魔物たちの陽気な踊り
***
「とっても楽しかったですわ! お休みなさいませ!」
馬車を降り、自宅へと駆けていくアデルファの後ろ姿を、ヘレグは長いこと見つめていた。
馭者がしびれを切らし、出発していいかと尋ねてくる。ヘレグは名残惜しい気持ちで発車させた。
――今日も可愛かったな。
エルフ族は観察が得意である。ただ眺めている作業をさせたら右に出る種族はない。図鑑、辞典、目録、論文、観察日記、いずれも著者はほぼエルフで占められている。
アデルファはヘレグにとって、観察しがいのある相手だった。小さくてちょこまかとよく動き、くるくると表情を変える。見ていて飽きるということがない。
本当に可愛い女の子だ――いや、女の子だった。
最近の彼女は、しきりと女性扱いを望んでいる。
小さな、可愛らしい、小動物のようだと思っていた少女は、いつの間にか心が大きく成長していた。
ヘレグを置き去りにして。
ハーフエルフの彼は、人間の情緒をよく理解できないという欠陥を抱えていた。
***
「――人間の女性を喜ばせる方法を教えてほしい?」
相談を受けたヘレグのいとこ・ハーフエルフのディオルは、まじまじとヘレグを見つめた。
「そちらは夫婦円満でしょう? 何か秘訣でも……」
「簡単だよ。逆らわないことさ。妻がしたいことは全部させる。何人恋人がいようともイエスさ。これでうまくいかない夫婦はないよ」
「それが、私の婚約者は、私自身に恋人役をご所望で……」
「そんなのは若いうちだけだ。年を取ったら庭師でも馬丁でもすぐに恋をする見境のない野良猫に早変わりさ。だいたい人間は……」
ヘレグはディオルの愚痴ともつかない教訓を聞き流し、発言する機会を待った。
「……では、彼女が年を取るまで、恋人を演じるとしたら、どうすればいいでしょうか」
好きなだけ放言して落ち着いたのか、ディオルはふと考え込むようにひげをひねった。
「そうだなあ……」
***
――それにつけても、オペラ会場のヘレグ様は素敵だったわ。
通算何千回目かのため息をつき、アデルファは縫物の手を止めた。
あとちょっとで完成するというのに、ちっとも針が進まない。
頭の中ではいつでもヘレグのことばかり考えている。抱きしめてもらったときのドキドキ、重ねた手の熱さ、たくさん可愛いと言ってもらえたこと……どれもがアデルファにとっては宝石のような思い出だ。
――次にお会いできるのはいつかしら……
などとため息をついたところで、急に母から呼び出された。
「アデルちゃん、ちょうどいまヘレグ殿下がお仕事で公爵さまのところにお越しよ。ご挨拶にいらっしゃい」
「ヘレグ様が!?」
アデルファはつい片手で髪を撫でつけ、胸元を抑えた。
すると見透かしたように母親が笑う。
「髪とドレスはそれで大丈夫よ。お茶の用意をさせるから、ゆっくりしていっていただきなさいな」
「はい、お母さま!」
いそいそと応接間に顔を出すと、本当にヘレグがいた。
「ああ、来た来た。わが娘は本当に殿下に首ったけで敵いませんよ。急いではおられんのでしょう? よかったら少し相手でもしてやってくれますかな」
「喜んで」
ヘレグが穏やかに言ってくれた、たったひと言で、アデルファは膝から崩れ落ちそうになった。
「この子はうちでもずっと殿下、殿下と……」
父がなおもしつこくアデルファをからかっているが、もはや耳に入らないくらい舞い上がっている。
父母が気をきかせて退室していったあと、応接間にはヘレグとアデルファだけが残された。
「お仕事って何をなさってたんですの?」
アデルファが聞くと、ヘレグは軽く手を広げて何もないことをジェスチャーで示した。
「大したことじゃないんだけどね、宮廷料理のことを少し。うちの母が主催する晩餐会がちょっとイマイチって言われてて。エルフは肉食文化じゃないから、どうしようかって相談をあちこちとしてるんだ」
「王妃様、お肉を召し上がらないんですの?」
「私もあんまり食べないかな」
「そ、そうなんですのね……」
アデルファはさっと膝の上に両手を置いた。急におなかまわりの贅肉が気になり始めたのだ。
「ヘ、ヘレグ様のお好きな食べ物は?」
「なんだろう、特にこだわりはないけど、きのこの入ったスープはなんとなく毎日食べてるよ」
「お、お肉は……?」
「入れると味がうるさくなるから、きのこだけがいいんだよ」
「わあ、ヘルシー……」
明日からできるダイエットについて思いを馳せていたら、ヘレグは慌ててフォローするように両手を挙げた。
「肉食は悪いことではないよ。タンパク質を取らないと元気が出ないからね」
「わたくし、元気がありあまっていると言われますの……お肉の食べすぎなのかもしれません」
「野菜も意識して取るようにすれば完璧だね」
ヘレグに優しく言われて、アデルファはダイエットを固く決意した。
――明日からと言わず、今日から……!
アデルファはさっとヘレグのソファのそばに寄ると、手を握った。
「ヘレグ様、わたくしと踊ってくださいませ」
「えっ……今、ここで?」
「ダイエットには運動が最適なんです!」
「う……うん?」
戸惑い顔のヘレグを引っ張り出し、応接間の広いスペースに連れてくる。
「何がいいかしら? この間見た劇の『魔物たちの陽気な踊り』がいいかしら?」
アデルファは少しでも動きが激しい踊りをと考えてコメディ調のその踊りを選択し、その場でステップを踏み、歌い出した。
”人間たちゃ働くが魔物にゃ関係ない♪ 食べて飲んで踊ろう♪ 歌い踊ろう♪ タルト・タルト・タタン・オー、プラリ・プラリネー♪”
複雑なリズムを刻むコミカルなステップをアデルファはまあまあ正確に再現し、ヘレグから喝さいをもらった。
「へえ、すごいね。よく覚えてるね」
「わたくしあのオペラは何度も見に行きましたの! 火酒、ビール・エール酒~♪ アップルシード~♪」
ヘレグをあちこち引っ張り回してくるくる回っていたら、先に彼が音を上げた。
「ちょっと休憩いい?」
ヘレグは息があがって、頬も真っ赤になっている。
踊りに夢中だったアデルファだったが、はたと正気に返った。
――わ、わたくしったら! なんてはしたない!
婚約中とはいえ、殿方をつかまえて、振り回して、さんざん踊りの相手をさせてしまった。