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ショートストーリー  作者: 眠沢歌劇団
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「やばい!遅刻だ遅刻だ!」

焦った様子でやかましく部屋に入ってきた彼女。彼女が来たことによって、しんと静まり返っていたロッカールームはついさっきまでとはまるで全く別の場所みたいに思えた。

そしてやはり、僕の存在に気づく。ここまでは他の人達と同じなのだが、彼女の場合、ここらが違った。


「ああっ!新人の人?」


素っ頓狂な声をあげたと思ったら、すたすたと僕の方に近づいてくる。それもマシンガンのように何やらまくしたてながら。


「君かー!さっきからずっとロッカールームの椅子に座ってぼけっとしてるのは。おばさん達の話題になってるよ!ダメだよ、ちゃんと自分から自己紹介しないと。自己紹介大事なんだからね!あ、そう言ってる私も自分からしてないね、ごめん。桜色柚です。よろしくね!」


耳がきんきんする。あまりに膨大な量の情報を一気に受け止めきれるほど、僕の頭の回転は速くない。


「す、すいません。今日から入りました、森岡悠太です」


なんだか責められているような気がしたので、とりあえず謝っておくことにした。しかしながらそんな僕に対する彼女の反応は、案外素っ気ないものだった。



「なんで謝るのよーっ!ていうか、君もシフト5時からでしょ?早く行かなきゃ!」



彼女は笑顔で僕を部屋の外へ連れ出すと、自分はレジの方へ駆けて行った。






彼女がいなくなり、やがて5時になると、自然と気が引き締まった。自分の持ち場へ行き、僕よりひと回りほど年上と思われる男の先輩に仕事の段取りを教わる。早速品出しに取り掛かると、胸の内側から様々な感情が沸き起こってきた。

決して大したことをしているわけではない。それでも、いざ新しいことを始めるとなると、なんともいえない感慨深い気持ちになる。

いつもそうだ。小学生になり、初めてランドセルを背負った時も、中学に上がり初めて部活動に参加した時も、高校に入学し、初めて電車通学をすることになった時も、新しい世界に飛び込むのは気持ちが良い。特に今回の場合、コロナ禍における暗くて憂鬱な現状を少しでも変えたいと思うならば、丁度良い挑戦かもしれない。


初めてのアルバイトは、思っていたよりも随分とハードだった。自分が買い物に来た時には微塵も思わなかった発見を、いくつもした。

まずひとつに、訪れる客の態度の大きさだ。あれやこれやと要求してくる割に、こっちが苦労してそれに応えてもお礼のひとつもなかったりと、そんなことが当たり前なのだ。たしかに、客と店員という関係を考えれば仕方ないことなのかもしれない。それでもこっちだって人間だ。お客様は神様なんていう態度で来られたら、心中穏やかではない。

そしてもうひとつの発見は、それでも先輩たちは嫌な顔ひとつせずに笑顔で対応するということだ。自分が客として彼らと接していた時には、店員の気持ちを慮ることなんてなかっただろう。バイト1日目にして、僕は先輩たちに対するリスペクトで胸がいっぱいだ。



夕方の1番忙しい時間を過ぎ、店内も少し閑散てしてきた頃、あるちょっとした事件が起きた。


ようやく品出しの仕事にも慣れてきた頃、缶ビールを片手に持った中年の男性客に声をかけられた。



「ちょっと、君、これの小さいサイズはある?」



「はい、ビールですね。それと同じ会社のは、えーっと……」



その先の言葉が出てこなかった。何故なら缶ビールのことなど、分からなかったからだ。どうして良いか分からず、頭が真っ白になった。自分で言うのもなんだが、これは仕方ないことだと思う。僕はアルバイト1日目だ。小さいサイズの缶ビールのありかなんて、知る由もない。

しかし、そんなこちらの都合など相手にとって関係ない。男性は次第に語気を強めていった。



「どうなんだよ。あるの?ないの?」



「わかんないっす」



「は?」



「わかんないっす」




やってしまった。男性客の横柄な態度にかちんときて、つい店員としてあるまじき態度をとってしまったのだ。

僕のナメた態度、そして言葉遣いによって、男性客の怒りは一気に沸点まで到達した。



「わかんねえわかんねえって何だよ、この野郎!しかも何だその口の利き方は!俺は客だ!客だぞ!」



やってしまったと、後悔しながら必死に平謝りをし続けたが、時既に遅し。男性客の怒りはそう簡単には収まらないようだった。

店内の注目が一気に僕と男性客に注がれる。そんな中、しばらくすると、店長が慌てて駆けつけてくれ、なんとか男性客の怒りを鎮めてくれた。勿論、その後僕は厳重注意を受けた。

それ以降、そのようなことが起こらないように僕は十分に気をつけ、あらゆることに細心の注意を払うようにした。そのせいもあってか、仕事を終える頃には心身ともに疲れ果て。くたくたになっていた。






仕事を終えてロッカールームに戻ると、さっきの女性がいた。



「あ!悠太くん、おつかれ!」



っす、と声にならない声でしか挨拶出来なかったのは、単に疲れていたからであって、他意はない。そんな僕の心の内を汲んでくれてのことか、あるいは彼女自身も疲れているせいか、さっきより落ち着いている様子だった。



「あー、疲れた。疲れたのに明日も1限からだっ。ま、どうせオンライン授業だから良いけどね」



そうか、オンライン授業ということは、きっと彼女も大学生なのだ。その時僕は、勇人と話した時のことを思い出した。




出会いがあるかもしれない。




そう思った僕は、初めて彼女に自分の方から話を振ってみることにした。





「オンライン授業ですか。僕も同じです。

せっかく大学受かったのになあ」




わざとらしく語尾を強調したのは、自分が1年生であることを知らせ、自然に相手の年齢を探るためだ。すると彼女は僕の術中にまんまと引っかかった。




「え、ってことは、同い年?今年19?」




「はい」




「なんだよーっ!敬語使ってるからてっきり年下かと思ったよ!タメで良いよ!もう!」





「はは、ごめん。よろしくね」




僕の方から歩み寄ったおかげで、少し打ち解けた気がした。そしてしばらく、ロッカールームで彼女と会話を交わした。





「うん。だからね、悠太くんは新人だから仕方ないけど、お客さんに何か聞かれて、自分も分からない時は分からないって言うんじゃなくて、誰か先輩に聞くのよ。みんな優しいから教えてくれるよ。困ったこと、大事なことがあったら自分から話さなきゃ」






「分かった。教えてくれてありがとう」





彼女はうん、と頷き、それにして災難だったね、と優しく微笑んでくれた。真正面から彼女の笑顔を見ると、思わず鼓動が高鳴る。バイト前は緊張でそれどころではなかったが、いざ落ち着いて見てみると彼女は可愛い。

小柄で何時もにこにこと笑顔を絶やさない、まるで無邪気な子供みたいだ。

まだ1日目ではあるけれど、アルバイトを始めて良かったと、この時少しだけ思った。





外へ出てみると、雨が降っている。しかもざんざん降りの、雨。そういえば、もう梅雨なのだ。大学に受かってからというもの、今までほとんど外出しなかったおかげですっかり季節の感覚を失ってしまっている。2020年ももう中盤に差し掛かかろうとしている事実が、恐ろしく思えた。

それでも幸いなことに、家を出る前に天気予報をチェックする癖は抜けていなかった。一応傘を持ってきておいて良かった。

ふと横を見ると、彼女が困った顔して突っ立っている。どうやら傘を持ってきていないらしい。参ったな、なんて言いながら頭をかく彼女に、何かしてやれることはないかと、僕は考えを巡らせる。巡らせた結果、彼女が今、1番必要としている者は傘であるという、簡単な結論に達した。



「桜井さん」



僕は初めて彼女の名前を呼んだ。




「柚って呼んでよ、なあに?」




「え、ああ、柚あのさ、帰る方向どっち?」




「んとね、あっち」



柚が指したのは、僕の帰る方角とはあさっての方向だった。しかしそんなことは関係ない。何と言われても、帰る方角が一緒であると言うつもりだった。




「あ、一緒だ。それじゃあさ、途中まで傘入って良いよ、一緒に帰ろう」




「えぇー!悠太くんと相合い傘かぁ」




柚は嬉しそうに僕を冷やかした。まったく、こっちがせっかく自然な感じを装って誘ってやったのに。デリカシーのない人だ。

出会って初日して早くも気づいたのだが。柚は、思ったことは何でも口にするタイプのようだ。




「でも、ありがとね。帰ろっか」




「うん」




そうして僕は、自宅までとは正反対の道のりを柚と相合い傘をしながら歩き、別れた後、くるりと踵を返して自分の家に帰った。


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