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新世界の記憶  作者: 田舎乃 爺
第一章 風
4/17

03 風の強い日③

――新暦195年 7月 13日(水)

  辺境の町『ディアン』・診療所

  13:20



「――ですが、このような状た――では」


「すぐに済み――心ください」


「――……んん?」



 途切れ途切れ尚且つ掠れて聞こえてきた会話。ウィンの戻り立ての意識ではそれらをまともに聞き取ることができなかった。

 僅かに聞こえてきたその声が聞き慣れぬものであったウィンは重い瞼をこじ開ける。ぼやけている視界に映し出されたのは硬そうな岩盤の天井ではなく、温かみのある白い天井だった。

 不思議と心が落ち着く清らかな雰囲気。覚醒し始めた鼻からは消毒用のアルコールの香りが入り込んでくる。そして今現在自らが横たわっているのは柔らかなベッド。これらの点から自分は今診療所にいることが理解できた。

 自らが生きていることを確認したウィンは心の底から安堵すると同時に、1ヵ月前のことを思い出した。熊からリリィを救い気絶した後に、同じような感じで目を覚ましたからだ。

 


「……はあ」



 目覚めたウィンの口から一番初めに漏れたのはため息。しかしながら、何故ここでため息を漏らしたのかウィン自身も分からなかった。

 安堵のものとも落胆のものともとれる微妙なため息。複雑な思いが混じっているそれをすぐ近くで聞いていた者がいた。



「ウィン?」


「……おお、リリィか」



 その柔らかな声を聴いたことでウィンの意識は完全に覚醒した。ウィンの横たわるベッドのすぐ横で、その頭の大きな耳を垂らしたリリィが心配そうにこちらをのぞき込んでいた。

 最後に意識を失った際の痛みが消えていたことから、リリィが治癒術を行使してくれたのだろう。坑道最深部での出来事が脳内で呼び起され、よく生き残ることができたとウィンは横になったままで苦笑いする。その脳内からは先ほどの複雑な感情はどこかへと消え去っていた。

 とりあえずは治療してくれたことの礼を言おうとしたウィンだったが、違和感を感じ取った。覚醒したことでアルコールのような香りに診療所では漂うはずのない、あり得ない臭いが混ざっている。それも、その発生源は自分の体。



「リリィ。その……、臭うよな」


「……うん。お父さんが体を拭いてくれたけど、体に染みついちゃったみたいだね」



 あの化け物の内容物の異臭がまだ自分の体から発せられている。自分の鼻でもわかることから考えても、相当な臭いなのだろう。

 早く風呂に入るか、シャワーを浴びたい。そう切に願うウィンの横でリリィの腹の音が鳴った。頬を染めて恥ずかしがるリリィに、ウィンは笑いながら話しかける。



「無理せずに飯食ってきたほうがいいぞリリィ。お前の食い意地はけっこうすごいからな」


「だ、大丈夫だよ。まだ患者さんもいるし、ウィンだってまだ起きたばかりだから」


「その患者さん治す本人が倒れたら意味がないだろ。しかもそれが空腹によるとかいったら笑えないって」


「むう……、わかった。じゃあご飯もらってくる。ウィンの分も持ってくるから待ってて」


「了解。頼んだ」



 少しむっとしながらも、ウィンが無事に起きたのが嬉しかったのか耳を機嫌が良さそうにパタパタと動かすリリィ。可愛らしい様子のままで立ち上がると、扉へと向かっていった。

 その後ろ姿を微笑ましく思いながら見送ろうとしたウィン。だが、リリィが開くよりも早く部屋の扉が開き、スーツ姿の男が入ってきたことでその表情が強張る。

 突然現れたその男に戸惑いつつも、リリィは問いただした。警戒するかのように、耳がピンと立っている。



「すみません、どなたか存じ上げませんが何の御用でしょうが? まだ彼は面会できるほど回復は――」


「申し訳ありません。すぐに終わりますので」


「え、あ! ちょっと!」



 リリィの制止を押し切り、男は奥へと進んでいく。一切迷いなくウィンの間近にまで迫った男は先ほどリリィが腰かけていた椅子に静かに腰かけた。

 深々と被った帽子のせいで表情が見えず、不気味な雰囲気を漂わせている。そんな怪しすぎる男は警戒するウィンとリリィの目の前で躊躇うことなく懐に右手を突っ込んだ。

 まさか凶器でも取り出すのか。男の動作に身構える2人。だが、出てきた右手にあったのは凶器ではなく小さな紙切れだった。

 


「カダリア政府直属機関『情報調査集積機関サーチャー』、第4南東支部所属の調査員『ウィルソン・カーマイン』と申します。本日は予定通り現在名称『ウィン・ステイシー』様の身元の確認、照合に参りました」


「は、はあ。そりゃー、えっと、ご丁寧にどうも……」



 とても丁寧ではあるが、その口から淡々と吐き出される言葉には全く感情が込められておらず、見た目と相まってさらに不気味さが強調された。

 異質な存在に困惑するウィンとリリィ。そこに遅れて申し訳ないといった表情のランドとリンドウが部屋に入ってきた。

 恐らくウィンが起きるときに聞こえてきた会話は、あの2人がウィルソンを止めようとした時のものなのだろう。しかし上手くいかず現在に至ったということなのだろうか。



「本来であればあと2人、調査員と護衛の者がおりましたが、道中にて不明勢力の襲撃に会い恐らく死亡しました。しかし、今回の調査は確実に且つ迅速に行う必要があったため、私だけでこの地へ参りました」


「……今、何と言いましたか? 襲撃? 死亡? ウィルソンさん、我々はそのような報告は受けていません!!」


「道中に関しての質問はありませんでした。早急な対応が必要な現状において混乱を避けるべきと考慮し、あなた方にお伝えする必要はないと判断した所存です」



 ランドの問いかけに対してウィルソンは淡々と返答する。今ここにいるウィルソン以外、事態に付いてはいけない状態だった。

 人が殺されている。しかも道中でとなればここまで生き残ったウィルソンを追ってくる可能性は十分にあり得る。危機感を抱いたランドはリンドウに対して静かに耳打ちすると、リンドウは町の出入り口を目指して足早に部屋を出て行った。

 周囲が静かになったのを確認するとウィルソンは再び懐に手を突っ込み、折り畳み式の機材を取り出した。明らかに入れることはできない大きさから考えて、スーツの内部に格納方陣があることが考えられる。

 スリープ状態を解除し、先端が吸盤のようなものになっているコードを機材から伸ばす。一体どんなものかと少しずつ平静を取り戻したウィンが見守っていると、ウィルソンはそのコードの先を近づけてきた。



「ウィン様、右手をお出しください」


「は、はい」



 その指示通りウィンが右手を差し出すと、その吸盤を右手の甲へと取り付ける。人肌ほどの温かさのそれを観察していると、



「――っ!?」



 小さな電流のようなものが、体全体を探るように駆け巡った。あまりにもいきなりだったので僅かに声を出してしまう。痛みは感じなかったが凄まじい違和感があった。



「ウィン!?」



 その瞬間を目にして慌ててリリィが近づこうとしたが、ウィルソンがそれを遮る。まるで氷のように冷たいウィルソンの青い瞳を見てしまい、リリィはたじろいだ。

 しばしの間の後、ウィルソンは吸盤を取り外してコードを機材へと戻した。そして機材の小さなモニターに表示された情報を読み取っていく。

 次々と色々な意味での衝撃が続いて脳内の処理が間に合わないウィン。若干のめまいを感じているとウィルソンは手早く機材を懐に戻すとに真っ直ぐ向き直り、告げた。



「照合の結果、貴方様は『レイン・クウォーツゲル』様であることを確認しました。レイン様、もといウィン様はこれ以降の生活の行方に関わらず、首都フォルニアにある防衛兵団シールダーズ本部への出頭が命じられています」



 それを聞いてその場にいる全員が凍り付いた。名前が分かったことよりもその後のことで驚いたのだ。

 首都への出頭。それもランドたちが所属する防衛兵団の本部に。一体どれだけ重要な事柄に関わっているのかと誰もが疑問と不信感を抱いた。もちろん、ウィン自身もだ。

 何が何だか分からない現状に混乱しつつも、とりあえずは首都に行かないことには始まらない。無理矢理割り切ったウィンはとりあえずどういった手段で向かうかを考え始めた。

 ここから車を休むことなく走らせたとしても4日はかかる。余裕をもって考えたとしたら約1週間はかかりそうだ。転移術を使えばまだ負担は減りそうだが――



「尚、昨今において生じている各障害の件を考慮した結果、今回の出頭の道中にて転移術といった長距離短時間移動術の使用は禁止とされています。こちらの端末をお持ちの上、陸路にてお越しくださいとのことです」


「……マジっすか」


「マジです。ですが、同行者の随伴は認められています。それほど苦にはならないかと」



 会話の中で受け取った端末を見ながらウィンはうなだれた。ただでさえつらい事故に巻き込まれた直後にこの要請は心にも体にもきた。

 自分の名前が知ることができたのは嬉しかった。だが、それ以外のことを伝えてくれないのはなぜなのだろうか。



「ウィルソンさん。名前以外の情報は――」


「公表、または伝えることは禁止とされています。これは上からの命令ですので絶対です」


「そこをなんとか」


「絶対です」


「あっはい」



 これ以上の情報を聞き出すのは無理そうだとわかりウィンは早々に諦める。微動だにしないウィルソンの圧は中々のものだった。

 以前の俺はそんなにまずいことをしてしまったのだろうか。それとも結構すごい人物で、急いで帰らなければならないほど凄い人物なのだろうか。いくつもの疑問や不安がウィンの頭の中で生まれては消えてを繰り返していた。

 それを心配そうに見つめるリリィと、深く考え込んでいるランド。その重苦しい雰囲気の中、なんとウィルソンは早くも帰り支度を整えていた。



「調査、そして報告は完了しました。お疲れ様です。ではこれにて私は帰りますので」



 周囲と本人を一切気にすることなく帰路に就こうとしたウィルソンを扉の目の前でランドが止める。

 その行動に疑問と不満を持ったのか、冷たいまなざしを向けて自分よりも大きい存在に対し抗議を始めた。



「私は急がねばなりません。道を開けてくださいませんか?」


「いや、まだ聞きたいことがあります。調査員殿。いろいろ分からないことが多すぎる」


「私に残された時間は3分程度しかありません。この狭さ、あなた方との距離では転移ができないのです」



 残されているのは3分。この言葉を聞いた瞬間、ウィンとランドは今までの会話の中では見せることのなかった焦りの感情をウィルソンから感じ取れた。

 何故かと問いただそうとしたランドよりも先に、機械的な口が開く。



「襲撃から逃れるため転移を繰り返した結果、犯人と思われる存在は転移等をせずに自力走行でこちらを追尾してくるのを確認しました。なのでわざと目的地であるこの町から離れたところへ転移し、十分に引き付けたところでこちらにくることで距離を稼ぎました」



 ウィルソンは襲撃からの行動とその後を丁寧且つ迅速に説明していく。こちらに入り込む隙すら与えずに、そのまま。



「ここに到着した後は迅速に目的を果たし、追尾してくるであろう犯人がここに到着するまでにこの町を離脱。そのまま『アナリス』にある防衛兵団シールダーズ南西支部に逃げ込むことを予定していました」



 『アナリス』とはカダリア南西部に位置する都市。海にも面しているので国内だけでなく海外からも多くの物資が運び込まれて数多くの取引が行われており、商業都市としてかなり発展している街だ。

 そこには首都と同規模の防衛兵団シールダーズの拠点がある。確かにあそこであれば警備も厳重であり、戦力もこの国で随一のものがそろっているはずだ。



「ここに到達し、レイン『隊長』殿が戦力的に健在であれば事はここで済むと考えていましたが、この様子ではそれは厳しいと判断し、前述した予定に切り替えました」



 補足のようにそうウィルソンは付け加えた。だが、その場にいる3人はその説明の中の一部分を聞き逃さなかった。



「レイン、『隊長』殿?」


「……口が滑りました。忘れてください」



 本人も相当焦っているのか、してはいけないミスをしたようだ。それほどまでに早くここを去りたいのだろう。

 自らの過ちを反省しているのか、困惑しているのかわからないがウィルソンは小刻みに体を震わせていた。表情に変化はないが顔以外の体全体に変化が出てしまうようだ。

 もしかしたらまだ何か聞き出せるかもしれない。ランドがさらに問いかけようとしたとき、ウィルソンの震えが止まった。そして、静かにつぶやく。



「遅かった」



 次の瞬間、窓ガラスが割れて大きな何かが勢いよく飛び込んできた。ウィルソンとランド方へと向かったそれは扉に直撃し、轟音とともに粉砕して廊下の壁に突き刺さる。

 2人の血はないことから考えてどうやらウィルソンがまとめて転移したようだ。部屋に残されたのはベッドの上にいるウィンと、あまりに突然のことに腰を抜かしてその場に座り込んでしまったリリィだけだった。

 


 ――”だけ”だと思いたかった。



「何……、あれ……」



 怯えるリリィは震えながら窓の方を指さして言った。その方向を見れば、窓の枠のところに立ち座りしている人型の何かがいる。



「だめ、また、にげられた。でも、あたらしいの、いる。やらなきゃ、そうだ、やらなきゃ」



 生きているとは思えない真っ白な肌。骨と皮しかないような異様に痩せ細った体。ボロボロに破れた防衛兵団シールダーズの軍服を身にまとっており、手の爪は鋭く無造作に伸びていた。

 ただでさえおどろおどろしい風貌の中でも最も印象的なのは、目がないこと。あるはずの眼球はなく、真っ黒な2つの空洞が顔に空いている。

 男だったと思われるその何かは、小さくぶつぶつとつぶやきながら顔を廊下の方からリリィの方へと向ける。

 眼球はないはずなのにはっきりと標的を認識している。異質すぎるその様はリリィを恐怖のどん底に叩き落すには十分すぎるものだった。



「あ……、や……」



 動きたくても体がいうことを聞いてくれず、リリィはただ眼前に佇む怪物に慄くことしかできない。



「だい、じょう、ぶ。すぐ、しぬ、くる。こわく、ない」



 そういった後、怪物はリリィに向けてとびかかった。彼女の悲鳴があたりに響き渡る。

 肉が断ち切れる音がした。すさまじい音とともに。2回、3回。まだ続く。何度も何度も何度も。



「あ、え、ば。く、な、で」



 ――魔力で構成された弾丸が撃ち込まれ続け、怪物を壁に貼り付けにしていた。


 無我夢中だった。気づけば右手の手元が格納方陣から取り出すときに発生する光に包まれ、ミミズの化け物を倒したときと同じ大型拳銃を握っていた。

 何故か脱臼しない。というか痛みもない。今はとにかく標的動かなくなるまで体中を撃ち続ける。

 轟音が鳴り響く中、ウィンの心にあったのはリリィを守りたいという強い思いだった。

 衝撃に耐えきれなくなった壁が崩壊し、舞い上がった塵が視界を覆う。怪物が動き出さないことを確認したウィンは撃つのを止め、すぐさまベッドから立ち上がる。

 一瞬立ちくらみに襲われるも、なんとか座り込んでいるリリィの方へと歩み寄った。状況が理解できず、怪物の血にまみれて呆然としていたリリィに話しかける。



「立てそうには……、ないな。大丈夫かリリィ?」


「……ウィン?」



 ウィンの声を聞いて安堵したためか、震えながら大きな瞳からぽろぽろとリリィは涙を流し始めた。

 まだ自力で歩くことはできそうになかった。しかしながらいつまでもここにいるのはまずい。床に広がり始めた怪物の血の海を避けるようにして、ウィンはその震える小さな体を抱きかかえて診療所をの出口へと向かった。とりあえず、悪臭には耐えてもらうしかない。

 今いるのは2階。廊下を抜けて、リリィに負担がかからないようにゆっくりと階段を下りて行く。眼前に出口が見えた。あともう少しといったその時、



「ゆ、る、な、い。お、え、こ、す!!」



 背後から聞こえてきた怪物の叫び声。あれだけ撃ったのにまだ動けるのかと驚きつつも出口へと走る。外へと出たところで階段を猛スピードで駆け下りてくる音が聞こえてきた。



「ランドさん、頼みます! ごめんリリィ!」



 出口のすぐ近くにいたランドに向けてリリィを投げ渡した。予想外だったがランドはそれを何とか受け止める。

 間髪入れずに振り返り、出口の方へと銃口を向ける。そこにはすでにこちらに向かって飛びかかっている怪物の姿があった。

 放たれた一撃は確実に仕留めるために頭部へと一直線で向かう。しかし、怪物は器用に空中で頭を逸らしてそれを避けた。強力な一撃の余波をものともせずに怪物はウィンへと向かってくる。

 接近してきた怪物が目と鼻の先まで迫る。諦めてもおかしくない状況だが自分でも驚くほど冷静に、最小限の動きでそれをかわしたウィン。そして大型拳銃と同様にいつの間にか取り出した物を振り下ろした。

 肉と骨を断ち切る感触が、その左手に握られた刀身部分が赤熱する剣から伝わってきた。頭と体が分離した怪物に大型拳銃による追撃を行い、それら全てが人がいないところへと弾き飛ばす。

 化け物だった肉塊は何度も地面を跳ね、生々しい肉の音を上げながらも数m先で止まった。銃痕とは違って焼き切られたためか、切断面から血液が噴き出してくるということはなかった。

 


「あ、な、し……」



 地面に転がった怪物の頭部は、まだわずかに動いたその口を動かす。止めを刺そうとウィンが近づこうとしたところで、怪物は完全に沈黙した。

 何故こんな動きができたのか。何故武器等持っているのか。反射的に動いた自分自身にウィンは理解できず、その場に立ち尽くしていた。

 記憶はない。それでも体は憶えている。自分はこれまでに”何度も”同じようなことをしている。この拳銃と剣で自らが脅威とする存在を蹴散らしてきた。

 今更になってやってきた”人に近い存在を殺した”実感がウィンの心を揺さぶり始めた。生々しいこの臭気と感触は普通の日常ではまず感じ得ないものだ。



「……クソっ」


 

 こみあげてきた吐き気をなんとか抑え込むウィン。視界だけでなく足もふらついてしまう。

 どうにかして気を紛らわせなければ。まるで荒波を行く船上のように揺れる精神を落ち着かせようとウィンが必死になっていると、リリィの叫びが耳に飛び込んできた。



「ウィン! 診療所の屋根!」



 それによって我に返ったウィンは、指摘された方向に視線を移す。



「……おいおいマジか」


「あ、つ。こ、ろ、う」


「わ、かっ。や、ろ」



 そこには先ほど倒した怪物と同じような存在が2匹いた。成立していると思えない会話の後、飛び降りた2匹の怪物は他の町民のことなど目もくれずにウィンの周囲をじりじりと歩き始める。

 尋常ではない緊迫感で鼓動は高鳴る。口から体の何もかもが吐き出てそうな最悪の感覚に襲われながらも、ウィンは徐々に距離を詰めていく化け物へ全力で警戒を続けた。

 延々と続くように思えた様子見は、怪物の内の1匹が飛びかかってきたことで終わりを迎えた。鋭い爪を立ててきた怪物にすぐさま拳銃の一撃を加える。

 相も変わらず強烈な一撃は頭部へと直撃し、怪物は軌道を大きくずらしてあらぬ方向へと飛んでいく。



「も、ら、た」


「があっ!?」



 もう1匹もほぼ同時に飛びかかってきており、その対処が僅かに間に合わなかった。直撃こそ避けられたものの、すれ違いざまに右脇腹の表面を切り裂かれてしまう。

 耐えがたい痛みが全身を駆け巡り、裂かれた部分が熱を帯び始める。傷口から出てきた血潮は衣服をゆっくりと赤く染めていった。

 苦悶の声を上げるウィンはそのまま膝をついてしまう。その機会を逃すことなく、離れたところに着地した怪物は即座に体勢を立て直して再びウィンに飛びかかった。

 先端が赤く染まる鋭利な爪はウィンの喉元目がけて突き進む。残念ながらウィンの体は言うことを聞いてくれそうになかった。



(これは、無理だな)



 目前に迫った怪物の対応を諦めたウィンは胸中にて短くつぶやく。その瞬間、リリィの悲痛な叫び声が聞こえた気がした。



「ウィン!!」



 色々この1か月楽しかった。短い走馬燈が頭の中を過るのを感じながら、ウィンは静かに目をつぶった。せめて苦しまずにやってほしいと願いながら。



(……リリィと会った日も、こんな風が吹いてたっけか)



 耳をすませば風の音が聞こえてくる。それによって揺れる木の葉の音も。今日は昨日と、そしてリリィと出会った日と同じで、風が強い日であった。

 この1ヵ月間の出来事が脳内を駆け巡った。走馬灯といえる光景の中心にいるのは、いつもリリィだった。

 意地っ張りで、好きなものに関して頑固ではあるが、家族や友人に対して見せる素直な笑顔が可愛い。気づけば自らも惹かれていた。

 最後に聞いたリリィの声が悲痛なものであることと、彼女を悲しませてしまうことを悔やみながら、ウィンはその時を待った。



(……?)



 しかしながら、やってくるはずの絶命の時は一向にとやってくる気配がない。痛みを感じる間もなく死んでしまったということかとも考えたウィンだが、数秒の沈黙が続いた後に気になってしまうものがあった。

 臭い。鉱山にて倒した化け物の内臓物と同じ匂い。この激臭からもしや自分は地獄に送られてしまったのだろうか。

 できれば前の自分の所業よりも、この1か月を過ごした自分のことを考慮してほしかったとウィンが死神に文句をつけてみようとも考えた、矢先のことだった。



「――っ! くがっ!」



 苦しみ悶える声が聞こえてきた。まるで地獄の刑罰によって苦しむ人の断末魔のようだった。

 何でもしますから、せめて自分は僅かでも楽な刑を実行してほしいと胸中で懇願するウィンは縮こまってしまう。

 震えるウィン。だが、次に聞こえてきたのはおどろおどろしいものものとはかけ離れたものであった。



「あらあら~、どうしたの~」



 何ともフワフワとした、高めの清らかな女性声が聞こえてきた。まさか天国からの助けが来たとでもいうのだろうか。

 声を聞いただけでも美女であるのが分かる。そんな存在に助けられることは男として色々期待してしまうウィンの耳に別の声が飛び込んでくる。



「――え!? レイン!? あんた生きてたの!?」



 先ほどとは違う気の強そうな女性の声。というか、その声によって自分自身が生きていることを自覚したウィンも驚いていた。

 瞼が開けられることに気づき、ゆっくりと開けてみる。眩しい日の光で少し目がくらんだが、信じられない光景が目の前にあった。



「こんにちは~。お久しぶりです~」



 美女がいた。しかし肌は青白い。瞳と髪の毛は透き通るような綺麗な青で染まっている。スタイルも抜群。人間ではないだろうが、まごうことなき美女がいた。

 そしてその背後には、空中に浮かぶ大きな水球に閉じ込められ、声にできない悲鳴を上げている怪物の姿があった。

 目覚めてから連続していることだが、状況が全く理解できない。眼前には微笑み続ける絶世の美女。そしてもがき苦しむ怪物。困惑するウィンだったが、横から何かで頭を軽くたたかれた。



「いだっ」


「『ウンディーネ」に見惚れてんじゃないわよ! 何だかんだで心配してたんだからね!」


「え、えぇ……?」



 叩いた存在がいる方をみれば、そこには長い赤髪を1つにまとめた長身の美人な女性がいた。手には畳んだ扇子を持っている。それでウィンの頭をたたいたのだろう。

 生きてはいる。それはよかった。後は誰かこの状況を説明してほしい。我の強い真っ赤な瞳に迫られながら、ウィンは混乱しっぱなしの頭でそう考えていた。

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