彼が私に恋をしない理由
――翌日。
アデルファはさっそく母親を捕まえて、あったことを説明した。
「あらあらそうなの、殿下が……」
「教えてくださいませ、お母さま。わたくしは、いったいどうすればヘレグ様に恋人らしいことをしていただけるようになるんですの?」
「そうねえ……」
母親はアデルファの質問に答えず、代わりに、別のことを聞いた。
「あなたが好きなのは、ヘレグ殿下?」
「もちろんでございます」
「本当に? 情熱的な恋人が現れたら、案外、ヘレグ殿下よりもそちらに夢中になってしまうのではない?」
「えぇっ……!?」
「ヘレグ殿下がドライなのはエルフの宿命よ。殿下があなたの望むような、しつこいくらいの執着心で毎日のようにかわいがってくれる情熱的な恋人になる日は、おそらく永遠にやってこないわ」
アデルファは絶望的な気持ちになった。
もはや世界が終わったようにも感じられる。陽は沈み、生命は死に絶え、黒い消し炭と化した不毛の大地が広がる心象風景の中で、アデルファは立ち尽くした。
「あなたはそれでもヘレグ殿下が好きでいられる?」
「……」
分からない。アデルファにはもはや右も左も、名前も住所も、何も分からなかった。
「殿下が自分の種族的特質を理解して、あなたに『恋人を作りなさい』と言ってくれたことは、むしろ親切だと考えるべきだわ。殿下は殿下なりにあなたのことを愛しているけれど、あなたの望むような蜜月は、絶対に叶えてあげられないことなの」
エルフとはそれほどまでに冷血な種族だったのか。
ヘレグが、他のどんな人よりもずっと優しくアデルファに接してくれていたせいで、全然気づかなかった。
「あなたはそれでも、ヘレグ殿下に愛してくれとせがむの? それとも、殿下が生まれ持ったエルフの性質を尊重して、他に人間の恋人を探す努力をすることができる?」
アデルファはまためそめそと泣き始めた。
「で……できません……!」
――ヘレグ様が恋人になってくれるのでなければ嫌。他の人間だなんて、絶対に考えられない。
「そう。では、少し突き放した言い方になってしまうけれど、あなたは本当の意味ではヘレグ殿下を愛していないのね」
「ど……どういうことですか……?」
「あなたが恋をしているのは、空想上のヘレグ殿下よ。殿下ご本人じゃないわ」
「そ……そんな……!」
「婚約破棄をするのなら、それもいいでしょう。殿下はハーフエルフだから、将来、あなたが種族の違いで悩むようなことがあったときは、すぐに婚約を破棄してくださるとの仰せよ。殿下にはそこまで織り込み済みの婚約なの。自分でよく考えて、結論をお出しなさいな」
アデルファは新たに突き付けられた『婚約破棄』という選択肢をイメージしてみて、また泣いた。
「ヘ、ヘレグ様と、お別れするなんて、絶対に嫌……!」
アデルファは出会ったときからずっとヘレグのことが好きだったのだ。
それに婚約してからのヘレグは、アデルファのことをとても大事にしてくれた。ときには優しい遊び相手になってくれ、よき理解者として話を聞いてくれもし、勉強では先生にもなってくれた。
「愛には様々な形があるものよ。家族愛も、同族愛も、社会的な関係ではぐくむ絆も、ペットへの情も、すべて愛なの」
母親が粛々と諭す。
「あなたが、恋人同士の愛だけにとらわれず、もっと大きな視点で愛を感じられるようになることを、私は願っているわ」
母親の言っていることは、おそらくそれほど間違ってはいないのだろう。
それでも、アデルファには何一つ納得できなかった。
――そんなの、絶対におかしいわ!
「……はい……」
アデルファは表面だけ分かったふりをして、とぼとぼと自室に戻った。
***
アデルファが何もできずに泣き暮らし初めて、はや三日。
急に来客があった。
ヘレグが、アデルファに至急会いたいのだという。
アデルファは泣きすぎて崩れた顔を美しいヘレグに見せるのは正直気が進まなかったが、会いたい気持ちの方が勝った。
ヘレグは悲惨なアデルファの様子をひと目見るなり、がばっと頭を下げた。
「ほんっとーに、ごめん!!」
いつも淡々としているヘレグらしからぬ、力強い謝罪。
アデルファは腫れぼったい目をぱちくりさせた。
「ごめん、君のお母上から聞いたよ。あれから毎日泣いてるって」
恥ずかしさに絶句するアデルファ。
喉の奥で変な音が鳴る。うぐう。
「ごめんね、泣かせるつもりじゃなかったんだ。本当に私はダメだね。これで君のためを思って言ったつもりだったんだよ。情けない……」
はあ、とため息をつくヘレグ。
「何て言ったらいいのかなぁ……私にも、君が可愛いと思う気持ちはあるんだよ。ただ、決定的に、なんだろう……情熱、とか? 精力、みたいなのが欠落しているんだ。これはどうしようもないことなんだよ」
困ったように眉を下げるヘレグを見て、アデルファにもなんとなく分かるような気がした。
ヘレグは彫刻みたいに美しいが、あんまり生きている感じがしない。一見穏やかそうな好人物だが、それはあらゆるものに執着がないだけなのだ。
「でも、私がどうしようもないのと同じように、君にも、譲れないことがあるんだよね。それは君が純粋なヒトの子のお嬢さんである限り、変えられないことなんだ」
だから――とヘレグは言い、ソファを立って、わざわざアデルファの隣に座り直した。
そんなに近づかれるとドキドキする。
一瞬でかちんこちんに緊張してしまったアデルファの手に、ヘレグは自分の手を重ねた。
――手! 手が!
「私は欠陥人間だから、アデルの望むことを察してあげるのは難しいけど……できる限り叶えるように努力するよ」
すり、と親指の腹で手の甲を撫でられ、アデルファは飛び上がりそうになった。
――きょ、今日のヘレグ様はなんだかいつもと様子が違……きゃあっ!
ただでさえ隣に座られていて距離が近いのに、ヘレグはアデルファの顔色を窺って、ものすごく顔を近づけてきた。
「恋人らしいことって何かな? よかったら、私にも分かるように教えてくれない?」
――こ、恋人って言ったら、やっぱり……
きれいな形の唇に目が吸い寄せられる。
――ちゅー、とか……
でも、そんなこと恥ずかしくてお願いできない。
アデルファは貴族令嬢である。貞操観念はがっちがちに固く躾けられてきた。
代わりに、まったく別のお願いが頭をよぎる。
「今日は……ずっとこのままでいてほしいです……」
「こう?」
至近距離で見つめ合い、ぎゅっと手を握ってもらう。
――ほ、本当に、なんて綺麗なの、ヘレグ様……
アデルファは魂が抜けかけた。もう、今日と言わず、死ぬまでこうしていたい。この幸せの絶頂の中で死にたい。
「こ……」
「こ?」
「殺してください……」
茹だった頭で考えたことがそのまま口から出た。
「ダメだよ、アデル。どうしてそんなことを言うの?」
本気にしたヘレグから「冗談でもそんなことは言ってはいけない」というお説教をゼロ距離で抱きしめられながらされて、アデルファは概念上死んだと言ってもよかった。
それくらい、幸せだった。
***
アデルファはその夜、自室のベッドで身もだえながら今日のことを反芻した。
――やっぱりヘレグ様じゃないとダメ!
宮廷で不倫が流行っていようと、アデルファは断固として反対だ。
それはアデルファだって、情熱的な恋人からしつこいくらい求められたい。でも、相手がヘレグじゃないと意味がないのだ。知らない人から求められたって全然嬉しくない。
あの優しくて頭がよくて穏やかなヘレグだから、好かれたいし、愛されたい。
――そうだわ!
アデルファはいいことを思いつき、がばっと身を起こした。
――ヘレグ様に恋をしてもらえばいいのよ!
いかに感情の薄いヘレグといえど、まったくのゼロというわけではない。ひどいことを言われれば傷つき、楽しいことがあれば笑顔になる。それは間近で見ていたアデルファもよく知っていることだ。
――ヘレグ様が夢中になってしまうような、素敵な女性になって、素敵な恋を……
そこまで考えて、アデルファはふと現実に立ち返った。
急ぎ鏡の前に立ってみて、パジャマ姿の自分を映す。
――素敵な女性になって、素敵な恋を……
ネズミ色の冴えない茶髪。
人から気味が悪いと忌避されがちな赤い魔眼。
茶髪に合わせてドレスを選べば地味だと言われ、赤い目に合わせれば今度は似合っていないと言われる、平凡で特徴のない顔立ち。
――わ、わたくしって……
ヘレグにときめかれるほどの魅力がない、のでは。