【1】
わたくし、時村世津の人生というものは、他人からしてみればおそらく、誰しもに哀れまれるべきみじめなものであったのでしょう。
今年の冬至で、齢七十を迎えるはずであったこのわたくし。
随分と長生きしたものにございます。
こんなろくでもない人生、とうの昔に終止符を打つべきであったと、誰に指摘されずとも理解していたつもりであったというのに……ふふ、わたくしも、まだまだにございました。
わたくしはおろかにも、この我ながらみじめでむごたらしい人生においてでも、生きたいと願うだけの理由を抱えてしまっていたのですから。
そう、わたくしの光、わたくしの希望、わたくしの生きる理由、わたくしのすべて。
――――エルジェーベト・バートリ様。
わたくしがお仕えする、唯一無二のお嬢様。
美しく、愛らしく、誇り高く、慈悲深い、どれだけ言葉を尽くしても足りないほどに誰よりもいとおしい、それはそれは素晴らしい貴婦人。
お嬢様との出会いは、わたくしが十三を数えたころにさかのぼります。
極東の島国から人買いにさらわれてこの大陸にやってきた私は、物珍しい商品として闇市場に並べられました。
あら、どうなさいましたの、そのお顔は。わたくしが東国出身であることは、あなた様とてご存知のはずで……ああ、そうでございますね、確かに奴隷商人に捕まっていた件については黙秘しておりましたわ。わざわざあなた様に説明する必要性を一切感じておりませんでしたし、わたくしの愛するお嬢様は、わたくしがあの頃のことを話すどころか思い出そうとすることにすら悲しんでくださるお方ですもの。
ああ、なんてお優しいお嬢様。
わたくしのために心を砕いてくださって流すその涙、申し訳なくも、どれほど大きなダイヤモンドよりも価値のあるものに違いありません。
お嬢様、お嬢様、いとしいお嬢様、わたくし、生涯あなた様を推せる所存で――――とはさておいて、そうでしたね、ええ、とにもかくにも、その闇市場でわたくしを見つけてくださったのがお嬢様であったとは、もはやお察しの通りにございます。
ああ、勘違いなさらないでくださいませ。
あの清廉潔白を絵にかいたようなお嬢様が、闇市場などという汚れた場所に足を踏み入れるわけがないでしょう。
確かにお嬢様は少々うっかりさんでおてんばさんなところがございますが、それにしたっていくらなんでも一国の侯爵令嬢、それでなくたってたった七歳の少女が、自ら闇市場に赴くはずがありません。
わたくしとお嬢様の出会いは、ただの偶然に助けられたものにございます。
わたくしが奴隷商人の目を搔い潜って檻から逃げ出し、その先で逃げ込んだのが、バートリ家の避暑地の別荘だった、ただそれだけの偶然が、わたくしを救いました。
ああ、ああ、ああ、今でもまざまざと思い出せますとも。
中庭に忍び込んで震えるわたくしの前に、まばゆく光り輝く天使が現れた、あの瞬間のことを。
長く伸ばされた、陽光を紡いだかのような金の髪。
緑陰を閉じ込めたかのようなエメラルドの瞳。
何もかもがやわらかく美しいその少女こそ、当時たった七歳であったお嬢様……エルジェーベト・バートリ様にございました。
どこからどう見ても不審極まりない、汚れに汚れたわたくしめに、お嬢様はためらうことなく触れてくださいました。
「怪我をしているのかしら、黒猫さん」なんてわたくしなどには恐れ多い呼び名でわたくしを呼び、お嬢様は周囲の反対を押し切ってわたくしを保護し、風呂に入れ、怪我の手当てをして、そのままわたくしをお側に置いてくださるよう御父君たるバートリ侯爵様に願ってくださいました。
ふふふ、ええ、そうでございますね。
あの頃からお嬢様は少々変わっていらして、けれどその“変わった”ところはお嬢様の慈悲深い心の表れであり、だからこそ誰もが皆、お嬢様のことをお慕いし、そしてだからこそわたくしの存在を警戒していらっしゃいました。
愛娘のお願いといえど、バートリ侯爵様はさぞかし悩まれたことでしょう。
実際にわたくしがその悩まれる姿を拝見したわけではございませんが、聞くところによると、お嬢様はそれはそれは愛らしいあらゆる仕草と言葉で、わたくしのことを欲しがってくださったのだそうです…………はい? 自慢かって?
その通りですが何か。
わたくしのろくでもない人生において、数少なく誇れる事実ですもの、ここで強調せずしていつ強調すると言うのでしょう。
この! わたくしめが! あの女神のようなお嬢様に! 欲しいと! 思っていただけた!!
大切なことなので何度でも繰り返させていただきたい事実にございます。
ええ、もちろん心の底からうらやましがっていただいて構いませんとも。
あら、そんな言い方はないのではありませんか?
もうとっくの昔にお嬢様に篭絡されていらっしゃるくせにその言いぶり、わたくしはどうかと思いますわ……誤解を招くような言い方をするな?
あらまあ失礼いたしました。わざとです。
かくして晴れてお嬢様付の侍女となることが決定したとき、お嬢様が「あたくし、黒猫さんが飼いたかったの!」というあのお言葉と笑顔は、今もなおわたくしのお嬢様メモリーランキングに堂々ランクインしておりますわ。
それからの日々の、なんて輝かしく美しかったことか!
幸いなことにわたくしは東国でもそういう用途も持ち合わせて育てられておりましたら、侍女業をこなすにあたって不自由はありませんでしたし、何よりお嬢様のお側にいられるだけで、ただそれだけでわたくしは幸せだったのです。
ついでにお嬢様を狙う下郎どもをお片付けすることなんてたやすいことでございました。お嬢様を愛でるついでです。片手間です。
バートリ家を狙うのは政敵ばかりではないことは、ええ、もちろんあなた様もご存知でしょう?
はい、その通りです。夜の国の眷属たる吸血鬼の皆々様にとって、古くから連綿と紡がれてきた青き血の流れを汲むバートリ家のご令嬢の血は垂涎のご馳走にございます。
さすがわたくしのお嬢様。
血の一滴すら大粒のルビーよりも価値があるだなんて!
お嬢様のご出身の、バートリ侯爵家が忠誠を誓うエイブラハム国は、教会とではなく、吸血種との交流を重んじて発展してまいりました。
昼の申し子たる人間と、夜の眷属たる吸血鬼。
それぞれ世界を住み分けながら、互いの英知と利益を共有してきたのがエイブラハム国であるとは知っての通りでしょう。
人間は吸血鬼の食料となる血と、教会からの保護を約束した安寧の土地を吸血鬼側に提供し、そのかわりに吸血鬼は永い寿命の中から得た知恵と、人知を超えた武力を人間側に提供する。
その人間側が提供する血液が、吸血鬼にとっては特に貴族のものほど美味であるだなんて、どこまで本当であったのでしょうか。
ああ、お答えいただかなくて結構。どうせあなた様はそのお貴族様の血しか召し上がったことがないでしょう。最下層の食事なんて想像したこともないでしょう。責めているわけではございません。ただの事実です。
まあそんなことよりも、そこで問題となるのが、ええ、そうです。お嬢様でございました。
お嬢様はエイブラハム国の中でも名門中の名門のバートリ家のご令嬢。
その血の甘さはいかなるものかと、愚かに群がる下郎ども……失礼、吸血鬼の方々は、少なくはございませんでした。
正直に申し上げますと、大変いい迷惑でした。
わたくしが相応の訓練を受けた侍女でなかったら、お嬢様はとっくの昔に血を吸い尽くされてからからの干物になっていたに違いありません。
ええ、これはわたくしの自負にございます。わたくしこそがお嬢様をお守りしてきたのだという自負です。
あなた様になんと言われようとも、わたくしはお嬢様をお守りしてまいりました。だからこそわたくしに利用価値を見出してくださった、ご当主様をはじめとしたバートリ家の皆様は、わたくしのことを受け入れてくださったのですから。
そう、そうして、あの日が来ました。十五歳になられたお嬢様のご婚約が決まったのです。お相手は、エイブラハム国の王太子たるヴァン殿下。お嬢様と同い年の、まあまあ及第点をさしあげてもよろしいかと思われたお方です。
それがそもそもの間違いであったのだと、今ならば思えます。
いくら後悔しても、もはや取り戻せないのが後悔であるのだと、わたくしはあの一件において思い知らされました。