32 枇杷の木
「はあ…」
夜の道をてくてくと歩きながら、空を見てため息をつく。
睡眠不足の依頼は、依頼人の方から直接アポイントを取りたいと言ってきたので、別の日の仕事となった。
(結局、依頼を受けることに…)
「自己申告型悪魔憑き…もといヘンタイを鞭で叩かなければならないのか」
「いや!アリスは見守り役で、これは俺の初仕事だから!」
「あ…うん、じゃあ、本ッとうに見てるだけにする」
有難いようなそうでもないような。まあ、キルケの腕前も見てみたいし、いきなり強力な悪魔にあっても大変だろう。今回はサポートに回るとするか。
「そう言えば、キルケは武器は何を?」
「俺はね、コレ」
そう言って、懐から見せてくれたのは…すごく曲がった刃の小型ナイフ一振りだった。
「軽そう…すごい、初めて見る!レスカーラには無いよね?」
「レジュアンの武器なんだ、ダガーっていうんだけど…」
そう言って、くるくると手首をまわしてナイフを放り投げると、空中で綺麗な弧を描く。まるで投げる専用のショートナイフのようだ。
「こっちは真っすぐの刃が主流だけど、あちらはこう、湾曲した刃が良く使われているんだ」
「へえ…」
「刃は片側だけ付けてマヒを起こす軽度の毒を塗ってある。切りつけるよりはそぐ、という表現が正しいかも。俺、あんまり力はないけど、身軽だから」
「麻痺って…薬学も勉強したの?」
「これはほとんど、セイフェス仕込みだなあ…一応分類上、セイフェスは医者だし」
「そう言えばそうだったな…あ、もしかしてあの家か?」
「うん、住所の通りだ」
「じゃ、さっそく…」
言いかけた瞬間、家の扉ではなく窓がぱりん、と派手な音を立てて割れた。
「え?!」
「うぉおおおお!!」
現れたのは…頭が豚で、身体が人間の大男だった。
「もしや依頼主?…もう第二段階目に」
「いや、多分、あれまだ人間だよ」
「えぇ?!だって、顔が」
「…ほら、髪。まだ残ってるし…顔の特徴が豚を擬人化したみたいな顔なだけで」
「うるせーーー!!黙れ!あ…!!あなたは」
グルン、とこちらを向くと、わらわを見て、顔を真っ赤にした。
「鞭のお姉さん…!!」
「ひ?!」
「アリス下がって!!」
「…う、臭い!!」
獣くさ‥いや、ちょっと待て、この匂いは一体?!腐敗臭というか、常温で10日以上放置した生卵のにおいというか!!
まさかこの男からか?!
「キルケ!悪魔に取りつくと、人間から異様なにおいがすることがある!!こいつは」
「わ、わかった!」
「おね、おねえさん!!あの、おれ、きのうのげんばみてまして!鞭が!痛そうで!」
とか言いながらにやにや笑ってウサギのようにぴょんぴょん跳ねる中年男性ほど、気持ち悪いものはない。
「ごめん!訂正、やっぱこいつ人間やめてる…」
「待てよ…?ウサギみたいに跳ねる顔が豚の悪魔って…」
確か相当昔に見たことがある。
異国の化け物で、えーっとなんだっけ。悪魔にはそれぞれ特性があり、個々に攻撃能力がある。まあ、肉弾戦に強い奴らばかりじゃないので、たまにこう…異臭を放って気をそらして乗っ取るとか、色々ある。奴らはこちらでは自由に動けないので、基本的に人間を完全に乗っ取りたいのだ。こいつもその特性を持っていたような。
「あ、確か…名はムティチゴだ!!」
「ム…何?!」
「ムティチゴ!早くそいつを気絶させろキルケ!そうしないと…」
キルケがダガーを構えるが、あいつは攻撃するでもなくにやにや飛び跳ねて、ちらちらキルケの腰辺りをにらみつけては、たまにこちらを見て喜んでいる…気持ち悪う!!こういう悪魔は一番神経を逆なでするなああ!!!
「一生女性の抱けない腑抜けになるぞ!!」
「それは嫌だ!!!」
お!クリーンヒット!!
キルケの力任せの回し蹴りがさく裂した!
「ぐはぁ!!」
「寝てろ!!」
そのまま懐から何かの瓶を取り出すと、伸びた男の顔面目掛けて投げつけ…やがて豚頭の男は徐々にしぼんでいき、しまいにはだらしない笑みを浮かべて気絶した男性の姿になった。
「…大丈夫そうだな、無事でよかった、キルケ」
「あ。ああの、ささ さっきの、どういう、意味?」
「あー…ムティチゴが股間に触ると、まあ、その一生種なしになると言われているんだ…」
「!!!」
「あいつ、ちらちらキルケの腰見てたから…きっと狙ってるなって」
「じゃあ、この人、もう」
「…ご愁傷様。まだ若いのに…」
「悪魔って怖いな?!」
「…うん」
かくして、キルケの初仕事は無事に終了したのだった。
**
「さて、今日こそは買い物に行く!」
「はい!お嬢様!」
翌日。
今日は天気も良いし、外に出るのは絶好の日である。
わらわは毎週日曜日には必ず都心部よりも少し離れたところにあるこじんまりとした教会に行く。別に信心深いつもりはないが、目に見えぬ善なる者全てに敬意を払うのは当然だと思うし、元魔女の身としては、『父』の存在というのはそれだけで大きい。
(ついでに珈琲も買って、おいしいお菓子と本も買って帰ろう)
わらわが遊学中の事この教会は実は昔も来ていたことがある、なじみの場所だ。ここはいつ行っても人が少ないし、静かにできるのでお気に入りなのだ。
「ん?」
ふと、教会についたとたん微妙な違和感のようなものを感じた。
(何か、気配が。入り口?)
…あ、いた。
違和感の正体は…思った通り、入り口に立つ人影だった。時おり何かを感じるのか?その場所を避けるものはいるが、大体の人間は気が付かずに素通りしていく。恐らく、正体は『亡霊』だろう。
「先週来た時はいなかったと思うけどなあ…」
しかし何だろう、影が薄いというか、弱々しい気で、今にも消えそうな気配だ。
こういう場合はすでに亡くなっているというよりは、例えば残留思念のような、そういうモノの可能性の方が強い。
(気にするほどでもないか)
そして何事もなく素通りしようとすると…話しかけてきた。年齢は40代男性で、司祭服?
『もし、そこの』
「!」
「お嬢様?」
「いや…」
『私の声が聞こえるなら、どうか、話を聞いてほしい』
「残念ながら、今は無理だ。もうすぐ礼拝の時間だから…それが終わったら、いいだろう」
『……』
こくん、と静かに頷くと、そいつは消えていった。
教会の中に入ると…なんだか、今日はやたらと女性が多いような。すると、レナがそっと教えてくれた。
「どうやら、新しい司祭様がいらしたみたいです。それがどうやらとても素敵な方でして…きゃ、来た!」
「ふうん?」
さて、日曜の礼拝は、司祭殿の説教とセットである。噂の殿方を見てみると…水色の髪に、エメラルドの瞳の見目麗しい殿方が現れた。
(へえ…まあ、確かに?色の配色は美しいが)
周りの女性たちはみな目をハートにして見入っている。…あ、うちのメイドもだ。
この若き聖職者殿は、髪は少し長めで、年頃も…下手すれば20代を過ぎたばかりだろうか。おっとりとした喋り方の説教を聞き流し、わらわは教会を後にした。
教会の裏手にある中庭を散歩がてら見ていると、先ほど入り口で遭遇した司祭がベンチに座っていた。レナには、聖水を汲むようお願いし、わらわはその隣に座った。
『……』
「話を聞きに来ました」
『私は…罪深き人間です』
「なぜ?あなたの魂は汚れていない。…その気になればすぐにでも我らが父が迎えてくれるだろう」
『いいえ…私は、禁忌を犯しました』
「禁忌…ああ、もしかして」
一昔前の聖職者の戒律は今とは比べ物にならないほど厳しく、決まり事も相当多かった。しかも恋愛は禁忌とされ、文字通り生涯を神に捧げなければならない。
最近の若者は、そんな戒律を嫌悪し、聖職者という職業を敬遠する傾向にあるらしい。慢性的な人員不足に陥った教会は思い切って自分たちの戒律をだいぶ緩めることにした。
現在は婚姻も一度なら許されていて、神を愛しその生涯を神に捧げるではなく、人を愛することで新たな命を芽吹かせてこそ罪が許される…とかいうゴリ押しの教えが広まっている。
『神に生涯を捧げたにも関わらず、二つの罪を犯しました』
「もし、あなたが人を愛することが罪だと思っているなら、それは罪ではない」
『それでも…私は自分を許せません』
「…それを、なぜに今になって悔やむのか」
『心は自由です。形にさえ残らなければ、水の泡のようにすぐに消える…でも』
「水泡に消せぬようなものを遺したのか?」
その言葉を聞いたとたん、司祭の亡霊は首を左右に振る。
『アレを見つけなければ』
「アレ?…って」
『お願いです。どうか、どうかあれを探してください!』
「それは構わないが…」
あれって?なんか変な物じゃなかろうな。
「場所は?」
『……』
司祭はある一か所を指さす。…庭の隅に植えられた、背の低いビワの木だった。
「ビワ…」
『あの下を掘り起こしてください』
「え?」
切ない声と同時に、司祭の気配も一緒に消え去った。…天に還ったのか?いや、しかし。
「うーん…あ」
あまり深く埋まっていてもなあ、と思いながらいると、奥まったところにスコップを見つけた。
ひとまず、強化魔法をスコップにかけて、ゴリゴリと根元を削っていく。ある程度めどを付けたら、魔法でどうにかしよう。そう思っていたのだが…かつん、と何かが当たる。
「これは」
見つけたのは小さな木の箱だ。片手で持てるほどの大きさで、からからと音がする。
ビワの根を傷つかないよう、そっと土を祓い、その箱を引っ張り出す。
(開けていいものか…)
まあ、確認しないとならないし。思い切ってふたを開けると、出てきたのは古びた銀貨ただ一枚だった。
「…何か特別な思い入れがあるのだろうか?」
「おや、お嬢さん、何かお困りですか?」
声をかけてきたのは、杖を突いた年老いた男性の司祭殿。…この方はつい、先週まで説教していた司祭殿だ。
「…引退されたのですね、司祭様」
「ほほ、この老いぼれに、毎週の礼拝はとても大変です。あとは若いものに任せます」
「そうですか、残念。あなたの説教はとても心地よかったのに」
「美しい方にそう言っていただけるのは嬉しいことです。…はて、それは?」
「ああ、ちょっと頼まれごとで見つけたものですが…」
そう言って、司祭殿に渡した。
「!」
「…ああ、これは」
「何か?」
「いや、なに。遠い昔私は司祭の身でありながら…憧れていた女性がいました」
「憧れていた女性?」
「ええ。その方はいつも…そう、今日みたいな天気のいい日に来て、祈りを捧げていかれる方でした。たまにしか来ない方でしたが、とても綺麗な人で…」
「へえ」
「ある時、私はその人がたまたま落とした硬貨を拾ったことがありました。…本来なら、その場ですぐに返すべきだったのでしょうが」
「もしかして、そのまま?」
「憧れていた方の持ち物です。当時の私は接点すら持てなかったので…つい、返さずに、盗んでしまいました」
「!盗むなんて。そんな」
「いいえ、彼女は以来姿を見せなくなった。立派な、盗みの罪です」
…あれ?もしかして、先ほどの司祭殿の亡霊は。
「悔やんでらっしゃるの?若き日の思い出でしょう」
「若き日か…ですが、罪は罪。迷った私は、その過去ごと封をして…しまいこんだのです」
「……」
なんと、真面目というか、堅苦しい方だ。
だが、だからこそ、こんなにも彼の魂は美しいのだろう。
「なら、このコインは私がいただきましょう」
「え?」
「…持ち主にちゃんと返したら、それは罪でも何でもないでしょう?あなたの過去の美しい思い出はそのままに」
「……あなたは」
すると、正午を鳴らす鐘の音は鳴り響いた、
「…正午、ん?」
「………」
「あ、見つけました、司祭様!」
やってきたのは…噂の新人司祭だ。
「ああ、すみません、ご令嬢。この方を見てくださっていたのですね」
「…どういうこと?」
「進行性の頭の病です。午前中は意識がはっきりしていますが、午後になると色々な記憶があいまいになってしまうみたいで…」
「きょうは、いい天気ですね」
にこっと邪気のない笑顔でほほ笑む。
なるほど…この方はもう。
「どうぞ、お身体お大事に」
「ああ、ありがとう」
ふらふらと、新人司祭に支えられながら、彼は去っていった。
「昔の記憶が曖昧に、か」
いずれ、すべての記憶は忘却の彼方へ行き、彼の魂は純粋な赤子の頃に戻るだろう。それは、きっと人間的な『死』の状態。彼は、残っていた記憶を清算すべく、若き日の姿でわらわの前に現れたのかもしれない。…これでもう、気がかりはないだろう。
「そう言えば…ビワにも花言葉があったな意味は…あなたに打ち明ける、だったか」
わらわは聖水の泉に向け、手に持ったコインを放り投げた。




