踏切の向こう
カンカンカンカン
規則正しい音を響かせて遮断機が下りる。
私は足を止めた。他に人はいない。上りと下りを合わせて、一時間に二本程度しか電車の通らない単線の踏切だ。
周りは田んぼばかりなので視界は良く、かなり遠くから走ってくる電車が見て取れる。
電車の方に目を遣っていたので気がつかなかったのだが、踏切の向こう側に小さな男の子が立っているのが目に入った。
ご近所にはどういう人が住んでいるのか、家族構成なんかも周りに筒抜けの小さな田舎町である。道端で出会う人はだいたいは知っている人だ。
あの男の子はどこの子かな?
思ったと同時に電車が視界を遮り、男の子も見えなくなった。二両しかない電車があっと言う間に通過し、私は再び視線を戻す。
あれ?
男の子はいなくなっていた。
気になってきょろきょろしてみるが、そんな事をしなくても辺りに隠れるところなんてない。車が一台通れるくらいの一本道が伸びているだけ。
道の先には小さく家々が見えているが、ここからはまだ少し遠い。
それ以外には田んぼ。青々と背の高い稲が伸びているので、その中に子どもが隠れることはできるだろうが、電車が通ったあの短い間にそんなところに隠れるなんて考えにくい。
やっぱり気のせいだな。
そう結論づけて、歩きはじめた。踏切をこえて家に向かう。
しばらく歩いた頃、何故だかわからないが、私は振り向いた。
……また、踏切の向こう側に、男の子が見えた気がした。先ほどとは位置が逆だが、向こうからこっちを見ている。電車は通り過ぎたばかりなので遮断機はあがっているのに、そこに立ち止まっている?
……そんな風に見えたのだがそれは一瞬のことで、改めてよく見ればもちろんそこには誰もいなかった。
なんだ。気にしすぎだな。
思って、今度こそ振り向かずに家まで帰ったのだった。
今年で二年が経つ。ユウ君が、電車に撥ねられて死んでしまってから。
人懐っこい男の子だった。幼稚園に通い始めたばかりだったはずだ。
私はその時中学生だったが、家が近くてたまに一緒に遊んであげていたので、そのことを聞いたときはひどくショックを受けた。
事故があるまではその場所には遮断機すらついていなかった。私が住んでいるところは十数戸の家が建っている集落で、学校や商店街のほうに出るには線路を越えて行くしかないのだが、逆に言うと日常的に線路を越える必要があるのはその集落に住んでいる人と田んぼの手入れをしに行く人くらいしかいないのだ。
買い物からの帰り道、ユウ君は、やってくる電車に思わず近寄りすぎてしまったらしい。子どもの好奇心からか急に走り出してしまい、一緒にいたお母さんも止めることができなかったほど一瞬の出来事だったようだ、と話に聞いた。
ユウ君のお母さんは目の前でそんなことが起こり、しばらくは半狂乱で会話も満足にできなかったがやがて落ち着き、今では道ですれ違えば以前のように笑顔であいさつしてくれる。
当時、近所は事故の話題でもちきりだったがそれも日が経つに連れて落ち着いていった。
そして、慌てたように遮断機がつけられた。
それで終わると、みんな思っていただろう。
次の年に、ユウ君が通っていた幼稚園の先生が電車に撥ねられた。
彼女はユウ君が亡くなってからも家族のことを気に掛けてユウ君の家をたまに訪ねていたらしく、その途中での事故だった。遮断機があるにも関わらず。
……原因はわからなかった。
視界を遮るものなんてないので電車の運転手さんからも見えていたはずなのだが、どうにもその時の記憶がはっきりせず、まわりに人がいたかどうかも定かではない。状況的に、急に彼女が飛び出してきたとしか考えられないということだった。
田舎なので、そういう情報は嫌でも聞こえてくる。
自殺をするような理由もなかったようだしユウ君の呪いなんじゃないか、なんて話が飛び交った。
ユウ君のお母さんだって、その噂は耳にしていただろうが、少なくとも傍から見る限りはいつも通り笑顔で過ごしていたので、少し安心したのを覚えている。
どちらの事故も、ちょうど今の時期だった。
梅雨が明けて空気に夏の気配が強く混じる、草の匂いが鼻をつくこんな時期……。
「じゃあ、また明日ね! ばいばい!」
学校からの帰り道。私は友達と別れて家の方に歩みを進める。
踏切を越えて帰るのは私だけだ。
カンカンカンカン
踏切の警報音が聞こえてきた。風景に似合わない、場違いな機械音。相変わらず辺りには誰も見当たらない。
普段、めったに踏切で引っかかることはないんだけれど、たまたま昨日と同じ時間に通りかかってしまったようだ。
やはり、気になって踏切の向こう側を見る。
誰もいない。
ちょっとほっとして、遮断棹が下りてくるのを何気なく見ていた。
その時。
くいっと軽く手を引かれた。線路のほうから。
あまりに予想していなかったので、私は何の抵抗もできずそのまま前のめりに足を踏み出して、下りきっていなかった遮断棹をくぐってしまった。
まず目に入ったのは、私の右手をつかんでいる小さな両手。すがりつくように、ぐっと力を入れて握っている。
そして目の前には、
「ユウ君……」
私はその男の子の名前を無意識に呟いていた。二年前に死んだ男の子の名前を。
ユウ君は、私の記憶の中のユウ君と何一つ違わなかった。人懐っこい笑顔を浮かべて、ちょっと甘えるように私に言うのだ。
「遊ぼうよ」
それは二年前と何も変わらなくて、逆に恐怖心が一気に駆け上がってきた。
「いやっ!」
叫んで、小さな手を振り払おうとしたが、相手もムキになって私の手をひく。
「どうして、遊んでくれないの?」
ユウ君が悲しそうな顔をした。
電車はもうそこまで迫っている。いつのまにか私は線路の真ん中に引っ張り込まれていた。
このままじゃ、轢かれる。
必死に抵抗して、なんとかユウ君の手を振りほどくと夢中で後ずさる。勢い良くしりもちをついてしまったが、ちょうどその目の前を、ユウ君の残像ごと電車が通りすぎていった。
……助かった。
そう実感するまでにどのくらいかかっただろう。一瞬だったのかもしれないし、随分長い間その場に座り込んでいた気もする。
もう、電車も通り過ぎて見えなくなっており、そこにはいつも通りの風景が広がっていた。
私は汗が冷えて体から体温が奪われていくのに気付き、ようやく立ち上がって家路をいそいだ。
頭のどこかでやめたほうがいいとわかっていたのに、私は振り向いてしまった。
……踏切の向こう側では、ユウ君が私の方を見ていた。
一段と寒さを感じて、私は家まで走って駆け込んだ。
一年前に亡くなった幼稚園の先生もユウ君に連れて行かれたのだろうか。
今年は私が連れて行かれるのだろうか。
ユウ君の顔を思い出すと、また恐怖が這い上がってくる。
私を電車の前に引っ張り込もうとした時のユウ君には、まったく悪意がなかったのだ。本当に、ただ遊んでほしいだけなのかもしれない。
私は、電車の通る時間を調べてその時間には踏切に近づかないようにした。電車の本数も少ないし、それほど難しいことではない。
それが功を奏し、あれ以来ユウ君の姿は見ていない。
そして、その出来事は結局誰にも言っていない。信じてもらえるかわからない、というのもあったが、ユウ君のお母さんに申し訳ない気がしたのだ。
そんなある日、ちょうど買い物帰りのユウ君のお母さんと出くわし、二人で一緒に帰ることになった。
すれ違うことはよくあるが、ゆっくり話すのは久しぶりだ。たわいない話をしながら歩いていたが、私はユウ君のことを言い出そうか迷っていた。
「こんなに話すの久しぶりねぇ。ユウと遊んでくれてたころはよく家にも来てくれたけど、今はそんな機会もないもんねぇ」
おばさんの方からそんな事を言われ、私は彼女の横顔を盗み見た。ユウ君のことを話したら、成仏できずに踏切に留まっているように思えて悲しむだろうか。
「おばさんね、今でもいつもユウのことを思い出しちゃうのよ。寂しい思いをしていないか、とか考えちゃうのよね」
穏やかな話し方がなんとなく悲しく聞こえて、私はやはり言い出せなかった。
カンカンカンカン
その音は、私の心臓を縮み上がらせた。
いつの間にか、例の踏切の前まで来ていたのだ。
もちろんおばさんはごく自然に足を止めた。私だって同じようにそうするが、気が気ではない。おばさんと二人でいるのだから、大丈夫だろうが……。
「ここを通るたびにユウに会えるから、おばさんは寂しくはないんだけどね」
間近で鳴る音がうるさい中で、おばさんは、確かに、そう言った。
「え?」
「ほら。今だってこんな近くにいてくれるもの」
おばさんの目線は、私の前方。それをたどると、私の視界にもはっきりとユウ君の姿が映る。
逃げなきゃ……。
本能的にそう感じたが、体が動かない。
以前と同じようにユウ君は小さな手で私を掴んで電車の方に誘う。
「遊ぼうよ」
まるで楽しいことが待っているかのように、わくわくした表情だ。
電車が、来た。
私はその小さな冷たい手を振りほどこうとするが、背後からはおばさんの声が聞こえた。
「ユウが寂しい思いをしないように、遊んであげてね。ユウが大好きだった幼稚園の先生にもね、同じことをお願いしたのよ」
振り向くとおばさんのやさしそうな顔があった。
おばさんは、かる〜く私の背中を押す。私が電車の前に踊り出るにはそれで十分だった。
これからもずっと、こんな事を続けるつもりだろうか。
私はこの親子をひどく憐れに思った。
しかし、それも束の間、電車が目の前に迫って……意識がなくなった。