私が彼を好きな理由
「わ、私は、私はヘレグ様の恋人じゃなかったの!?」
自宅で泣きじゃくるアデルファに、侍女がさらっと告げる。
「ヘレグ様は婚約者ですから」
「それって、つまり恋人同士でしょ!?」
「貴族の世界では違いますねえ」
「そ、そんな……」
アデルファは涙が止まらなくなって、べしょべしょのクッションに顔をうずめた。ひっく、ひっくと、変な泣き癖がついてしまい、しゃっくりが止まらない。
「そんなのって、ないよ……ひどすぎるよ……」
政略結婚が主となるこの国の上流階級では、結婚する相手に恋人らしい振る舞いを求めるのはマナー違反。
お互いに、よそに恋人を作って楽しむのが当然のこと――なんて、アデルファは全然知らなかった。
――知らなかったのは、わたくしだけだったのね。
アデルファにはこういうことがよくあった。公然の秘密なのに、お馬鹿なアデルファだけが知らない。
***
アデルファは小さい頃、オペラ歌手になりたかった。歌って踊るのが大好きだったからだ。舞台上のきれいな女優さんたちはアデルファの憧れだった。
ところがアデルファが夢を語ると、誰もが馬鹿にして笑うのだ。意地悪な男の子はアデルファのことを面白おかしく囃し立て、笑いものにした。
いったいオペラ歌手の何が悪いのか。世界一素敵な職業ではないか。
理由は、ヘレグによってようやく明らかになった。
「オペラ歌手はほとんどが愛人か娼婦だから」
知らなかったのはアデルファだけだったのだ。なんと愚かだったのだろう。
羞恥に身もだえるアデルファに、ヘレグはにこりとして言った。
「だから君は、もっといいものになったらいいよ」
「いいもの?」
「貴婦人だよ。君は上手だから、毎日歌ってくれって依頼が殺到するようになるはず」
アデルファは急にドキドキしてきた。
アデルファの夢を笑い飛ばしたりせず、真剣に聞いてくれたのは、ヘレグが初めてだったのだ。
ちょっとお馬鹿で落ち着きがないアデルファは、同年代の男の子に目をつけられやすく、意地悪ばかりされていたので、大人びたヘレグはなおさら新鮮に映った。
「貴婦人って、どうすればなれるんですの?」
「簡単だよ。高位の貴族と結婚すればいい」
「コウイ……?」
「公爵とか、伯爵のことだよ」
「おっ、王子様は?」
「もちろんいいよ」
アデルファは大はしゃぎで言う。
「でしたら、わたくし、ヘレグ様のお嫁さんにしていただきます!」
このときからアデルファの夢は、オペラ歌手じゃなくて、ヘレグのお嫁さんになった。
念願かなったときは本当にうれしかった。なのに、今になってヘレグは無理難題を言う。
***
「い、いっそのこと、婚約をやめていただけばいいの? そ、そ、それで、ヘレグ様に、こ、恋人にしていただいたらいいということ?」
「一時の恋人関係より、結婚相手のほうがいいのでは?」
「私はヘレグ様に愛されたいの! 仮面夫婦なんて、絶対に、ぜ、絶対に、い、嫌……!」
しゃくりあげながら思いの丈をぶちまけたアデルファに、侍女は気の毒そうな顔をした。同情されると、アデルファもますます涙が出てくる。
「わたくし……ずっと……ずっとヘレグ様と両想いなんだと思っていたのに……ふ……ふえぇぇぇ……!」
無様な嗚咽を漏らしながら、真っ赤に泣きはらした目をこすりつけて、アデルファはぼろぼろ零れ落ちる涙を止めようと無駄な努力をした。
「どうして……? あの優しいお言葉は全部嘘だったの……? いつもわたくしのことを、可愛い、愛らしいって、優しく褒めて、す、好きって、愛してるって、おっしゃってくださっていたのに……!」
嘆きながら、アデルファは過去のことを思い出していた。
ヘレグは出会ったときから『すでに大人と同等』と言われるほど、冷静沈着で高い教養を持つ神童だった。
アデルファにも、一度だって失礼を働いたことがない。
しかし、そのヘレグの早熟性は、エルフの血によるものらしく、彼はときどき、こちらがびっくりするほど冷酷な一面を見せることもあった。
――あの人死んだの? これでもう退屈な授業を受けなくて済むね。
可愛がってもらっていた家庭教師に対するコメントがこれだけだったとき、アデルファはしばし呆然とした。外見が美しいだけに、なにかとても神秘的な存在――天使とか、悪魔とか、そういったものが人の真似をしているようで、畏敬の念を覚えたものだ。
「エ……エルフだからなの……? ヘレグ様がエルフだから、わたくしの気持ちも分かってくださらないの……?」
「お嬢様、めったなことはおっしゃらない方が」
エルフの――異種族の血を引くヘレグは、人間の王宮で、迫害されてきた。
だからアデルファも、安易にヘレグのことを『エルフだから』と偏見の目で見るのは避けるように、これまで努力してきた。
それでも、こんなのはあんまりだ。
せめてヘレグがエルフだからとか、何かもっともらしい理由をつけて、ヘレグに非があるのだということにでもしなければ、このえぐられるような心臓の痛みは癒せそうにない。
「……私からは、めったなことは申し上げられませんが……アデルファ様、一度、お父上とお母上にご相談になってはいかがですか? このままではあんまりにもお嬢様がお気の毒ですもの、きっと何かよい手立てを考えてくださいますよ。さ、明日に備えて、もうお休みくださいませ」
アデルファは目に涙をいっぱいためながら、こくんと幼児のようにうなずいた。