75 ドロレスの見る、未来の破片
「あのね、キルケ兄ちゃん。今日お姉ちゃん来るって」
「……えっ?」
ドロレスが突然そう言ったのは、キルケが洗濯物を干し終えたばかりの事だった。
「おねえちゃんて、あの あ ああっ …アリス?」
「うん。あ、ほら来た」
「えーーーーー?!!」
鳴り響いたベルの音に飛び上がって驚いたのち、まず鏡を見て自分の姿を見、更に慌てて自室に駆け込んだ。
「嘘だろ?!今のオレ、ただのモサい野郎じゃんっ!!」
「はーい!今出るね」
「で、出ちゃダメ!!!まだダメだってドリ―――!あ、部屋も汚っ!!顔やっばぁ!!!」
ドロレスがパタパタと玄関に赴くと、扉を開き、二人を招き入れた。
「お姉ちゃん!こんにちは!いらっしゃい」
「こんにちは、ドリー。ね、甘い物は好き?」
「うん!」
「ハイ、お土産。みんなで食べよ?」
「ありがとうーおにーちゃーん!ケーキ貰ったよ!」
閉じられたドアの向こうのガタン、バタンと大騒ぎの音に、思わずアリセレスは首を傾げた。
「?…何かあったのか?」
「くっくっ…成人男性ってのは乙女の準備と同じくらい、大変だよなー」
「何それ?ヴェガ」
「アリス、少し待ってやろう。…初めまして、お嬢さんがドロレス?」
視線を合わせるようにしゃがむと、ドロレスの大きな赤い目が瞬いた。その後一瞬、何かに怯えるような表情をした。
「…お兄ちゃん、だあれ?」
「俺の名前はヴェガ。アリスの友人なんだ」
「…ヴェガ?それ、後ろのお兄ちゃんの名前でしょう?」
「え?」
「ドロレス、あの」
フォローすべきか否か。アリセレスは少し悩むが、ヴェガはやんわり笑った。
「見えるんだ?…俺はあいにく見えないんだけど、彼は笑ってるかい?」
「うん、にこにこしてる。お兄ちゃんと一緒で楽しいって言ってるよ」
「ならよかった。…そうか、声も聞こえるのか。これは内緒だけど、本当は俺。ケン、っていうんだ」
「…ケンお兄ちゃん?」
「うん。これは、秘密、な?」
すっと人差し指を立てて口元に当てると、ドロレスもその真似をした。
「うん!ないしょ」
「あれ?!!」
「ん?」
「なんだよ、アリス一人じゃないのか~」
やって来たのは、キルケだった。…顔はすっきり、ぼさぼさだった髪は一括りにまとめて後ろで縛っている。
「時間を稼いでやった俺に感謝しろよ」
「ってあれ?…お前どっかで…あ!!まさか!!赤髪の坊ちゃんか?!」
「そ、そういう呼び方はやめろ」
「マジ?!生きてたんだ!!」
バシバシと肩をたたくと、ケンは呆れたように笑い、二人で手をたたき合った。
その様子を見て、アリセレスはほっとしたように笑った。
「お姉ちゃん、良かったね」
「ん?…そうだね」
こうして、幼い頃に交わした約束は、いまひとつ、果たされたのだ。
「どお?キルケとはうまくやってる?」
「うん!キルケ兄ちゃんて、実は料理がすっごく上手なんだよ!ね!」
「ん?へへ。一人暮らしは長かったしな~料理ってさ、なんかこう道具組み立てるのに似てるんだよな!」
「道具って…そ、そういうもの?」
ドロレスの様子をちらりと見る。
よく見れば、以前見た時よりも肉付きも良くなり、笑顔が良く見られるようになった。そう言えば、以前キルケも孤児院にいたと聞いてことがあるので、年下の面倒の見方を分かっているのかもしれない。
(案外、うまくやってるんだな)
「料理かあ…私は、作るとなぜか薬草っぽい味になってしまうんだよな」
そう、何を作っても、なぜか非情に健康的ではあるものの、とても人に食わせられたものじゃないものが出来上がるのだ。
「うーん…俺は、イノシシ鍋とか、鳥鍋とかかな。あと、肉を捌くのと、血抜きは得意かな」
「お、男らしい料理というか、鍋以外ないのか…?」
そんな他愛もない会話をしていると、ふとアリセレスは先ほどの二人の男女の事を思い出す。
「そう言えば…さっき、外で銀髪の綺麗な兄妹?を見た」
「ああ…ノーヴェラさんの事かな」
「ノーヴェラ?」
「うん。最近越して来たみたいなんだ。確か、兄のキュアンと、妹のフィアネス」
「…どんな人?」
「え?さあ……たまに出る時挨拶するくらいだし」
すると、ケンは頬杖をついて足を組み、キルケを見た。
「…キルケ、気をつけろよ。なんかお前、軽く篭絡されそう」
「ろ?!…何言ってるんだよ~俺は、そのぉ えっと」
「お姉ちゃんが一番だよね!」
「え?!ま、まあね?!アリス程、その美人でもないし!」
「その言い方はなんだか失礼だぞ、世の女性が聞いたらきっと怒る」
「す、すみません」
(…最近越してきた兄妹、か。なんだか、気になる。あの髪の色とか、空気感?とか雰囲気とか…どっかの誰かに似ている気がするんだけど)
「どうした?」
「ああ、うん…さて、そろそろ二人には出て行ってもらおうか」
くるりとアリセレスが振り返ると、ケンとキルケ、二人を見比べた。
「…一応、俺、君の護衛が任務なんだが」
「オレだって、ドリーの保護者だし?!」
「うーーん…」
実を言うと、アリセレスは、ドロレスにある『お願い』をした。それを実行するには、少しばかり二人がいると都合が良くないのだ。
「ダメよ、お兄ちゃんたち!おとめの相談ごとなの!」
すると、思わぬところでドロレスが援護に回ってくれた。
さすがにドロレスの言葉には二人とも異を唱えることができず、顔を見合わせて頷いた。一応この部屋はいわゆる2LDKになっており、意外と広さがある。
男二人をリビングに残し、二人はココアとコーヒーをもってドロレスの部屋へ行くこととなった。
「よし、防音の魔法をかけたから大丈夫だ」
「うん!」
「さっきは助けてくれてありがとうね」
「ううん、私もお願いがあるから、おあいこなの」
「おあいこ‥手紙に書いてあったな」
「うん!あのね…わたしには、神様の声が聞こえるっていう力があるでしょう」
「オラクルだね」
ドロレスの力は少し特殊だ。それは『天啓』と言い、見えない世界と意識を繋ぐことで色々なものを見ることができる。時にそれは『言葉』で、『映像』で、過去から、未来さえもドロレスの頭の中にふとしたタイミングで浮かんでくるという。
元々持っている潜在能力は非常に高く、以前4人の子供たちが中に住んでいた時はそれぞれが力のバランスを担うことで、ドロレスという一人の人間の魔力をうまくコントロールしていた。
しかし、その中の子供たちが離れたことで、ドロレス自身がひとりで魔力のバランスをうまく取らねばならなくなってしまったのだ。
事件後、すぐはドロレスの頭の中に色々な情報が嵐のごとく入り込み、それを言語化にもできず良い情報とそうじゃない情報と区別がつかないほど氾濫していたという。
それを少しずつ、少しずつ処理していき、「必要なもの」と「いらないもの」を分けることで、やっと落ち着きを取り戻し始めた。
「今はどう?」
「…お姉ちゃんの言った通り、頭の中に本棚と本をイメージして、そこに書いていってるから大丈夫!」
「うん、ならよかった!…それで?」
「……」
すると、見る見るうちにドロレスは泣きそうな表情になる。
「こないだ、ね…変なの、見たの」
「変なの?」
「今じゃなくて、もう少し先の事なんだけど…キルケ兄ちゃんが」
「キルケ?」
たっぷりと間をおいて、ドロレスはうつむいたまま続けた。
「死んじゃうの」
「!」
「しかも、ケンお兄ちゃんに…」
「ドリー。…落ち着いて、無理して喋らなくていい」
「お姉ちゃん…」
ぐっとドロレスがアリセレスの手を握る。
すると、ざっと風が吹き、いつの間にか眼前には黄昏色に染まった空が広がっていた。驚いて後ずさると、ざり、という土の感触を感じる。
(これは…夢?違う、ドロレスの見た映像?)
そこは、どこまでも続く草原が広がっていて、地平線が見えるような広い場所。
血の色のような赤い夕焼けの光に照らされ、遠くに対峙する二人の影が見えるが、その姿は逆光でとらえることができない。
ただ、一人は何か白い装束のようなものを纏い、長い髪が揺らいでいる。もう一人は、髪は短く、大きな外套がはためいているのが見える。
ぐるりと後ろを振り返るが、ただ広い草原はどこまでも続いていて、この場所が一体どこなのか、見当もつかなかった。しかし、時折画面は揺らぎ、まるでノイズのような音が耳を走るので、正気を保つので精一杯だ。
(先ほどのドリーの話を振り返ると…あの二人の影はどちらかがキルケで、どちらかがケンということになる)
ただ、長い髪、で思い浮かぶのは…どちらかというと、キルケだろうか?何となく、いつか見た白いコート姿のセイフェスを思い浮かべる。
しかし、二つの影の勝敗はあまりにもあっけなく決した。
「!」
まるで無抵抗だった長い髪の男は、自らマントの男の剣に貫かれたのだ。慌てて駆け寄ると、ちょうど貫かれた剣が引き抜かれる場面で、白い装束から赤い血がパッと広がった。
一瞬揺れた白いコートの長い裾から、二匹の蛇が絡まり、円を描く不気味な紋章を見た。
「…うっ!!」
「アリス姉ちゃん!」
ドロレスの声を聴いて、徐々に身体の感覚が戻ってくる。
「大丈夫…ふう」
「ゴメンなさい…見えた?」
「うん。…確かに、二人いたね…」
正直、遠すぎてケンとキルケがどうかはわからなかった。だが、ドロレスにはわかるのだろうか?
「…いい?ドリー。降りてくる情報が全て、正しいかどうかなんてわからない、もしかしたら、ドリーが見たのは、害ある連中が仕込んだイタズラかもしれない。…それはわかるね」
「うん…全部がホントじゃないかもってことだよね」
「そう。未来は常に変化するし、誰もこの先どうなるかなんてわからない…だから、今見たあの映像は、百あるうちの一つの可能性にしかならないってことを、心にとどめておくこと。…私も気を付けてみてみる、白装束と、あの紋章について」
「うん…キルケ兄ちゃんが死んじゃうのは、嫌…」
「大丈夫だよ、私がそうさせないから」
しばらく泣きじゃくると、やがて落ち着いたらしく、静かに頷いた。
「ん、よし!」
「つ、次は、わたしの、ばん」
「ん?」
「お姉ちゃんは…もう一人のお姉ちゃんと、お話ししたいんでしょう」
「え…」
一瞬、その言葉が意味するものを理解できなかった。
「お姉ちゃんの後ろには…いつも、もうひとり、いるから」
何となく、後ろを物理的に振り返ってしまったのは、言うまでもない。




