怒る彼を追いかけて
「……それともあれは私の勘違い? 本当はずっと見当違いなことをされていて不快だった? 私だけが知らずにうまくやってたと思い込んでたの?」
「いいえ! ヘレグ様は、いつも素敵でしたわ。悪いのはわたくしなのです。どうかもう、あれは浅はかな娘の一時の気の迷いだったのだと思って、忘れてくださいませ」
ヘレグはあまりアデルファの言うことに納得がいかないようで、うなずきもしなければ、表情を和らげることもなかった。
「……アデル。私に何か隠し事をしてない?」
「えっ……」
とっさに王妃のことを思い浮かべたのがよくなかったのかもしれない。
ヘレグは何か確信したように、皮肉気な口調になった。
「君が急にそんなに心変わりするなんて、絶対におかしい。何か私に言えないような秘密でもできた? たとえば……新しく好きな人ができたとか」
「ち、違います!」
「じゃあ私に飽きたんだ」
ヘレグはただでさえ冷酷そうな顔をいっそう歪めて、吐き捨てる。
「ヒトの子は飽きやすいって聞くからね。人間モドキの私じゃすぐに飽きて当然か」
――モドキだなんて……
哀しい言い方に胸が切り裂かれる。
そういえば、血筋のせいで風変りなヘレグは、王宮でも迫害されていたのだということを、遅ればせながら思い出した。
「ち、違いますってば! そんなはずありませんわ、わたくしはこんなにヘレグ様をお慕いしておりますのに!」
言い募りながら、アデルファは焦っていた。
ヘレグは温和な性格で、アデルファに対して一度も怒ったことがない。
むき出しの怒りをぶつけられたのは、これが初めてのことだった。
――あの薬には副作用として、感情を高める効果もある。
つい先日の王妃の言葉が蘇る。
――怒りの感情が増幅されたエルフは何をしでかすか分からぬ。
アデルファは蒼白になった。
もしかすると、ヘレグはもうすでに薬を服用しているのかもしれないという悪い想像が働いたのだ。
「あ、あの、ヘレグ様……信じてくださいませ……わたくしはヘレグ様のためを思って……」
「ごめん、信じられない。アデルこそ、私は全然無理なんかしてないって言ってるのに、どうして聞こうとしないの?」
「それは……」
何を言ったらいいのか分からず口ごもるアデルファに、ヘレグがとどめを刺すような冷たい視線を送ってよこした。
瞳に本気の軽蔑を読み取って、アデルファは胃のあたりがちくりと痛んだ。
「ごめん、今日は帰るよ」
ヘレグは一方的に宣言して、本当に部屋を出ていってしまった。
追いかけていかなきゃと思うのに、アデルファは立ちすくんでしまう。
――ヘレグ様を怒らせちゃった……!!
今すぐ取りすがってお詫びをしたい気持ちでいっぱいだったが、他方で、別のことも気になっていた。
――あんなに怒っていらしたのは……もしかして、薬を使ってしまったから?
薄めて使うといい気分が楽しめるとも王妃は言っていたので、もしかしたら、今日もアデルファを喜ばせようと思って服用していた可能性は十分に考えられる。
もしもそうだとすれば、ひとりにしておくのは危険だ。
――今、ヘレグ様に何かあったら、事件になってしまうかも?
王妃に見せられた凶悪事件の数々。決して他人事ではない。
――た、大変! ヘレグ様を一人にしておいてはダメ!
アデルファは通りに飛び出して、ヘレグの馬車がすでに遠くへ消えていくところなのを目撃した。
――追わないと!
アデルファは自宅の馬車も出してもらおうと、急いで屋敷に駆け戻った。
***
馬車の支度に時間がかかってしまったこともあり、アデルファは一度もヘレグの馬車に追いつくことなく、王宮に到着した。
道の途中で王家の馬車が騒ぎを起こしているようなこともなかったので、おそらくヘレグはまだ無事なのだろう。
王宮の車寄せの反対側に、空になったヘレグの馬車を発見し、もう部屋に行っているのだと見当をつける。
アデルファは人ごみにまぎれて馬車から飛び降り、こそこそと柱の陰に隠れながら、無許可で王宮の廊下を進んでいく。
――こ、こんなのいけないことだけど……
事件になってからでは遅いのだ。せめてヘレグの無事を確認するまでは帰れない。
やがて進んでいくうちに、ヘレグの付き人たちが部屋から出てくるのを目撃した。
雑談をしながらどこかに消えていく。
付き人たちがお役目から解放されたということは、おそらくヘレグは自分の部屋にいるのだろう。
アデルファはそっとドアに忍び寄り、薄くドアを開けて、中を覗き見た。
――最初の部屋には、誰もいないみたいね。
本来であればここに使用人が一人詰めていて、来客を取り次いでくれる。
イレギュラーな帰宅をしてしまったので、休憩から戻ってきていないのかもしれない。
アデルファは音もなく中に忍び込んだ。
内側にある居室へのドアを、これまた同じように薄く開き、中を覗く。
すると、ちょうどヘレグの後ろ姿が見えた。
外套をソファに投げ捨て、さらに奥の部屋に消えていく。
もっと奥の部屋まで覗きに行こうかと迷っていたら、突然肩を叩かれた。
「アデルファ様? 何をなさっているので……」
ヘレグの付き人の少年だった。
「しーっ! しーっ!」
アデルファは必死に声を潜めて言う。
「ヘレグ様が危険なの! 協力して!」
アデルファは手短にこれまでの経緯を説明した。
「エルフ製の危険な毒……ですか」
「そうなの。隠し持っていらっしゃるかも」
「そういえば、王妃様もそんなことをおっしゃって、部屋を探させてましたね」
「見つかった?」
「いえ、くまなく探したんですが……」
「肌身離さずお持ちなのかしら」
アデルファは薄く開いた扉の隙間から、ヘレグの外套を指し示す。
「あの外套に隠し持っていたりは?」
「見てまいりましょうか」
付き人の少年はそろりそろりと音もなく室内に戻り、いかにも外套をクロークに戻すだけという仕草で、素早く全体の埃を払い、何かが隠れていないかまさぐった。
アデルファのところに戻ってきて、残念そうに首を振る。
「まだ身につけていらっしゃるのかもしれないわ」
「現在、奥の寝室にいらっしゃるんですよね。ご就寝中なら、脱いだお召しものを拝借してこれるかもしれません。少し覗いてみましょう」
少年の手引きで、アデルファも外套のあった部屋に忍び込み、寝室へと続くドアに張り付いた。
そっと押し開け、中が暗く締め切られてはいないことを確認し、さらにもう少しだけ開く。
ヘレグはテーブルに向かって座っていた。
悩んでいるように、頭を手で覆っている。
落ち込んでいるようにも見えて、アデルファは胸がずきりと痛んだ。
彼にあんな顔をさせてしまったのはアデルファなのだ。
「まだ起きてますね」
「しっ! 何か取り出したわ」
ひそひそやり取りをする間に、ヘレグはズボンのポケットに手をやり、小さな半透明のビンを取り出した。
瓶ガラスにキラキラと光るのは、おそらく水薬だろう。
ヘレグはじっと中身を見つめている。
「……薬って、あれじゃないですか?」
「そうかも」
――あれをなんとかして取り上げられれば……ううん、むやみにお説教したりするのは逆効果だって王妃様もおっしゃっていたわ……
かたずを飲んで見守るアデルファの目の前で、ヘレグは、ビンに差し込まれていたコルクのふたを、きゅぽん、と取った。
一気に蒼白になるアデルファ。
また薬を煽ろうとしているのだととっさに思い込み、アデルファは絶叫した。
「ヘッ、ヘレグ様、だ、だめー!」




