表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

雨の傷痕

作者: 中井 七瀬

ガラス窓、雨粒に街のネオンが滲んでいる。

一階の宝飾店の奥のエレベーターを降りた先に

隠れ家のような喫茶店があり、繁華街だというのに人はまばらだ。

喫茶店に入ると、いつも奥の席に着くのが癖になっていた。

人の目を気にする彼が好んだ席だ。

別れてからもう何年も経つというのに、と自分でも呆れてしまう。


ここは学生の街、おそらく大学生だろう。

若いウエイターがメニューを置いて頭を下げた。

ここ最近はこんな時間にひとりで喫茶店に入る時間などなかった。

パラパラとメニューを見てみたものの結局いつものようにアメリカンを注文する。

毎日飲むのが習慣になっているものの、私は香り以外は珈琲は苦手なのである。

苦味を嫌うようにアメリカンを注文し、香りだけを楽しんでいる。


喫茶店の中央にある六人掛けのソファーには

商談帰りだろうか、四人の男性が大きな声で話している。

ひときわ大きな声で話している年配の男性の横で若いスーツの男がウエイターを呼んでいた。

飲み会までの時間調整なのか、四人の男性の顔からは仕事の緊張は消え、どこか楽しそうだ。

金曜日の18時にはありふれた光景だろう


苦い味が押し寄せるような気がして私は視線をガラス窓に戻した。

夫と結婚する前は、私もスーツを着て働いていた。

しかし結婚相手の彼は夜勤があり食事の時間はまばらで

とてもフルタイムの仕事はできそうもなく、私はあっさりと退職をした。

流行りの求人サイトでパートの仕事を見つけ

今では週に三日ほど彼のシフトに合わせて働くだけだ。


以前は仕事に誇りもあった、勉強をして資格も取得し、一生を賭けようと思っていた。

だがそんな仕事を私はあっさり捨てた。

そう、彼が私を捨てたのと同じように。


あの日もこんな雨だった。

あの時は彼の車の助手席で、彼の言葉を聞きながら今日と同じように雨粒を眺めていた。

これが最後の恋だと思った。

たとえ一時間でも、隙間を縫うように彼と会っていた。

野心を隠さない彼が独立をした時は支えられるのは自分だけだと思っていた。

どこか彼の夢を支えている自分が誇らしく、家で彼の帰りを待つだけの女性に対して優越感を持っていたのだ。

「この会社が軌道に乗ったら結婚しよう」

薬指に光る指輪はない。

紙切れすらない私達を結ぶのは夢という名の口約束だけ。

だが叶った夢の先にあったはずの約束はいとも脆く

成功を掴んだ彼は私との約束を忘れた。

いつからか彼と会うのは一月に一度になった。

どこかで聞いた歌のように、私からは連絡できなかった。

彼の重荷にはなりたくなかったし、一番の理解者であるという自負だけは失いたくなかった。

来ない連絡を待って携帯を眺める夜。夜は長く、私の疑念を膨らませる。

会った時に責める私を彼は嫌い、別れはすぐそばまで忍び寄っていた。

妻の下に帰るわけでもなく、夜の店で派手に遊ぶようになった彼に私は

「いいよ、別れよう。でもこの十年は重いよ。

私も奥様に慰謝料を払う、だからあなたは家族に全てを話して」

私の一言に彼は激昂し、ガラス窓を殴った。

私に覆いかぶさるように伸びた腕の先の雨粒が震えて飛ぶ。

そして彼はガムを吐き出すように私を助手席から押し出した。

温い雨が髪を伝って、身体を這っては消えていった。

そんなことで自分の罪が流されるわけではないだろうに

私はそのままバス停のベンチで何時間も動けなかった。


私の十年は何の結実も、制裁すらもなくあっけなく終わった。

夢だと思うには長すぎたし、自分の肌は確実に時を経ていた。

35歳を過ぎてからの転職。

「結婚は?」と聞かれては苦笑いをしてやり過ごした。

「まだです」そんな強がりを言うのが精一杯だった。目の前の男性の目には誰にも選ばれなかった女が映っている。

毎日同じ時間の電車に乗って、同じ時間の電車で帰る。

制裁を受けていない、どこか逃げたような自分が惨めで月曜から金曜まで言われた仕事をして

土曜日と日曜日はぼんやり喫茶店で時間を潰した。

夜までつきあってくれる友達はいなくなっていた。

十年を過ごした恋人を失っても涙も出ない。

夢を見る無邪気ささえも失い、何も手には残らなかった。

時間の経過は私から肌の潤いと一緒に、純粋さも奪っていった。

結婚した友達と会うのが億劫になり、「しょうがない」と自分に言い聞かせ珈琲をすする時間だけを重ねていった。


さっきの若いウエイターが私の前にアメリカンと伝票を置いた。

これぐらいの時は自分の人生の先には必ず幸せが待っていると信じていた気がする。

そう思い、「ありがとう」と返した。

雨粒を見て、感傷に浸る今では涙も滲まない。

夢見る少女のままでは人生なんか歩けなかっただろう。

他人が望む自分を演じ、他人の目に映る自分を嫌った。

私は充分に今が幸せなのよと装って生きることでなんとか自分を保つ。

そして装った自分を自分でかばうのだ、だってしょうがないじゃないって。

こんなにも女はずぶとくなれるのだなと自嘲気味に笑う。


若いウエイターが新しく入ってきた客を迎える。

少し白髪の混じったその男性は私を見つけると手を振った。

彼と別れ抜殻のようになった私に神は恩情を与えたらしい。

奥の席に向かって歩いてくる夫は私に何があっても「よかった」と言ってくれる人だ。

私が夢にうなされていても「夢でよかった」。

私が入院した時も「生きててくれてよかった」。

「もう子供には恵まれないかもしれない」と私が言った時には「じゃあ二人で楽しく暮らせばいいよ」と言ってくれた。


彼は「待った?」と言いながらブルーのダウンを脱いだ。

「ここの珈琲美味しい?」珈琲好きの彼が聞く。

私が「お砂糖とミルク入れ過ぎてわからなくなっちゃった。でも甘くて美味しいよ」

そう言いながら笑い、ちょっとカップに口をつけた。

カップに隠すように滲んだ涙を隠す。

こんな私に与えられた神の恩情はこんなにも甘く温かく

嘘と打算に疲れて擦れた心を滲ませた。

待ち人がやってくる幸福を噛み締める。


彼は砂糖もミルクも入れずに珈琲を口に含んだ。

「美味しい?」私が聞くとミルクの入れ過ぎで白くなった私の珈琲を見て

「甘いの好きだからよかったね」と彼は笑った。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ