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【2】

お嬢様と王太子殿下のご婚約。

本来何よりの慶事とされるべきそれが何よりも忌むべき汚点になるだなんて、誰が想像したことでしょうか。

あの王太子殿下が、及第点どころか落第点、いいえ、零点以下の男であるのだとわたくしが気付いた時には、もう何もかもが遅かったのです。


ああ、ああ、ああ、思い出すだけではらわたが煮えくり返る思いで……これが落ち着いていられますか!


何十年、いいえ、何百、何千年経とうとも、あの男がお嬢様にした仕打ち、わたくしは決して忘れませぬ。誰が許すものですか。

お嬢様は王太子殿下を心からお慕いしていらしましたが、あのヤドロクときたら、そのお嬢様の愛情の上にあぐらを掻き、やりたい放題好き放題、王侯貴族が集う学園に入学したら多少はマシになるかと思いきや、あろうことか手当たり次第に男に手を出す男爵令嬢などに篭絡されて……!


ああ、おいたわしやお嬢様。

あのヤドロク殿下の許しがたい言葉も行動も微笑みとともに耐え、男爵令嬢のことは責めるどころか貴族の子女とは何たるかを慈悲深く指導し、バートリ侯爵家のご令嬢としてどこに出しても恥ずかしくない行動を選ばれ続けたというのに……それなのに、お嬢様は、学園で孤立なさっていきました。


ええ、それですわ。

“悪役令嬢”だなんて、どこの誰が思いついた呼び名なのでしょうね?


気付けばお嬢様は、王太子殿下と男爵令嬢の身分の差を越えた純愛にスパイスを加える、格好の材料にされていらしたのです。

周囲はお嬢様のことを厭い、嘲り、あることないことを吹聴し、そのたびにわたくしはそんな愚かな真似をしている貴族子女の皆々様の私物にちょっとしたプレゼントを贈ったり、素知らぬ顔で足を引っかけたり、あとは……まあその、色々と。


あら、ご心配は無用ですとも。足がつくような真似なんて一切しておりませんわ。

お嬢様にだって気付かれていない自信がございますとも。

とはいえお嬢様は「本当にあたくしの黒猫さんは、あたくしのことが大好きだこと」だなんて笑ってくださいましたから、幾分かはバレていたのかもしれませんね。もう過ぎたことにございますが。


けれどそんなわたくしのささやかな抵抗など、何の意味も持ちませんでした。

お嬢様は日に日に笑われなくなっていき、わたくしすらも遠ざけようとなさる機会が増えていったのです。


わたくしは、何も、できませんでした。

お優しいお嬢様は、わたくしまで悪評に巻き込まれることはないと、ご自分のことすら後回しになさって、ただの侍女でしかないわたくしのことを慮ってくださった。

身に余る光栄でございました。

それが招いたのが、悔やんでも悔やみきれない、わたくしの油断です。


そも、わたくしはお嬢様のためだけの侍女です。そして同時に、護衛でもあります。

お嬢様が学園を卒業なさる十八歳になられたころには、わたくしは一人で十分すぎるほど血に狂った吸血鬼を討伐できるようになっており、だからこそお嬢様のお側に仕えるのはわたくしだけになっておりましたが、それがあだとなりました。


そうでございますとも。

学園で孤立するお嬢様の味方になれるのはわたくしだけだったのに、お嬢様が望むのならばとお嬢様のお側を離れたわたくしは、なんと愚かだったのでしょう。


夜のとばりがすっかり降りた星空の下、ひとりになりたいとおっしゃるお嬢様に否やを唱えられず、わたくしが席を外したその後に、事件は起こりました。

ええ、そうです。中庭の東屋でひとり孤独に泣いていらしたお嬢様を、かねてからお嬢様に目を付けていたのだという吸血鬼達が襲ったのです。


ここで「お嬢様に目を付けるとはみどころがある吸血鬼でございますこと」なんて冗談を言う気はございませんとも。


お嬢様が通う学園は、昼間は人間の貴族子女が。そして夜間は、吸血鬼の貴族子女が通う学び舎でございました。

お嬢様が悲鳴を上げられ、わたくしが異変に気付いて東屋に走った時には、もう何もかもが遅かった。

ええ、ここからは、あなた様も知っての通り。


お嬢様は、うず高く積まれた吸血鬼どもの屍の中で、プラチナブロンドの髪と紅い瞳を持つ、それは優雅な美貌の青年に抱き上げられていらっしゃいました。


悔しいことに、ええ、ええ、もう本当に心の底から悔しいことに、わたくしははからずのその光景に見惚れてしまったのです。

月明りに浮かび上がる美貌の男女が、まるで誂えられた最高峰のビスクドールのようで……ええ、そうでございますね。よく覚えていらっしゃること。

わたくしはその感動に浸る間もなく、愛用の刀で青年に斬りかかっておりました。


お嬢様を放せ、と申し上げたつもりでしたが……ああ、獣の唸り声にしか聞こえなかったと?

ふふ、そうかもしれませんね。わたくしが人間でいられる理由は、お嬢様がご無事でいらっしゃることが大前提であったのですから。

そしてそれは今もなお何一つ変わっておりません。

わたくしのすべては、お嬢様のためにございます。


お嬢様のことを抱き上げている男が吸血鬼、それも相当どころではないほどの高位に位置する希少種であることは誰の目にも明らかでございました。

今考えてみれば、お嬢様のことをあの男が助けたことくらい、すぐに理解できそうなものですが、わたくし、お嬢様の前ではいつだって冷静ではいられないのです。

推しの前では誰しもがそうなるものでございましょう。


だからこそわたくしはお嬢様を奪い返すために地を蹴りました。

わたくしのその全身全霊をかけた刀を受け止めてくださいやがったのが、あなた様だったことも、もちろんよぉく覚えておりますとも。

黒髪に金の目を持つあなた様もまたいと尊き希少種の血族であることは理解できましたが、だからと言ってわたくしが退く理由などどこにもございません。


お嬢様。お嬢様。お嬢様。

衝動だけがわたくしを突き動かし、刀を操る手は時間を忘れました。

これでもわたくし、不遜な言いぶりになりますが、当時は特に、それなり以上に人間の中では強い方であるという自覚がございました。それこそ、教会の狩人達から正式な引き抜きの申し出を頂戴するくらいには。

まあ即お断りしましたけれども。お嬢様の侍女を辞すだなんて、そんなこと、神にすすめられようとも、魔に誘われようとも、このわたくしは決して許すはずがございません。


あの時のことを思い返すと、あなた様に手加減されていたことが今ならばよく解ります。貴族の一門に属するでもない侍女の小娘一人、あなた様の地位と力があれば手慰みにひねり潰してしまったとしても誰にも文句は言えなかったでしょうに。


ああ、いつもの気まぐれでいらっしゃると。

なるほど、本当にいつまで経っても腹立たしいお方でございますこと。


とはいえ、もっと腹立たしいのは、あの男にございます。

あなた様のご親友であらせされる、吸血種の中でも名門中の名門の一族、ナーダシュディ家のフィレンツ様。

お嬢様をちっとも解放せず抱き上げたまま、わたくし達の鍔迫り合いを眺めていらした、この上なく憎たらしい男!


お嬢様が止めてくださらなかったら、それこそあなた様が飽きるまでわたくし達は刃を交わしていたことでしょう。

けれどお嬢様が声を上げてくださり、自らフィレンツ様とあなた様に「危ないところを助けてくださり、誠にありがとうございます」とカーテシーを贈られたからこそ、わたくしはようやく冷静さを取り戻しました。


ふふ、ふ。今更ですけれど、わたくしからもお礼を言わせてくださいませ。

もう五十年も前の話ですけれど、悠久を生きるあなた様達にとってはまばたきのような時間でしょう?


あの時素直にわたくしも心からの謝礼を捧げるべきでしたのに、お嬢様のことばかりで頭がいっぱいになっていたわたくしは、さぞかし失礼な真似をしたことと存じます。

心からのお詫びと、感謝を、今ここで……まあ、いらない、だなんて。

珍しくわたくしが素直になっておりますのに、本当に相変わらずでいらっしゃる。


こんな老婆の昔話に付き合ってくださっているのですもの。

ついでにもう少し手心を加えてくださってもよろしいのではないですか?

……あらまあ、残念。心にもないことを言うな? なるほど、ごもっとも。


――――あの夜のことを、どう受け止めればいいのか。

本当は、わたくし、今でも解らないままなのです。もう五十年も経ちますのに、ずっと迷い続けております。

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