私が彼にしてしまったこと
アデルファは緊張してきた。
すでに王妃は厳重に人払いを済ませ、いかにも内緒ごとを話すという姿勢を見せている。
ヘレグの身に何か起こったのだろうか?
「『エルフの秘薬』が、何者かに盗まれてしまったのじゃ」
王妃の声がより一層低められた。
「これは一部の者しか知らぬことなのじゃが、エルフの男子は、それがなければ子を為すことができぬ」
「子どもを……」
「さようじゃ。薬がとんと効かぬエルフをも興奮させ得る、非常に効果の強い媚薬なのじゃ」
それ一本で人間の男なぞ百人は狂わせられる――と、王妃様はとても恐ろしいことを口にする。
「これが、実はあまりよくない薬でのう……後継者を作るときに、ほんの数回のみ用いるものなのじゃ」
アデルファは新たな事実に非常なショックを受けていた。
――す、数回だけ、って……
エルフは淡泊だとさんざん聞かされてはいたが、まさかそこまでとは。
今になってアデルファは、ヘレグがやたらと人間の恋人を作るよう勧めてくれた理由が分かった。
生涯にほんの数度しか触れ合えないのなら、確かに、不満を感じる女性も出てくることだろう。
「それほどの劇薬を、もしも、もしもじゃぞ、ヒトの子を喜ばせるために多用すると、どうなると思う?」
アデルファは思い出していた。
――そういえば、ヘレグ様もおっしゃっていたわ。
結婚をするには、解決しなければならない問題がある、と。
ほかにも、エルフは薬が効きづらいだとかいう話は、ヘレグも折に触れて話してくれていた。
おそらくヘレグは、最初から何もかも分かっていたのだろう。
「薬を濫用するとな、心身に悪影響が出る。最悪の場合、死に至ることも――」
「そ、そんなに危ない薬を……」
ヘレグは、アデルファのために盗んでくれたというのだろうか。
王妃様は、吸い込まれそうなほど美しい色の瞳で、じっとアデルファを見つめている。
「あの子は聡いエルフの子。もしもアレを使うとしたら、可愛いそなたに心配をかけぬようにと、黙って用いるじゃろうのう。じゃから、そなたが何にも知らなかったとしても不思議はない」
「……っ、そんな……」
知らなかったとはいえ、アデルファはヘレグをそこまで追い詰めてしまったのかと思うと、罪悪感で胸が張り裂けそうだった。
あらためて自分のしたことが思い返される。
ヘレグに、恋人のように振る舞ってほしいとさんざんねだったのはアデルファだ。
エルフの種族的特質を理解しろとあれほど周囲からも言われていたのに、よく考えもせず、無邪気に自分の価値観を強要してしまっていた。
ヘレグは賢いから、アデルファに悪意がないこともすべて分かった上で、自分を犠牲にするような選択肢を選んでしまったに違いない。
――わたくしったら、なんてことを……!
真っ青になったアデルファを、王妃がまっすぐ見つめている。アデルファはそのすべてを見透かすような視線に耐え切れず、うつむいた。これほど自分を恥ずかしく、矮小に感じたことはない。
「頼む。もしもあの子が薬を使おうとしておるのなら、そなたの方からさりげなく止めてやってはくれぬか。ただし、決して問いただしたり、責めたりしてはならぬ。それがあの子のためでもあるし、そなたのためでもある」
王妃様は席を立つと、鍵付きの小さな書き物机から、書類の束を取り出し、またアデルファの方に戻ってきた。
「これらはすべてエルフが薬の濫用で起こした事件じゃ。世間には伏せられておるがの」
――『暴行』『暴言』『刺殺』『撲殺』……
アデルファは書類に並ぶ凶悪な事件の数々に、身震いした。
「あの薬には副作用として、感情を高める効果もある。全量を一気に煽らなくとも、薄めた薬でほんのりとよい気分を楽しむこともできるのじゃ。しかし、まあ、よい気分であるときはすばらしいがの……怒りの感情が増幅されたエルフは何をしでかすか分からぬ。ゆえにそなたは、いたずらにヘレグを非難して、刺激してはならぬのじゃ。そなたの身に危険が及ぶ」
王妃様は一息に喋って、苦悶するようにまぶたを閉じた。
「そなたも若い身空で辛いとは思うが、これもあの子のためだと思うて、どうか分かってやってはくれぬか。薬など用いずとも、変わらず愛していると、あの子に言ってやってくれ」
「はい……はい、王妃様。必ず……」
青ざめつつもはっきりとうなずいたアデルファに、王妃様はようやく安堵したらしき、ほのかな笑みを見せた。
「……助かる」
アデルファは首を振った。
「ヘレグ様を追いつめてしまった責任は、わたくしにありますから」
「何を言う。そなたの責任でなどあるものか。自分を責めるでない」
王妃様はたおやかな微笑みを浮かべ、しかし、
「人間が欲深いことはわらわたちとてよく知っておる」
と、アデルファがドキリとするようなことを言った。
「そなたに無理や我慢を強いるつもりもないのだ、安心するがよい。そなたが無事にあの子との子をなし、つつがなく責務を果たせしのちは、そなたに望むだけ美男子を与えよう」
突然降ってわいた話に、アデルファは唖然とする。
――えっ? えっ? 王妃様まで、わたくしに人間の恋人を作れっておっしゃるの?
しかも、王妃様の安らかな笑顔を見ていると、どうもこれが純度百パーセントの善意で言われていることのようで、アデルファは混乱した。
「なに、ほんの十年の辛抱じゃ。十年わらわの息子のために我慢してくれればよい。その後は、そなたは色とりどりの男に囲まれて幸せに過ごすことができよう」
「そんな、美男子を南国の怪鳥みたいに」
「すまぬ。人間の男は装いも華やかじゃから、つい」
王妃様は涼しい顔で残りのお茶を煽る。
――お、お美しい真のエルフ様には、どんな美男子もクジャクみたいなものってこと?
直接的に罵倒されたわけではないが、言葉の端々に人間をどちらかといえばケモノのようなものと見なしていることはうかがえる。
アデルファが呆れていると、王妃様は顔色をうかがうように、そっと上目遣いになった。
「……なんじゃ。顔色がすぐれぬな」
「あ、いえ……」
アデルファがなんといったものか考えていると、王妃様はそれを読んだかのように言う。
「わらわの話にショックを受けたか? 無理もあるまい。人間の娘に、わらわたちの在りようは酷薄に見えるようじゃからの。わらわの言葉の何がそなたを震撼させしものか、わらわにはとんと分からぬが、どうか分かっておくれ。わらわたちには、これが『普通』なのじゃ」
アデルファの友人・シャーリーズも言っていた。
エルフが人と似ているのは見た目だけ。
中身は別の生き物。
それはアデルファも承知の上だったので、こくりとうなずいた。
「王妃様が包み隠さずに教えてくださったおかげで、ご事情はとてもよく分かりました」
少しばかりショックを受けたことは確かだが、知れてよかったと思う。
「ご心配なさらないでください、ヘレグ様に危険な薬は絶対使わせません。そんなものは、わたくしには必要ありません」