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ショートストーリー  作者: 眠沢歌劇団
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時間はおおよそ午前の11時。約束の時間よりも30分ほど早く着いてしまった。

最寄り駅の改札で待ち合わせたはいいものの、これでは時間を持て余しすぎる。

この日は6月の初めにしては珍しい、快晴だった。が、こんな天気の下、こんな所で30分も待ち続けたら、柚が来るまでに汗臭くなってしまう。

持ってきた制汗スプレーをシュー、と上半身にかけていた、その時だった。

ロータリーの方からこちらに向かってくる、小柄の女性。僕に対して大きく手を振っている。

柚だ。



「悠太くん、早すぎるよ!まだ30分前だよ?!」



「いやいや柚の方こそ、まだ30分前だよ!」



「へっへっへ。悠太くんと会うのが楽しみでつい早く来ちゃった!」




流石に少し照れ臭そうだった。それでも、そう言ってくれるのは嬉しい。

もちろん、僕も柚と全く同じ気持ちである。


電車に乗る前にマスクを着用する。柚はグレーでお洒落なものを持っていた。彼女がマスクをつけると、顔が小さいせいで面積のうちの殆どがすっぽり隠れる。しかし

それでも、彼女の弾け飛ぶような明るさを抑え込むことは出来ない。太陽のようなオーラが、柚にはあるのだ。


電車に揺られることおよそ30分、色々なことを話した。柚の話をたくさん聞けて楽しかったが、特に印象的だったのが将来の夢の話だった。



「そういえば悠太くんは、大学出たら何になるの?」



「うーん、特にやりたいこともないから、とりあえず就職かな」



ふーん、とつまらなそうに相槌をうつ柚。無理もない。今の答えほど味気ないものはないだろう。返事に困っているようだったので、今度はこっちが同じ質問をしてあげることにした。



「柚は?」



自分に振られる想定はなかったようで、柚は黙って少し考えこんでいる。やがてぽんっと軽く手を叩き、突拍子もないことを言い出した。




「私はね、世界中のみんなの憂鬱を取り去ってあげたい!」




「何だそれ?えらい抽象的だけど、つまりはどういうこと?」




「えー具体的に?」



柚はまたうーんと唸った後、わからない!と可愛らしく言った。そんな言い方をされると、僕のハートは簡単にKOされてしまう。卑怯だと思った。が、可愛いので許してしまう。

確かによく考えてみれば、柚の言いたいこともなんとなく分かる気がする。

このご時世なら尚更のことだ。

本気でそれを目標とするのならば、応援してあげたいと思った。



「応援するよ」



「え?」



「その夢。良いと思う。応援するよ」



「えっ本当?」



「もちろん!」




「やったー!ありがとう!悠太くん、すてき!

本当に嬉しい!私の夢をそんな風に言ってくれたの、悠太くんが初めてだよ!」



そこまで感謝されるほどのことでもないと思ったけれど、柚を見ると本当に嬉しそうだった。しかも何故か、瞳が少し潤んでいるようだった。


電車から降りると、改札の目の前に例の書店はあった。

柚に連れられ店の中に入ると、あまりの広さに驚いた。広いけれど、薄暗く、カビ臭い。

マスク越しに臭うくらいだから、相当だ。

ちゃんと換気出来ているのか、少し心配になる。



「いらっしゃい」



奥からしわがれた低い声が聞こえた。柚と一緒に進んでいくと、そこには声のまんまの見た目の店員がいた。分厚いメガネをかけ、白髪混じりの頭。少し威圧的な雰囲気をまとう、初老の男性だった。

柚は全く御構いなしに、店の奥へずんずんと進んでいく。



「昭和初期の作品はここかな。ね?いっぱいあるでしょ」



「うん、すごい。こんなに色んな本が揃っているのなんて、見たことないや」



さっきの店員がちらっとこちらを見る。少し恥ずかしかった。

確かに柚の言う通りで、この店には膨大な数の本が置いてある。もしかしたらかなり貴重な本もあるのかもしれない。

結局僕は、大学からの課題になっている本を一冊だけ購入した。柚の方はというと、なんと10冊近く買っていた。


本屋を出て、近くのファミレスに入った。

席について一息ついた時、僕は柚にある質問を投げかけた。



「そういえば柚が今まで読んだ作品の中で1番好きなのは何?」




「あしたのジョー」




即答。思わず吹き出しそうになった。




「それ、漫画じゃん!僕も好きだけど!」



「うーん、今までたくさん本読んできたけど、やっぱり1番はあしたのジョーかな。だってさだってさ、カッコ良すぎない?死ぬって分かってて闘うんだよ?真っ白な灰になっちゃうんだよ?」



彼女の口調にはどこか切実さを感じた。確かに、カッコ良いことは間違いない。それにしても柚の口からあしたのジョーが出てくるとは、思いもよらなかった。



「いや、でも漫画は漫画だし!」



「はははっ!」



今度は楽しそうに笑っている。楽しいなら、それで良い。

小1時間ほど他愛も無い会話を楽しみ、僕たちは再び電車に乗った。最寄り駅に着く頃には午後の2時を過ぎていた。

別れ際に、また出掛けようと約束をして、それぞれの家路につく。

楽しかった。こんなに楽しかったのは何ヶ月ぶり、いや、何年ぶりだろうか。

今、僕はとても幸せだ。別れたばかりなのに、既に会いたくなってしまっている。この気持ちは、もはや誰にも止められない。



しかし、柚はその後3週間ほど、バイト先に姿を見せなかった。

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