それとなく彼に頼んでみたいこと
幸福感と満腹感は似ている、とアデルファは思う。
「あら、もう食べないの? アデルちゃん」
母親が不思議そうにアデルファの顔色を見て、すぐに眉をひそめた。
「……どうしたの? 心ここにあらず、ね。どこか具合でも悪いの?」
「いえ、お母様……大したことではありませんわ。ご心配ありがとうございます」
本当はヘレグといちゃいちゃしていた幸せの名残りですっかり満たされてしまって食事どころではなかったのだが、さすがに母親に説明するのは気が引けた。
――見つかったら、怒られちゃうかもね。婚約も白紙に戻されるかも?
――わたくしは駆け落ちしてもヘレグ様についてまいります。
そんな風に言い合いながら、庭木の影に隠れていちゃいちゃするのがまた楽しくてたまらなかったのである。
アデルファは大好物の手羽先を半分以上残して、席を立った。
――幸せすぎて怖い……
自室のベッドの上にころんと転がり、クッションを抱えてため息をつく。
ヘレグがアデルファの野望と欲望を全部叶えてくれるので、何も手につかない状態だった。
――今なら簡単に痩せられそう。
すらりと引き締まった身体でウェディングドレスを着られるのなら、これ以上のことはない。
ヘレグとの結婚はまだ先だということで待たされているが、アデルファとしてはもう明日にでもすぐ同居を開始したいくらいだった。
――お会いしたら、お願いしてみようかしら? でも……
挙式を早めるなんて、プロポーズまがいのことは、できればヘレグから申し出てもらいたい。
――わたくしって、欲深いのかも。
初めは優しくしてもらえるだけで満足だったのに、近ごろはヘレグにお願いしたいことがどんどん増えていっている。
でも、それもヘレグが変わったせいだ。
以前までのヘレグなら望み薄だったことが、今ならそれほど高望みではないような気がしてしまう。
――そうだわ! ヘレグ様に求婚していただきたいなら、結婚のオペラを一緒に観にいけばいいのよ!
それでアデルファが結婚への憧れを力説でもすれば、さすがのヘレグも何かを勘付くはず。
彼も『分かりやすくしてもらえると助かる』と言っていたことだし、露骨にアピールしていくくらいがちょうどいいのだろう。
アデルファは巷で上演中のオペラをすべて調べてみて、ガッカリした。
――あんまり目ぼしいものはないみたい。
どちらかといえば最近は、結婚で終わる形式の正統オペラをおちょくって、結婚しないで終わるようなものが多いようだ。
――それなら、小説はどうかしら?
アデルファの好きなロマンス小説を何冊かピックアップし、ヘレグに貸してみることにした。
***
アデルファが本を渡すと、ヘレグは困った顔つきになった。
「エルフ語じゃないと読めないんだ」
がっかりしていたら、ヘレグは何かを企んでいるような、あのエルフ特有の薄笑いを浮かべながら、こう言った。
「だからこれは、アデルが読み上げてくれる?」
アデルファは笑顔で快諾し、ふたりで並んで本を覗き込むことになった。
アデルファが選んだ本のタイトルは『騎士の求婚』。騎士がお姫様と身分違いの恋に落ちるという内容のものだった。
なんといってもアデルファの好きな本なので、二人が出会い、恋に落ちるまでの序盤は楽しく読めた。
しかし――
「『この身も世もないほどの愛! なんという劇薬を私に飲ませたのですか。解毒の薬は、ただあなたの褥にのみあるのです』……」
さっそくベッドシーンに突入してしまい、アデルファは焦ることになった。
――しまったわ。この本、ちょっときわどいところもあるんだった。
「『あなたの全身に……く、唇で触れない限り、私は苦しみ抜いて息絶えるでしょう』」
なんだかヘレグの視線を感じる。
アデルファは脂汗が浮く思いだった。
――これ、ちょっとまずいのでは?
「『あなたの心臓からもっとも遠い、足の爪先に。なだらかな足の甲に。くるぶしに……』」
キスをする場所がだんだん上がっていくにつれ、アデルファはしどろもどろになっていった。
「『ひ……膝小僧を覆う、この紐をほどいて……』」
――こ、この先は、いやらしすぎて、わたくしには読めないわ。
困ってしまったアデルファは、ちらりとヘレグの方を見た。
するとヘレグは何を思ったのか――とても素敵な、あの腹黒い感じのする微笑みで、にこりとした。
「続けて?」
アデルファはかあっと頬が紅潮するのを感じた。もてあそばれているような気分で、もごもごと口ごもる。
「で、でも、この先は、ちょっと……その……音読には向かない、と言いますか……」
「でも、読んでくれなかったら、アデルがどうしてほしいのか分からないよ?」
「えっ……」
何か誤解されているのかもしれないとアデルファが思った瞬間、ヘレグがソファから滑り降りて、アデルファの足元に座った。
アデルファの室内履きに手をかけ、するりと脱がせた。かと思いきや、靴下に包まれた爪先を見て、首をひねる。
「これはどうやって脱がせればいいの? ああ、それで『膝小僧の紐をほどいて』なのかな」
「ひっ……あっ……え、ええ……!?」
一切のためらいなしにスカートを膝までずりあげ、するりするりと解かれていく靴下留めに、アデルファは毛を逆立てた。
――な、なんてことを、なんてことをぉぉっ……!!
「ヘレグ様、ま、待って、お待ちになって……!」
がばーっ! と足を全部スカートに仕舞い込み、手で抱えるアデルファに、ヘレグは目をぱちくりさせた。
「……すごい顔真っ赤」
「お、おっしゃらないで! ではなく、な、なんてことをなさるんですの!?」
「あれ、私、何か間違えた?」
無邪気に首をかしげるヘレグがなんとなく楽しそうに見えてしまうのは、この顔立ちのせいなのだろう。
――うぅっ、この、腹黒そうな笑顔……!
これこそアデルファの大好きなヘレグである。
「読みながら、アデルが可愛い顔で私を見るから、これは期待に応えなきゃって思ったんだけど?」
「ち!! 違いますわ!! わたくしはただ……! この話が素敵だから、ヘレグ様に読んでいただきたくて……!」
「どこがお気に入りなの? アデルが一番好きな場面を読んで聞かせてよ」
アデルファはパニックの頭で一生懸命考えた。
――えっと……好きな場面はたくさんあるけど、プロポーズのところをご覧になっていただかないと、なのよね。
「『式を挙げるのももどかしい。二人で誓いを立てたなら、それが結婚の証となりましょう。今宵、この藁を絹の新床として……どうか私の渇きに愛の潤いを……』」
――や、やっぱりここもちょっと過激かも……
「『あなたのうるわしい身体が愛の泉……騎士はそう言って、姫のうなじの髪をかきわけ、情熱的に、』」
しどろもどろのアデルファが、まずいと思って途中で読むのをやめようとしたそのとき、ヘレグはすっと立ち上がった。
手がアデルファのうなじに伸び、髪をかきわける。
アデルファは固まった。
首をすくめてガチガチになっていると、ヘレグは含み笑いの声で「……それで?」と聞いてきた。
「この後はどうするの?」
変な汗が浮かぶ。ヘレグを振り返ることができない。
首筋にくちづけをする場面だったけれど、恥ずかしくて声に出すことができない。
ヘレグはアデルファの背中越しに本を覗き込んできた。
「……あぁ、ここのくだりか。ふぅん……」
「よ、読めないのでは……?」
「勉強中だからね、読書がすらすらできるほどは読めないよ。でも、時間をかけてじっくり眺めればなんとなくは分かる」
「そっそんな……!」
「恥ずかしくて読めなかったんだね? 分かったよ。あとは私に任せて」