100 ある世界の結末⑤ 魔女の終わり
「お嬢様、着替えとお水を…あら?」
レナが頃合いを見、アリセレスの部屋に戻ると…既にヴェガは退出した後だった。
「ヴェガ君…気を遣ったのかしら? あ」
ひゅうっと冷たい風が通り抜け、慌てて窓を閉めた。机の上に置いてあった白い羽がはらはらと舞い上がり、眠るアリセレスの元に落ちた。
「また…眠られてしまったのね」
どこか苦しそうに眉を顰めて眠るアリセレスを見て、ふと一抹の不安のようなものがレナの身体を締め付ける。
「まだ熱が…お辛そう…」
(まさか、このまま二度と目が覚めないなんてことは…)
「早く…元気なが姿をお見せください、お嬢様…」
その頃、アリセレスは深く深い眠りの底で、夢を見ていた。
誰かと寄り添い、笑いあい、触れ合う。
どこか切なく、それは強烈な後悔と迷いを呼び戻し、ひどく苦しかった。
「魔女には、掟がある…」
魔女が知る認識では、人間から逸脱し大きな力を手に入れる代償として、『欲』と『愛情』を亡くしてしまう。
代わりに大きな役目と意味が与えられ、その『約束』を破ってしまった場合、父から賜った刻印が全身に広がり、やがて死に至るという。
(炎の音、風の音…それと)
カタカタと風で窓が小さく鳴る。
ふと、瞼を開くと暖炉の炎はゆらゆらと静かに揺れているのが見えた。
「暖かい…これが、人の体温というものか」
震える身体を包み込む逃れ難い暖かさと、怒涛のような不安と恐れと…同時に何かが満たされたような不可解な心に戦慄が走り抜ける。
「…ヒルデ?」
「大丈夫…まだ」
後ろから抱きすくめられ、首筋に優しいキスが落ちる。
(どこかで、何かが叫ぶ)
約束を、忘れるな と。
**
それから数日、何事もなくすごした。
相変わらずの吹雪で、風の音を聞きながら、寄り添う穏やかに時間が流れた。好きなものを聞いたり、他愛のない話をして。時折、口づけを求めても拒まれることはなかった。
自分だけが幸福を感じることが罪深く、なぜか後ろめて見えない何かから逃げたくような、そんな衝動にも駆られた。それでも、確実にその時間はそこにあって…そんな幸せに慣れなくて、時折どうしようもない位の不安に襲われることもあった。
少しずつ、幸福が自分に浸透してきたころ…彼女は、体調を崩すことが多くなる。
「大丈夫か?…何か薬を煎じる。どれがいい?」
「大丈夫、身体の中に流れる気が少し落ち着かないだけだから」
以前にも、そういうことがないわけでもなかったから、あまり気にしすぎないようにしていた。でも、もしかしたら自分は何か、重大な罪を犯してしまったのではないのか?そんな不安を抱くようになっていた。
雪よりも晴れる日が増え、春の気配が訪れてきた頃…隣で眠る彼女の首に、赤い線状のあざのようなものを見つけた。
「ヒルデ?これは」
伸ばした手は掬われ、視線を合わせて彼女はほほ笑む。
「さあ、雪が融けてきた。外に出よう?その前に、除雪をしないとならないな」
「……ああ」
それ以上は聞けなかった。…聞けば、何かが終わるような気がしたから。
「春が来た…暖かい風、少し冷えた空気。わらわの好きな季節だな。エルは?」
「僕は…そうだな、僕も。君はまだ、体調は良くないだろう?少しは僕も役に立たないと…」
「そう?…なら、任せた」
ざくざく、と少し硬くなった雪を削っていき、同時に魔法を使っては作業の効率を上げていく。昨年と比べて自身の成長をしみじみと感じ、充足感を感じた頃…覆われていた雪は格段に減り、開けた空間ができていた。
「あ…」
目の前を小さな花びらのような雪が舞い降りた。
太陽の光に照らされながら、冬の終わりを告げる最後の雪。それを見上げていると、上空から白い羽が舞い降りた。
(この羽根には見覚えがある)
案の上、上空を旋回する一羽のカラスが見えた。
カラスは二度、三度啼くとやがて人の姿に変えた。
「あんたは…この前の、セイフェス…だったか」
「やあ。…さすがに今日はいるだろう?彼女は」
親し気な言葉に不快感を感じつつ、どう答えようかと思案していると…みるみる、彼の表情は険しいものに変わった。
「何をした…?」
「何って…う?!」
突如、腹部に強烈な圧を感じ、雪の壁にたたきつけられる。
「何を…!」
「お前、彼女に何をしたかと聞いている!!」
「!!」
咄嗟に防御の姿勢をとるが間に合わない。
空中に漂う風が突如鋭い刃となり、エルの身体を引き裂いた。
「…ぐっ…う!!」
久々に感じる鋭い痛み。
だが、切り裂かれたはずの四肢は、まるで生き物のようにうねうねと動き、エルの身体へと戻っていく。
「…なんだと……」
「……ッごほ!」
急激な蘇生は体にかかる負担が大きく、しばらく動けずにいた。
何度か呼吸を整え、改めて白カラスの魔法使いの表情を見て、思わず固まった。それは、「憤怒」でもなく「嫌悪」でもなく…「驚愕」だった。
「もう、完成していたのか」ぽつりとそれだけ吐き捨てるように言うと、一度瞳を閉じ、ため息をつく。
(完成…だって?)
「…貴様は、何だ?」
「なに って…」
「魔女の不死の呪、害ある者どもの刻印…そして大勢の亡者共の気配。それだけでも、本来ならば既にこの世にいられないほどの穢れを受けている。それでもなお、存在を保てるなんて…」
「不死の…魔女の、まじない?」
思い出すのは、落日のあの日の母・アルミーダの狂ったような笑い声。
そして、過去の忌まわしい記憶だった。
「なぜ…お前のような者を、彼女は…憐れみか?それとも…」
「エル!!」
「!!」
そこへ、血相を変えて魔女がやって来た。
そのままエルを押しのけ、前に立つ。
「…白き審判。何をしにここへ?」
「……名も無き魔女よ、あなたはどうして…」
「わらわの勝手だろ… …っ?」
突然、ヒルデは膝をつく。
そしてそのまま、小さなうめき声をあげて、うずくまった。見れば、以前見た首筋に浮かんでいた赤い線状の痣が、どくどくと波打っている。
「‥‥これ はヒルデ…?」
「…っ近寄るな!!」
「‥‥え?」
「ほうっ…て、お け…!」
「そんなことできるわけ…」
手を伸ばしたエルを魔法で弾き飛ばし、セイフェスは倒れたヒルデの身体を支える。
「…なぜです。どうしてあなたほどの方が…」
「くっ…ぅ」
そして、それは始まる。
ぴし、と冷たい液体がエルの頬をかすめる。次の瞬間、ヒルデの全身に浮き出た赤いあざはひび割れ、赤い鮮血と共に飛び散った。
「ヒルデ…!ヒルデ!!!」
「よる な… これくらい へい」
「ヒルデ!!!」
ばたりと気絶するように倒れ込んでしまった魔女は、セイフェスの腕に抱かれ、寝台へと運ばれる。それを後ろから茫然と見ていた。やがてはっと我に返り、自分にかかった赤い液体を見る。
「血が…どうして急に、こんな」
ゾッとする。
また、一人になるのかと。永遠の時間を、ただただ溶けていくように過ごさなければならないのか?そんな思いが去来する。しかし、それは同時にエルが自分の身勝手を思い知る結果となってしまった。
(僕は…ただ、一人になりたくないから、彼女を?)
「わからないのか?」
「…え?」
「私は貴様に告げたはず。彼女に愛を求めるな、欲望を抱くなと」
「欲望…」
どきりとした。
自分の行いを顧み、そして犯した行為に。
「魔女と賢者は、【欲】を持たない。自らの魔力の向上を対価として差し出しているから…それが【契約】つまり【約束】となる」
「でも、彼女は…っ」
「だが時に、魔女の想いとは裏腹に、そういうものを求める輩もいる。お前のように」
「…僕、は。彼女を、ヒルデを愛して…彼女も」
「どんな理由であれ、貴様は、彼女の魔女としての運命を永遠に断ち切った。そして、魔女も…」
「!!!」
「この赤い亀裂は約束を反故にした魔女たちに課せられた【罰】‥‥彼女は、もう」
「そん…な、助かる方法は…っ」
「ないよ」
凛とした声が部屋に響く。
ばっと振り返るセイフェスとエルを見て、魔女は小さく笑った。
「大仰だな。ゆっくり眠れもしない」
「…名も無き魔女よ」
「あなたが来たのは、そういう理由だろう?神の裁判官、セイフェスよ」
「……」セイフェスは眼鏡をクイ、とあげ、視線を外した。
「約束を破った魔女は…神の刻印が全身を切り裂き、その傷はやがて心臓に至る。その後の運命は、生命の歯車に乗ることもできず、ただ消えゆくか、害ある者どもに魂を売って奴らと同じ場所に堕ちるか…二つに一つ」
きっぱりと言い放つセイフェスの言葉に、エルは言葉を失う。
しかし、魔女の表情はいたって普通だった。
「…生命を父の元へ送るのがあなた達魔女の仕事なら、私は貴方たち魔女を、どんな形であれ見届けるのが仕事です」
「ああ、だけどわらわは…隣人共に魂を売るくらいなら、潔く消滅する道を選ぶ」
「!ヒルデ…」
「すまないな、エル。……一度、誰かの愛を受け止めるのも、悪くない、と。そう思ってしまった。過ごした日々は、多くないけれど…少しだけ、お前が求める【愛】という心がわかったような気がするよ」
ぎゅっと握りしめた手を、エルは縋るように胸に抱く。
「ごめん…僕は、僕の勝手な想いを、君は…!」
「わらわは…遠い昔に、ソレを失ってしまった。だが、それを今、こうして思い出すことができた」
魔女はふと、ヒルデという人間が父の元へ赴き、対峙したときのことを思い出す。
力強く力が欲しい、心などいらない。そう答えた自分がたどる結末は、父なりに与えてくれた【教え】なのかもしれない。
「本当は、お前を救ってやりたかった。その穢れた呪いか…」
「…今は少しお休みください」
言葉を遮るようにセイフェスは魔女の顔を大きな手のひらで覆った。
**
(そう…私は、彼を助けたかった)
『彼女』は深い再び長い眠りの中、夢を見る。
「約束を忘れるな」
「それが、魔女の掟」
声なき声が頭に響き、全身を走る激痛と…耐え難い苦痛。
体中を暴れる魔力の流れは、水が満杯にたまった袋を突き破るように、ごうごうと音を立てて流れていく。
「ごめん…もう、こうするしか」
(また、泣いてる…)
ゆっくりと倒れながら、空から降りしきる雪を見ていると『彼』は涙を流し、その場に崩れた。
「ごめん!!ヒルデ…すまない…!必ず、僕が‥‥」
(瞼が重い…このまま眠ってしまえば、こいつは)
「泣くな。エル」
差し出した手で青い瞳から流れる涙を掬うと、彼はその手に何度も口づけた。
「必ず、迎えに行く。どんな場所でも、絶対に、思い出すから…!」
(ああ、そうか…やはり、お前が、わらわをあの場所に呼んだのか)
その世界の夢は、そこで終わる。
その後に残るのは…もう、何もない、虚無の闇だった。




