92 ある世界の結末③ 魔女の話
彼女に名前はない。
本当はあるけれど、それは大きな力と引き換えに手放した。
ヒトとして、魔法を極めた者だけが行ける場所がある。それは、世界の中心にあるといわれ、そこに至るまでの道のりは誰も知らない。ひたすらに求め続け、知恵を使い、ようやく到達できるという。
ただ、求めた者が全員たどり着けるとは限らない。それほどまでにその道は複雑で、何十年かかっても見つけられる保証がない場所である。
彼女も同様で、幾つもの夜を超え、ただひたすらにその場所を求めた。雨の日も、雪の日も、風の日も…歩き続け、とうとうたどり着く。
そう、本当の意味で選ばれたごくわずかな人間しか到着できない…人々は、その場所を畏怖を込めて『世界の涯ヘイディーズ』と呼んでいる。
「お前が望むのはなんだ?」
「私が望むのは、多くの人を助ける力です。魔法は全ての人を幸せにすることがきっとできるから」
ようやく探し出した道の先で、問われた言葉に迷いはなかった。
けれど、『父』は沈黙した。
「…力だけが欲しいのか?」
「?…わたしには知恵があります。なのに、力がなければそれをうまく扱えません」
「力を得て何をする?」
「多くの人を救いたい。困っている人、心が弱っている人…全ての人に、何かしら力になれればと思います!!」
「……そうか、わかった。ならば、お前には叡智と強い力、そして知識を授けよう」
「ありがとうございます!!」
「だが…」
授かった力の証として、背中に大きな紋章を得た。
同時に、全てが変化し、心と体が真っ白になった。…何かが欠落してしまったような、不思議な喪失感よりも、みなぎる力を感じる心が勝り…亡くしたモノは、どうでもよくなった。
そして、その力を確かめるために旅をした。
いくつもの四季をめぐり、心の赴くままに旅をする。
困っている人を助けては、時には荒れ狂う災害で苦しみ人々に知恵を与えたり、姿の見えない害ある住人達を退治したり…たくさんの人を救っていく。その為に得た力だ。それを使って人を助けることに抵抗はなかった。
報酬は求めず、ただ生きている全ての人のために。
そうしながらも、生きている人間のみならず消えゆく魂の行く末を導いては、次の生へと向かう旅へ送り出す。
それが、名も無き魔女の望む生き方であり、力を望んだ結果だった。
けれど…元は人間だった者が永遠の命を経て、『人間』を辞め…他者と関わるのは、とても辛いものだと実感する。
親しくした人たちとの別れ…避けられない運命の枠から外れた魔女たちは、なすすべもなく見送ることしかできない。
100年を過ぎたのち、突然悟る。
「これが、力を得た代償…ということか」
そして、数々の伝説を遺し、名も無き魔女は隠居を決意する。
人とのかかわりを避け、山奥で静かに過ごし、迷った魂たちを導く。趣味で薬草を育てては、近隣の村にひっそりと送り届けたり、野菜を育てては生きる喜びを彼らから通じて実感していく。
そうして過ごしていき…ある冬の日、その人間がやって来た。
纏う気配は仄暗く、穢れた呪われた魂。
「重症だな…これは、もう」
重症なのは、身体ではない。
稀に見ない程強烈な解除できない呪い、多くの怨嗟、そして怨恨を一身に受けている。
何がどうなってそうなったのかわからないが、この魂が例えば何かしらの理由で死を迎えたとして、次の生に向かうのは恐らく不可能に近い。闇に堕ちて跡形もなく消えるか、永遠にさまようことになるか…
これほどまでに穢れた魂は、今までに見たことがなかった。
(こんなの、癒せるわけが…かといって、見捨てられない。全く、関わったわらわにすらどんな災いが降りかかるかわからない…けれど)
ずるずると引きずり、自室を運ぶ。どうしたって放っておくことなどができなかった。
…寂しかったのか?いいや、それ以上に、彼女自身既に『終わり』を望んでいたのだろう。
今思えば、それすら運命がひき起こした結末の引鉄だったのかもしれない。
「ひとまず、寝かせておいて…服も着替えさせるべきか?」
纏う服は薄汚れて元の色すら判別できない。ただ、元は高級な生地だったのか、かろうじて原型はとどめている。それをはがして改めて繕い生地を足し、こっそりふもとに赴き生地を新調する。
ぼさぼさの髪と顔を覆う髭は放っておき、目を覚ますのを待つ。
その間、呪いの元を探ったりしてみたが、その正体ははっきりとわからなかった。ただ、微量な魔力と、呪力の気配はどうやらどこかの魔女のものであり、『魔法』らしいということだけ。そして、それを解呪に至るには、相当難しいということだけだった。
そうこうしている内に冬は本格的なものとなり、名も無き魔女はしばらく床で寝ることを余儀なくされたのだった。
そして、一週間を過ぎたのちのこと。
「うう…」
「!」
小さなうめき声と共に、青い瞳がしぱしぱと瞬いた。虚ろを見ていた瞳は魔女の赤い瞳とぶつかる。
「起きたか!」
「…ゆ め?」
見知らぬ女性の声と、ふわりと暖かい手が目を覆う。そこに敵意もなく、ただ静かな気配だけが漂っていた。
「ああ、まだ寝てていい。疲れているだろう?今は休め」
そのままずるずると睡魔に引き込まれ、彼は再び眠り込んだ。
次に目が覚めた時、ボロボロだった衣服は全く別の綺麗なものに取り換えられていた。
「洗い立ての…香り」
そして、鼻をくすぐる食べ物の匂いと、とんとんと、まな板をたたく音。暖かく少しだけ湿り気を含んだ空気は居心地がよく、なんとも言えない幸福感が胸に広がっていく。
「気が付いたな」
「……私は」
「腹は減ってるか?腸詰と、干し肉のストックもお替りもあるから、ゆっくり食べるとよい」
そうやって差し出された盆には、少し硬いパンとバター、トマトのシチュー、少しの肉がよそわれた。ぼうっとしながらそれを見ていると、不意に自分の腹の音で目が覚めた。
ふっと笑う気配がしたかと思うと、目の前には知らない女性がこちらを見てほほ笑んでいた。
(瞳の色こそ違えど、金色の髪は…彼女をおもいだす)
記憶の片隅で浮かんだ影は、まるで実感がなく、遠い昔のことのように思えた。
「食欲はあるようだ」
「…あなたは、食べないのか?」
「食べなくても平気だ。わらわは魔女だから」
金色の髪を一括りにまとめ、赤い瞳を穏やかに細めると、耳に付けていた黒いイヤリングがゆれる。
「…魔女?魔女って、あの…」
「そう。お前、名前は?」
彼女の問いにためらいつつも、答えた。
「…エル」
「ふうん、随分と偉そうな名前だな」
「偉そう?」
「うん」
「あなたは?」
「ん?…ああ、私は名前など、とうに忘れた。名前は持たない」
「忘れた?」
「必要がないから。こう見えてもう100歳を超えたババアだ」
「……」
「魔女には命の終わりがない。だが、移ろう世界を見ているのは、それはそれで楽しいものだ。…同じ時間というものは存在しない。常に変化し続けるものだから」
その言葉が、時間という概念に絶望していた彼にとっては、まるで一縷の希望のような答えだった。
「死ななくて…苦しく、ないのか」
「苦しい?考えたこともなかった」
意を決して聞いた問も、魔女はこともなげに笑って答える。
「…魔女は長い時を生き、終わらない役目を持っている。わらわはその役目を全うするだけだ」
「役目…どんな?」
「魂を救う…死者の番人だ。おや、もう、平らげたか」
するすると入っていくスープの皿は、いつの間にか空になっていた。
魔女はその皿をそっととると、新たによそってくれた。
「うまいか?」
「…ああ、不思議な味がする」
「不思議な味?」
「薬?のような…変わった苦み?が」
「それは、美味しいのか、そうでないのか?」
「ええと、一応美味しい、と思う」
「一応ね…」
少しむっとしたように言うと、軽く微笑んだ。
「まあいい。存外、誰かがよろこんで食べてくれているのを見るのは、嬉しいものだな」
「あなたは一人、なのか?」
「ここは辺境、魔女は人間と関わらないようひっそりと生きていくものだ」
「…寂しくはないのか」
「それが、魔女だ」
「なら、私の事も放っておけばいいものを」
「そういうわけにはいかない。困っている人を助けるのは当然だし、お前のような傷ついた魂は、つかの間でも休息が必要だろう?」
「……あなたのことは、なんて呼べばいい?」
その問いに、彼女は驚いたように目を見開き…やがて声をあげて笑った。
「あはは!どうしても呼びたければ、魔女とでも呼べばいい」
「なぜ笑う」
「いや、久々に名を聞かれたなあ、と。…ふふ、エル。今は取り合えずゆっくり休むといいい」
「…でも」
「ちなみに、ご覧の通り、外は雪で埋まっているから。出ていくのは至難の業だ。…諦めろ」
言葉通り、小さな出窓を覆うように雪が積もっている。
彼女は、彼に生きろ、とも死ねとも言わなかった。…そして、出て行け、とも。
「わかった…でも、何か手伝うことがあれば、何でもする」
「そうか?ならば、今後に期待しようか。だがまずその前に…」
「…?」
「その髭と髪をどうにかしろ。…見苦しい」
「は、はい…」
そうして、彼女はただ、静かにゆっくりと共に時間を過ごすことを彼に許した。
彼女は気高く、誇り高くていて、美しく…自由だった。そんな彼女に惹かれていくのは当然のようで、ごく自然のことのように彼は受け入れた。
(…何も望んでいない。望めるわけがない)
そして、雪が融けた。




