼を言うこともなかなかできなかった。

恨んではおりませぬ。ただ、もったいないことをしたとは思っておりますが。


ああ、懐かしい。

七日後、フィレンツ様に宝物のように抱き上げられ、儀式の間から姿を現した、わたくしの女神。

エメラルドの瞳は、フィレンツ様と同じルビーのそれへと変化していらっしゃいましたが、それ以外は何一つ欠けることなく、お嬢様はわたくしの前に降臨してくださった。

奇跡とはきっとお嬢様の形をしているのでしょう。

闇の中でもなお自ら光り輝く希望のお方。


フィレンツ様のことは憎たらしい以外の何物でもございませんが、そうでございますね、お嬢様を選ばれたその目だけは確かなものであったと認めるにやぶさかではございませぬ。

許すか許さないかは別の話でございますが。


「セツ、待たせてしまったわね」と、気恥ずかしそうに微笑んでくださったお嬢様に、わたくしがその場で崩れ落ちて号泣してしまったのも、懐かしい思い出にございます。

見苦しかった? お嬢様の前ではわたくしはどこを取っても見苦しくなってしまうのです、推しの前で信者は皆冷静ではいられないと先ほども申し上げたでしょう。

あらまあ、なんですが、そのお顔。

この歳になってもまだそんなことを言っているのかとおっしゃられましても、こればかりはどうしようもございませんわ。

わたくしの生涯の推し、それがお嬢様にございますゆえ。


お嬢様は見事完璧な転化を遂げられ、そのまま夜の眷属として迎え入れられることとなり、晴れてフィレンツ様の花嫁となられました。


黒衣の婚礼衣装に身を包んだお嬢様の、なんと美しかったことか!

ああ、そうでございますね、あのときもわたくしは号泣しておりました。

悔しくて、さびしくて、でも嬉しくて、幸せで、それでもやはり悔しくて。

ええ、それでも、そう、それでもなお耐えがたきを耐えましたわ。

推しが幸せならばOKにございますもの。


それからの日々は、あっという間にございました。

長命ゆえに吸血鬼は出生率が低いと聞いておりましたが、結婚式から二年後、お嬢様とフィレンツ様は、それはそれはかわいらしい男の子に恵まれましたね。


母親譲りの金の髪と、父親譲りの紅い瞳を持つ、それはそれはかわいらしいアンドラーシュぼっちゃまの世話役を仰せつかった栄誉!


わたくしの生涯の誇りの一つにございます。

ぼっちゃまはさいわいにも只人にすぎないわたくしに懐いてくださり、わたくしもそれはもう目に入れても痛くないくらいにかわいがらせていただいて……まあ?

だからだ、とは? わたくしが甘やかすから、教育役として立候補なさったご自分が厳しく接さなくてはならなくなったですって?


あらあら、ご自分が懐かれていないからってとんだ言い訳ですこと。

ふふふ、うらやましいでしょう。せいぜい悔しがってくださいませ。


どうせ、わたくしも、あとわずかの命にございます。

吸血鬼の寿命は長く、その成長は極めて緩慢なものであると、わたくし、もう既に身に染みて感じておりますの。

四十八年前にお生まれになられたぼっちゃまは、まだ六歳程度のお身体ですし、お嬢様も、フィレンツェ様も、そしてもちろんあなた様も、五十年前からほとんどお姿がお変わりでない。

皆様、もうこのかすむ目を潰してしまいそうなくらい、お美しいまま。


わたくしだけがこうして老い、衰えてまいりました。

あなた様はこれからももっとずっと長い時をぼっちゃまと過ごせるのですから、今だけはわたくしにぼっちゃまのお時間を譲ってくださいませ。


だったら? だったら、とは?


……ああ、わたくしも、吸血鬼になればよかったと?

そうでございますねぇ、そういうお話は、実はいくつか頂戴しておりましたよ。

あら、ご存知でいらした? お嬢様にだって話しておりませんのに、よくご存知でいらっしゃる。


今や夜の国の星と称えられるお嬢様にお仕えするわたくしを見初めてくださった奇特で物好きな殿方に、転化の話を持ち掛けられたことは、一度や二度ではございません。

お嬢様にこれからもお仕えし、ぼっちゃまをこれからもお育てするのならば、そうすべきであるとは解っておりました。


まあ、失礼な。

わたくし、転化の失敗を恐れたわけではございませぬ。

どんなに耐えがたき苦痛も、お嬢様やぼっちゃまを失うかもしれない恐怖に比べれば、なんてことのないものであると断言できます。


ええ、ええ、さようでございますとも。

お嬢様にも、あろうことかぼっちゃまにまで、それとなく転化を勧められてまいりました。

お嬢様は「契約婚もアリだと思うの」なんて真顔でおっしゃられるし、ぼっちゃまには「僕が血をあげる!」なんて……どうなさいました、怖いお顔をなさって。

なんでもない? さようですか、余計な口を挟み申し訳ございません。


ああ、それで……どこまでお話しましたっけ、そう、ええと、わたくしが転化を選ばなかった理由にございますか。

そうですねぇ、別に、大した意味はなかったのだと思います。

お嬢様やぼっちゃまを置いていくことはさびしいことですが、悲しいことではございません。

わたくしは、人間として、かつて人間であらせられたお嬢様の、その人間であった部分を抱き締めて旅立とうと思ったのです。


それだけ? ええ、それだけです。

それだけのことが、こうして七十まで生きながらえた老いた女の望みです。

お嬢様のあのエメラルドの瞳を、わたくしだけの宝物にしたかったのでしょう。


ふふ、ええ、そうですね。くだらない、本当にくだらない感傷です。

でもその感傷が、今日までわたくしを生かし、そして、お嬢様とぼっちゃま、そしてお嬢様のお腹にいらっしゃるぼっちゃまのご弟妹を守ることに繋がりました。


あなた様がいらしてくださったということは、お嬢様とぼっちゃまはご無事なのでしょう? 

ああ、よかった、ほんとうに。

わたくしはさいごまで、わたくしの役目をまっとうできた。

齢を重ねても鍛錬を怠らなかった結果でございますね。

里帰りをなさったお嬢様がたを狙った教会の狩人達もなかなかの腕でしたが、ふふふ、わたくしの刀もまだ捨てたものではなかったということでしょう。


もう思い残すことはございませぬ。


どうか、どうか、あなた様――――ヴラド様。

あなた様がほんの少しでもわたくしを哀れに思ってくださるのでしたら、どうか、どうか、どうか、どうかどうかどうか、お嬢様と、ぼっちゃまと、いずれお生まれになるぼっちゃまのご弟妹と、それからついでにフィレンツ様のことを、よろしくお願いいたします。


あなた様は気まぐれで冷酷でいらっしゃるけれど、身内には甘いお方だから、わたくしがこうして頼むまでもないとは理解しておりますわ。

それでもどうか言わせてくださいませ。

そして叶うならば伝言を、お嬢様に。


わたくし、時村世津は、お嬢様にお仕えできて、しあわせでございましたと――――――――――……

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