嵐の日
第一部
ポツリ,ポツリと大地を穿つ音は次第に大きく速く,その勢いを増やすようになった。僕は不快感を覚えながら、空の急激な変化に、これは嵐が来るかもしれないなと思った。「おいフレデリック、さっさとセカンド打ってくれないか」と、苛立ちを露わにして僕を急かすのはフランツだ。彼と僕とそしてヨハンは音大時代のゴルフ部仲間で、久しぶりに三人でゴルフに行こうという話になって、ウィーン郊外の小さなゴルフ場にまで来たのだった。「わかったからちょっと待ってくれないか。失敗したら元も子もないだろう」そう言いながら僕は球を打った。アイアンで打ちだされたボールは美しい軌道を描いてピンに向かって飛んでいったが、結局グリーンよりわずかに手前のバンカーに落ちていった。あーあ。期待した僕が馬鹿だった。フランツがケタケタ笑っている。するとヨハンが「ドンマイ!ナイストライ!」なんて優しい言葉をかけてくれる。「下手なだけだって。止めてくれよ」僕はなんだか妙な恥ずかしさを覚えて咄嗟に言葉を返した。ヨハンは笑って悠々とグリーンへと向かっていった。
と、暗かった空が一瞬パッと光ったかと思うと数秒後にドーンという轟音が、自分の内にさえ響かせるように大地を揺さぶった。僕とフランツとヨハンは各々の歩みをピタリと止めて、互いの顔を慎重に見合わせた。誰も何も言わない時間が数秒続いたが、ついに耐えきれなくなったフランツが不安げに言葉を発した。「やばくね」「走れ!」ヨハンが指示を出すように言った。その声に、僕はようやく現状を理解できるようになって、次の瞬間には一目散に駆け出していた。するとすぐに、二発目の雷撃が近くの山に突き刺さった。「たしか次のホールの最後に避難小屋があったはずだ」僕らは一心不乱に安全地帯めがけて走りながら、僕は現在の危機的状況について考えていたが、一方でなんだか妙におかしくて仕方がなかった。こうやって三人で全力でダッシュするなんてほんとに久しぶりで、まるで大学時代に戻ったかのようだ。両脇を見ればフランツもヨハンもわずかに笑みを浮ばせているようだったから、きっと同じことを考えているのだろう。すると意外にも、ヨハンが声をあげて笑い出した。普段冷静なヨハンが柄にもなく大笑いするのが、またすごくおかしくて僕も思わず笑ってしまった。フランツはとっくに笑い出していた。
辺りは夜みたいに暗く、ただザーッという雨音と時折響く雷鳴だけが、この世全ての音のようだった。避難小屋は重心低くずんぐりした石造りで、中から人の話す声が漏れ出ていて、どうやら先客がいるらしい。「すみません。ちょっとよろしいかな?」さっきまでの馬鹿笑いが嘘のように紳士的な口調で、ヨハンは先客に話しかけた。すると中から応えがあった。意外にも女の声である。「どうぞ。お寒いでしょう。」そのイントネーションが、全く聞き覚えのないものであったから、きっとどこか遠い所からの人であろうと瞬時に判断した。ヨハンが小屋の戸を開け入るとそのあとをフランツが濡れた上着をパタパタしながら入っていく。僕は少し戸惑ったせいで半テンポ遅れで最後に戸の中に入った。僕は見知らぬ、それも女と話すとなると、どうも気が引けてしまうのだ。
暗がりの中で大学生らしき二人と、同じ年くらいの、日本人だろうか、女が並んで座っていた。彼女は名を小夜子といった。聞けばウィーン音大の留学生というから、随分と優秀なのだろうという印象を受けた。「楽器はなにを」「ヴァイオリンを」「ほう、ではヨハンに一度みてもらうといい。見た目こそ飄々としていて面白みに欠けるが、ヴァイオリンの実力は確かなものさ。」フランツが自分のことのように得意げに言う。僕も話すにはこのタイミングしかないと思って、慌てて付け加えた。「それには僕も同意する。ここで会ったのも何かの縁だろう。きっと習うといい。」「ええ。ありがとうございます。」彼女は控えめに、しかしわずかに嬉しさの混じった笑みを浮かべたのを僕は見逃さなかった。
カートの走る音が段々と大きく近づいてきたようだ。ようやく迎えが来たらしい。僕らは彼女たちから順々に外へ出た。彼女が「うーんっ」と伸びをする。いつの間にか雨はあがっていて、暮なずむ西空がこの奇妙な巡り合わせを朱色に彩らせている。座っているとわからなかったが、彼女はスラッとしていて背も高く、黒く長い髪は開放的に、風に流されるままに泳がせている。夕日を浴びた彼女の顔は、目鼻立ち整っていて、とても美しい。その手で、ヴァイオリンをどのように奏でるのか少し興味が湧いたが、もう二度と会うこともあるまいと思うとその気も失せてしまった。その時、僕は彼女と初めて目が合った。彼女の目はどこまでも透明な漆黒で、見ていると吸い込まれそうで、僕の落ち着きを簡単に奪い去ってしまう。彼女は僕に何か言いたげであったが、彼女は口元に出かかったその言葉を飲み込んで、やがて走り去ってしまった。僕は無念さと後悔の苦さを必死で口の中で溶かそうとしたが、その味は石のようでなかなか消えることはなかった。彼女らが行った後、フランツはにやにやしながらヨハンをからかおうとした。「ヨハン、お前これはチャンスだぜ」「フランツ、それはどういう意味だい?」「全く白々しいやつだな。絶対会いに行けよ―」僕は彼らのやり取りに少しばかり笑ったが、内心はとても乱れていたのだった。
僕は昔からチェリストになるのが夢だった。六才の時、ピアニストだった母に連れられて行ったコンサートで僕は初めてチェロの音と出会った。荘厳で聴衆の心を震わすような音、それでいて普段は目立たないのにある時ふと顔を出してくる様子が、とても好ましく思えたのだ。それ以来のめり込むようにチェロを弾き続け、気が付けば僕は、コンクールで何度か入賞するほどになった。十八になってパリ音楽大学に進学したときには、とても誇らしく、嬉しく思ったものだ。当時は一流のチェリストとして活躍するのだと当然のように信じて疑わなかった。
だが卒業後僕を待っていたのは、無慈悲なまでの不採用通知の紙吹雪だった。数多ある楽団を志望したがそのことごとくに落ちた。納得のいかない僕は理由を問いただしたが、ほとんどがこう返された。「君の演奏から、君が見えてこない。」僕は途方に暮れるしかなかった。卒業して二年が経ったが、未だにまともな職に就けずにいる。同級生だったヨハンは、大学を首席で卒業した後すぐに推薦を受けてウィーンの楽団に入った。フランツは、大学での成績は僕より下だったが、卒業とともに早々と楽器を捨て、親の経営するレコード会社に就職した。僕は僕だけが時間に取り残されていくように感じて、すごく苦しい。
あれから一週間が経った。今日も地元の楽団の選抜試験を受けたが、やはり感触は良くなかった。楽団の団長は面接で僕を前にしてこんなことを語った。「なんというかねぇ…。君の演奏は正確過ぎるんだよ。どこまでも無機質で温度のない演奏さ。君は音をなぞるばかりで中身はポッカリ穴が空いているようだ。」自分でも弾くという動作をただただ繰り返すばかりで昔のように熱い憧憬を見ることは無くなっていることに気が付いていた。だが、知っていてわざと無視した。意識すればチェロを弾くことさえできなくなる気がして怖かった。だが、いざ面と向かって言われれば、それを意識せずにそっと置いておくことはもはや不可能だった。僕は僕の胸に空いた洞について考えた。自分には何が足りないのか。自分なんて概念は元々それ自体で存在することなどあり得ず、他者という概念があって初めて成り立つ。僕の演奏に“自分の音”が無いのは、ひょっとすると僕の中に“他者の音”がないのかもしれない。だから僕の奏でた音は、誰の心も震わせることなしに単なる物理学的な波となって他者の耳に入りそして抜けていく…。僕は頭を振って雑念を追い出そうとした。そんなことを考えていると、なんだか“自分”がひどく遠くへ行ってしまうように感じて底知れぬ不安だけが胸の中に虚しく残るのであった。
玄関前に着くころには、辺りはすっかり暗くなっていた。電気をつけると、朝の慌ただしさを残す細長い一部屋が僕を出迎える。僕は背負ったずっしり重いチェロを無造作に壁に立てかけると、ダイニングの椅子に深々と腰を下ろした。窓の外を見ると、黒い空の下で遠くにウィーン中心街の灯りがオレンジ色に輝いている。その中で一際高いウィーン大聖堂がゆっくりと時の音を奏で始めた。夜の色が僕の暗く沈む気持ちを代弁してくれるように、ウィーンの街が優しく照らしているように思えて、そこはかとなくほろ苦い。彼女は今もあの街のどこかにいるのだろうか。ヨハンはあれから何度か彼女に会っているらしい。時の音が激しく鳴り響く。僕はよろめきながら立ち上がると、懐かしむようにゴルフクラブをそっと手に取った。グリップは心なしかまだ温かく感じる。僕はなんだか無性に練習がしたいと思い始めた。時を知らせる鐘の音はたった今鳴り終えた。僕は玄関脇に置かれたゴルフバッグを肩にかけると、夜の街に歩き出すことにした。
「二階の九番でお願いします」受付が僕に指示する。ここはウィーンでも有数のゴルフ練習場だ。三階建ての全150打席というから階50打席あることを考えるとその巨大さがわかる。二階の入り口をくぐると既にたくさんの人が一心不乱に球を打っている。煌々と照る照明がひどく眩しい。「十三、十二、十一、十、九…」九番までたどったはずの僕はその時、ひどく混乱を余儀なくされた。打席にはいるはずのない先客がいるのである。その先客は、水色のブラウスに白く長いスカートを履いてとてもゴルフをするような恰好ではなかったが、どこか見覚えのある女だった。まだ慣れていないのか、たどたどしい様子でゴルフクラブを振り上げ、下ろし、跳ね上げる。僕は声をかけるか迷ったが、やはり言うしかあるまいと心に決めた。「すみませんが、打席間違えてませんか?」すると女は振りかぶったクラブをそっと下ろし、機敏な動作でこちらへ振り返って僕の目を真っ直ぐ見つめた。「あっ」という声が二人の口から漏れた。それは、まぎれもない、あの日ゴルフ場で出会った彼女であった。
(つづく)