7物にも建物にも、魂は宿るもの
ふっと息を吐くと、白い煙が空を舞う。
名門ロイセント家で最も高い地位にあるリカルド・ヴィエル・ロイセントは、煙草の煙をぼうっと見ていた。
(…エスメラルダ、か。もうどれくらい顔を合わせていないのだろうか)
まさか、あのアリセレスが自ら母に会いたい、などと言ってくるとは…想像もしていなかった。エスメラルダとリカルドが初めて顔を合わせたのは、リカルドが23、エスメラルダが16になったばかりの春の事だった。
色が白く、射貫くような赤い瞳が特徴の、ロイセントの黄金とはまた違う…はちみつ色の髪の少女だった。
当時、二代目の女性伯爵の犯した醜聞が発端で、ロイセント家の名声は地に堕ち掛けていた時だった。業務に追われ、目まぐるしく変わる日々に完全に疲弊していた頃。
『妻』などという存在はリカルドにとっては足枷であり、不要な心的負担の要因の一つに過ぎない。
「なぜあなたが私の妻に選ばれたかわかるか?」
「え?」
「あなたの血統は、古びたとはいえ、歴史だけなら我がロイセント家に劣らない。それだけだ」
「……」
「さっさと子を成してさえくれれば、あとはあなたの好きなようにするといい」
これは、昔からある『貴族同士の結婚』に過ぎない。
愛する者同士が結ばれる…なんて、そんなものは夢物語。レスカーラ王国では、『情報』と『噂』、それに『名声』が最も重視されている。それは全てを網羅した者が有利に働く小国。
互いに、選択の余地などありはしなかった。
(今さら、どうしろと…)
目の前にある書類の束を見て一度ため息をつき…再び机に向かう。
「閣下、食事はどうされますか?」
「…いい、構わない」
「ですが、少しでも何か召し上がらないと」
若くして公爵補佐官についたクロイは、心配そうにこちらを見た。
すると、ほどなくして執事が顔を真っ青にしてやってきた。
「だ、旦那様!」
「…なんだ騒々しい」
「お、お嬢様が!」
「…アリセレス?」
(…ただでさえ疲れているというのに…!)
大きくため息をつくと、眉間にしわがぐっとできる。その名前を聞くだけで疲労感が倍増する。
「また…あの娘、何をした?!」
「そ…それが、北の邸で…倒られたと連絡が」
「…!!」
**
「よし、ここまで磨けば大丈夫ね!」
「ここの飾りは全部綺麗よ!」
なにやら楽しそうな声が聞こえる。
ゆっくりと瞳を開けると、目の前に、キラキラと輝くシャンデリアの光が目に飛び込んできた。
(…ここは?)
目を何度かぱちくりとさせ、辺りをうかがう。
「ああ忙しい、忙しい。もうすぐ奥様が到着されるわ!」
ばたばたと向こうから一人のメイドが走ってきて…その後も何人もすぐ横を走り抜けていった。
(奥様?…というか、ここは)
顔を見上げると、階段いっぱいを埋め尽くすくらいの大きさのシャンデリア。緩やかな線を描く大階段を登っていくと、自分の身長の何倍もありそうな大きな扉の前に立つ。
…どうやら、ここはノーザン・クロスの邸に間違いないようだが、何か違和感がある。
(そうか、わらわが見た時よりも綺麗なのか?!)
壁紙は勿論、絨毯もふかふかで真新しい。そして、扉にも傷一つなく、まるで新調されたばかりのようにつやつやの表面は、触ると手垢が付きそうで、思わず手をひっこめた。
(これは…もしや過去の景色?何だってこんな)
もしかしたら、これは邸の記憶かもしれない。
物には魂が宿るという。それは、建物もしかり。そう思うと、色々な状況に合点がいく。
綺麗な壁、たくさんの使用人達、真新しい家具の数々。
「奥様が到着されます!皆さん、お迎えしましょう!」
ぱんぱん、と執事らしき男性が手をたたく。
…どうやら、自分の姿は見えていないらしい。アリセレスはそっと執事の背後に回ると、その様子をじっと見つめた。
(奥様…さて、どの奥様か?)
やがて、玄関の外から馬のいななきが聞こえ、にわかに騒がしくなった。
そして、扉が開いてやってきたのは…目の覚めるような見事な金髪に、バラ色の瞳。自信ありげにキラキラとした眼差しの女性の後をついていくのは…どうやら恋人のようだ。
「ふう、やっと到着したわ…」
「お待ちしておりました。ミレディ」
「ありがとう、…あら。ステキなお邸だこと!…ねえ、見て!コールズ」
「ああ、でも君の美しさに比べたら、黄金の調度品もかすんでしまうよ」
(…なんだこいつ。男の趣味、わっる)
歯の浮くようなあざといセリフだが、顔だけは美しい。…もしかしなくても、このご婦人は面食いなのかもしれないな、などと冷めた目で見つめてしまう。いわゆる『ヒモ』という言葉がしっくりくる関係のようだ。
「さあ、まずは寝室ね。案内して頂戴、ロメイ!」
「はい、かしこまりました」
あの黄金の髪、もしかしてどこかの代のロイセントの長女か?
アリセレスの記憶では、このロイセントは女だろうが男だろうが、黄金の髪を持つ嫡子を後継に決めていた時代があったようだ。…その頃の話だろうか。
男性の場合はそのままだが、女性の場合は婿を取ることが多い。
「デリタ様。…ようこそ、ノーザンクロスの邸に」
「ええ。ありがとう」
そう言って藍色のドレスに身を包んだデリタ夫人はほほ笑んだ。デリタ夫人となると、例の二代前の女公爵の名前。
つまり…これから事件が起きる、ということになる。
(まあ…何となく、この優男を見たら、予想できるような…)
寝室とやらに直行する二人のカップルを見ながら、ため息をつくと…一瞬、くらりと眼前の光景が歪んだ。そして…
「きゃあああーーー!!!」
「!!」
瞬いた瞬間、場面はどこかの寝室に変わっていた。絹を裂くような叫び声と共に、むわっと何かの異臭を感じた。
(この匂い…確か、母君の寝室で)
振り返ってみて、その正体に青ざめた。
血みどろの下着姿で床に倒れる金髪の女性…もしかしなくても、これはデリタ夫人だろう。
「…血の匂い、じゃあここは…」
そして、寝台の上で腰を抜かしているのは…先ほどのパッとしない紐男、と…ナイフを持ってぜえぜえと荒い息を吐く、一人の背の高いメイド。
「あ…あ ああ、な なんてこと を」
「これで、お約束は果たしましたわ…コールズ様…」
血まみれのメイドがにっこりとほほ笑む。
(…うわあ、何だこの修羅場は)
メイド達がそろって口を閉ざした例の『事件』…醜聞。
それは、いわゆる痴情のもつれという奴だった。
「ああ、これで、一緒になれま…」
「うわあああ!!よ、よるな人殺し!!!」
メイドの女は、ナイフを投げ捨てると、よろよろと婿殿に近づき、抱き着いた。しかし、ヒモ殿はすぐさまメイドの手を払いのけ、こともあろうか、倒れるデリア夫人のところに突き飛ばした。
「…きゃ、きゃあああ!!」
横たわる身体に躓き、メイドは血の海に尻餅をついてしまう。それを静観しながら、思わず顔をそむけてしまう。
(これは…トラウマレベルの事件だな。)
「お、おお俺は!何も知らん!!お前が勝手に暴走して殺したんだ!!!お オレは悪くない!!」
「そんな…どうして この女を手にかけたら…一緒になろうって」
「近づくな!!!」
「…そんな、そんな!あんまりよぉ!!」
「やめろ、うわ、うわあああ!!」
うわ、最低だ、この男。
見ていられず、思わず目と耳を覆う。…この先の続きは見たくない。
「…あの部屋の床にうごめく黒い塊…もしや、この者たちの」
足元に転がる、黒い塊と…そしてもう一人。
「あのメイド…」
母の世話をしている背の高いメイド、あれは…人間ではなく、ジーナの言う『化け物』とやらの正体なのだろうか?
「アリセレス!!!」
「!!!」
本日再びの覚醒。
…今回は、ベッドの上、だ。そして、のぞき込むのは。
「…あ」
「全く…何をしている!!!」
そんな頭ごなしに怒鳴らずとも。こちとらまだ病人だぞ。
「公爵閣下」
うおお、くらくらする。
あ、そうだ。ジーナを浄化させて…そのまま力尽きた、ということか。
「たったあれだけで…」
うーん…魔力はあっても、使える技もなければ術もないということを…もっと自覚すべきだな。
魔女のままだったら、あの程度で気絶などするはずもない。
「あ…まだ起き上がっては」
「おい、医者。…娘の具合はどうだ」
「…病気ではございません。ただお疲れに」
キルケの父がそう言った瞬間、なぜか公爵の目が光り、そして…手をあげた。
「!!」
「この馬鹿者!!」
マズイ、ぶたれる…そう思った瞬間、目の前に小さな影が躍り出た。
バチン!!
乾いた音が部屋に響く。恐るおそる目を開くと…そこにいたのは灰色の髪の少年。
「いたた…」
「き、キルケ?!」
こいつ、まさかわらわをかばったのか?
「なんだ…この小汚い子供は!」
再び手を上げようとした父を見て、わらわは思わずキルケを突き飛ばした。
キョトンとするキルケと目が合うが、そのまま公爵をにらみつけ、飛んできた平手打ちを甘んじて受けた。
「お、おお嬢様?!」
「…アリセレス!!」
レナの悲鳴じみた声と共に、キルケが泣きそうな声で叫んだのが聞こえた。
「アリセレス…何をしてる?!」
「何って…公爵様が理由もなく子供に手を上げようとしたので、それを止めたまでです!」
「何…だと?!」
ああもう、何なんだこいつは!!この程度でぎゃあぎゃあ言いおって!!
「それよりもどういうつもりだ公爵!!!こんな汚くて古くて不健康そうなところにお母さまを閉じ込めるなんて!!これじゃまるで…!!」
「…うるさい!!うるさい!!!!黙れアリセレス!!!」
「……は?」
突然激昂する公爵に、言葉を失う。…様子がおかしい。集中してにらみつけると…怒りをあらわにして喚く公爵の背後に、ゆらりと黄金の髪の女性が重なる。
(まさか…デリタ公爵?)
全てつながってるのか?そう感じた瞬間、ぞっとした。