私の幸せの裏で、彼は
不穏なことをつぶやいて、ヘレグはアデルファの首筋にかみついた。
アデルファのすっとんきょうな悲鳴が響き渡る。
「あっ、あっ、ヘレグ様、ちょっと、待ってっ……!」
首のつまった服の上からのぞく肌に、キスの雨あられが降り注いだ。
ちゅ、っと音を立てて耳たぶに唇が触れたとき、アデルファは全身から力が抜けるような錯覚を味わった。
「ごっ……ごめんなさい……ごめんなさい……ちょっと待ってぇっ……!」
ほとんど泣き声のアデルファが懇願すると、ヘレグはようやく止まってくれた。
「アデルがなんか可愛い感じになってる」
「おっ、面白がらないでくださいませ!」
まとわりつくヘレグに、ぺちっと力の入ってないパンチをすると、彼はこらえきれなくなったように笑い始めた。
「情に欠けるって言われる私だって、かわいいものには抗えないよ」
笑われるのはアデルファも不本意だったが、抱っこなどされた日には頭が真っ白になって、自分が何に不満を覚えていたのかも吹っ飛んでしまう。
「アデルは可愛いねえ」
そして上機嫌に頬を摺り寄せての猫かわいがりだ。非難するように見上げていたら、麗しいお顔でにっこりされてしまった。
その顔に、うっと心臓が痛くなる。
――ヘレグ様の方がよっぽどお可愛らしいのよね。
「もう、これはいいの?」
ヘレグがテーブルに置きっぱなしのロマンス小説を指で指す。
すっかり忘れていたし、すでにアデルファには続きを読み上げる気力がなかった。
「……わたくしの一番好きな場面ですわ。両想いの二人が、結婚を急ぐ……もう一日だって離れていられない、そのくらい思い合っているっていうシーンですのよ」
「アデルが好きそうだね」
「そうですけど、ヘレグ様にも好きになっていただきたかったの!」
ちょっと怒ったような言い方になったのは、アデルファにも照れがあったからだった。
「素敵じゃありません? 愛し合う二人が片時もそばを離れたくないと思っていることの、何よりの証ですわ」
ヘレグは興味深そうにアデルファを観察しているが、まだよくアデルファの言いたいことは伝わっていないようだ。
――もっとはっきり言わないとダメかしら?
アデルファは思い切って、ぶちまけることにした。
「わたくしも、ヘレグ様と早くお式が挙げられたらいいのにって思ってしまいます」
じっと隣のヘレグを見上げて数秒、彼はまたけらけらと笑い出した。
「あぁ、そうか。これは、結婚のおねだりだったんだね。やっと分かったよ」
「……」
その通りだが、そうひと言でまとめられてしまうとなんだか恥ずかしい。
「ヘ、ヘレグ様は? いかがですの?」
「うん、私もね、アデルとは離れたくないと思っているんだよ」
欲しかった言葉をもらって、アデルファのテンションが一気に上がる。
「でっ、でしたら……!」
「でもまだ、解決しないといけない問題があるんだ」
「どっ、どんな!?」
ヘレグは「うーん」と軽く唸った。
「そうだね、あの本の『挙式まで待てない』ってところには共感できるかな。アデルは可愛いから、私ももうよそにお嫁に出したくなくなっちゃったんだ」
ヘレグはアデルファをぬいぐるみのように抱きかかえながら、続ける。
「でも、私はやっぱり変わってるでしょ。私の身勝手な独占欲で、アデルを悲しませることになったらと思うと……」
「悲しんだりしませんわ、わたくしはヘレグ様のおそばにいられればそれで幸せですもの」
ヘレグはぎゅーっと強く抱きしめてくれた。
「分かったよ。もう、アデルには敵わないな」
ヘレグはテーブルに身を乗り出すと、置きっぱなしの本を引き寄せて、文章を指でたどった。
「えっと……二人で誓いあったら、それが結婚の証、なんだっけ?」
アデルファはうなずいた。この国の宗教上、結婚に大事なのは『二人の合意』なので、それさえあれば結婚は成立したと見なされる。
「分かった。じゃあ、近いうちに何かしようか」
「ほっ、本当ですの!?」
嬉しくって飛び上がりそうになっているアデルファに、ヘレグは、エルフ特有の、何か企んでいそうな、不思議な笑みを見せた。
「……できるように、私もがんばる」
アデルファは大興奮でヘレグの腕を引っ張り、らったった、と鼻歌でひとしきり崩れたワルツを踊ったあと、背の高いヘレグに抱きついて胸に頬ずりした。
アデルファの飼い犬が、嬉しい時はそうやって懐いてくるのをちょっとだけ真似したかもしれない。
幸せいっぱいのアデルファは、無邪気にヘレグを見上げて言う。
「ヘレグ様に感情がないなんて嘘ですわよね!」
こんなに仲良しなカップルは、きっと人間同士でもなかなかいないに違いない。いまやアデルファにとって、ヘレグは理想の甘い恋人だった。
「だってこんなに素敵なんですもの!」
「……うん……」
何しろアデルファははしゃいでいたので、応えるヘレグがわずかに表情を曇らせていたことに、少しも気がつかなかった。
***
ヘレグは自室に戻ってきて、大きく嘆息した。
帰り道に書店で仕入れてきたロマンス小説を、机に無造作に置く。
アデルファが今日読ませてきた本を、自分でも読んでみようと思い、買い求めたのだ。しかし、今はまだ開く気になれなかった。
エルフのヘレグにとって、人間の書物を読むのは非常に神経を使う作業だ。たいてい、まったく理解できない心の作用について詳しく書いてあるので、解読の難易度がエルフの古文書などとさほど変わりないのである。
――うまくやってはいる。今のところは。
アデルファはいつも楽しそうだが、近ごろは輪をかけて元気いっぱいだ。きっとヘレグのケアが適切だから、エネルギーが満ちあふれているのだろう。
しかし、この先どうするのかは、ヘレグにも分からない。
ヘレグの書棚にも、恋愛小説が増えてきた。
一冊読むのに非常に時間がかかるので大して量は読めないが、その分、一冊ずつ、丁寧に読み込んでいるつもりだ。
すべてはアデルファを喜ばすための予習だった。
最近のヘレグは、書かれている内容をそっくり真似て演じているだけに過ぎないが、おそらくこれで間違っていないのだろう。
たいていの恋愛小説の、前半部分ぐらいはクリア、といったところだろうか。
ヘレグを悩ませるのは、むしろ後半の部分だった。
今日アデルファに読まされた本を、試しに開いてみる。
これの続きは――
軽く目を通してみて、ヘレグは軽い焦りを覚えた。
ヘレグにとっては、ここが一番の悩みどころだった。




